光明寺について

旧大日堂

被災前の大日堂.jpg

応永の兵火で真言時代の旧光明寺が焼失した時、焼け残った本尊大日如来を安置するために建てられた最初の草庵は三間四方であったという。その後、浄土教の光明寺が開基され、大日如来はこの場所にあったお堂で守られていた。しかし平成22年夏の歴史的な豪雨によりお堂(大日堂)は被災し、今はもう見られない。

旧大日堂

在りし日のそのお堂は間口二間奥行き三間半であった。解体の際に発見された棟札によると、このお堂は明治の代に建て替えられていたことが判明している。

豪雨被災直後の大日堂

豪雨により大日堂が被災した直後の内部も灯籠や燭台などが倒れてバラバラになっていた。しかし、かつて応永の戦火の際に難を逃れた大日如来は、今回も奇跡的に無傷であった。実に強運な如来である。現在は光明寺の本堂に安置されており、その姿を見ることができる。

被災直後の大日如来

行基作大日如来縁起

本堂背後に控えていた大日堂の御本尊大日如来御出現の縁起は、清末藩吉田宰判の資料に詳しく記載されている。以下一部を掲載する。

清末藩の古文書より
人王四拾五代聖武皇帝の御宇天平七年乙亥の二月勅命下したまひ、東国ハ奉澄法師、駿河より中国迄ハ行基僧正、九州をハ吉備大臣と此三賢に命ぜられ、国郡庄郷村の際目を分尺地も残さず記録して、同十七年五月迄十一ケ年の間巡回して叡覧に備え給ふ。時に行基僧正当郷に至り、或夜不思議の霊夢を見給ふ、高叟告て曰く「汝知らすや此地ハ是添も大日遍照の本国なり、故に大日本国と云ふ、みだりに寸尺を改ること恐れ有り、然に此山に霊木あり、大毘盧紗那仏の尊体を彫刻して供養すべし」と云云、僧正夢覚めてかんするに余り有り、其霊木を尋ね給う。不思議成るかな土中に毎夜ひかる物有り。掘り出し見れば楠の枯木也、僧正自ら大日如来の尊容をきざみ、此地ハ誠ニ未曾有の霊場也と、則チ一宇を立て本尊を安置し給う。(中略)往古より此尊に帰依する輩らは所願成就する事万民の知る所なり。
 
大日如来.jpg

当山大日如来は奈良の大仏建立で勧進を務めた高僧行基菩薩が、聖武天皇の勅命によりこの地を訪れ、霊夢のお告げによって大日如来を自ら刻み安置した如来と伝えられており、往古よりこの地区の守護佛として信仰されてきた。それゆえ当尊像は「地主大日如来」と呼ばれている。

伝承によると行基菩薩が大日如来を納めた堂は、大日ケ浴(美祢西インターの南側山手・原川支流の谷間)にあったという。平安の代に入ると、この大日尊を本尊とする真言伽藍が大いに栄えていたのだが、戦乱や飢饉によりいつしか諸堂は荒廃してしまい、大日如来は唯一残ったお堂に鎮座していたという。ある時、如来の額から草場山の麓へ向かって一筋の光明が放たれるという不思議な出来事が起こった。これを見た里の人々は如来のお告げであると感じ、光明が指し示した場所にあった真言伽藍へ大日如来を移したという。この不思議な出来事により移転先の真言伽藍は光明寺と号することになったのである。

その後この光明寺は荒廃数度に及びながらも法灯を伝えていたのだが、応永の兵火(室町中期)によりことごとく伽藍を焼失して本尊を残すのみになる。これを歎いた里人が三間四面の草庵を跡地に結び本尊を守っていたのである。光明寺の北隣りには城山と呼ばれる小高い山がある。砦が築かれていた場所だといわれ、往時を偲ばせる石垣が今も残っている。応永の兵火の際には、光明寺の周辺では激しい戦いが繰りひろげられたのであった。

余談だが、我が宗の総本山も「光明寺」と号するので、その縁起も紹介しておこう。総本山の場合は法然上人のご遺骸をおさめた石棺から西山栗生広谷の地へ光明が放たれたため、その場所にあった念仏三昧院にご遺骸を運 び、御火葬と埋葬が行われている。この縁起により念仏三昧院は朝廷より「光明寺」の寺号を賜り今日の総本山光明寺となったのである。

光明寺本堂に移された大日如来

さて、度々の危機を奇跡的にくぐり抜けて来た大日如来像のその後であるが、詳しくは光明寺縁起に記載の通りである。真言寺院であった光明寺は伽藍焼失からおよそ180年後、天正年間に浄土教寺院として復活し、江戸初頭には厚氏の菩提寺てあった曼陀羅寺の引寺を機に栄えることになる。その後、江戸中期になると、大日堂に奉られていた大日如来が牛馬の守護佛として広く人々に知られることになり、絶大な信仰を集めたのである。その威光は今日では想像も出来ないほどのもので、いわば光明寺が最も繁栄した時代であった。

地方の小堂にこのような貴重な佛が眠っているとはにわかには信じがたい伝承であるが、今となってはこれを証明する手だては無いに等しい。真偽の議論は学者や研究者にゆだねるとして、少なくともこの如来の気品と慈悲にあふれた姿を前にすると心が洗われるのは事実である。

※平成22年の豪雨災害のため、現在大日如来像は光明寺本堂に移設しています。

大般若経と転読修行

大般若経の一部.jpg

大般若経は一箱に五十巻の般若経典が収めてある。全部で十二箱あり都合六百巻の膨大な量である。このお経をインドから持ち帰り漢文に翻訳したのが、唐代の僧であった玄奘である。法相宗・俱舎宗の開祖で河南の人という。629年長安を出発し天山南路からインドに入り、ナーランダー寺の戒賢らに学び645年帰国後「大般若経」「俱舎論」「成唯識論」など多数の仏典を翻訳している。孫悟空の物語「西遊記」でよく知られている「三蔵法師」とはこの人である。

大般若転読修行

毎年四月二十九日の大日祭では、大般若経六百巻の転読修行が行われる。転読とは経典の一部を読み上げながらパラパラめくることで、いわば経典の功徳を風に乗せて取り出すのである。(一説には経典の虫干しも兼ねているといわれる)当日は多数の僧侶により次々と転読されるのだが、六百巻となるとさすがに時間がかかる。昔は大変ていねいに行われていたようで一日がかりであったという。

大般若転読修行

大日祭の勤行が開始されると、まず導師による洒水(お浄めの儀式)が行われ、次に「疏」が読み上げられる。疏では大日如来の縁起と如来に対する報恩感謝の言葉が恭しく述べられる。ひとしきり読経が行われると、いよいよ大般若転読が始まる。参詣の老若男女は転読が始まると次々と大日如来の宝前へ進み焼香を行う。その際に導師は参詣者の頭上でぶ厚い経典をパラパラとめくり経典の功徳を降り注ぐのである。

新本堂での大般若転読修行

導師が参詣者の頭上で転読する経典は大般若経第五百七十八巻「理趣分」といい、六百巻の中でも最も大切とされる経典である。焼香を行い合掌して頭を下げると、この経典で導師が背中をポンポンと叩いてくれる。参詣者はこの儀式を受けることで一年の無病息災を授かる。これが大般若転読修行の功徳を頂戴する刹那であり醍醐味である。

旧大日堂の鰐口

大日堂の鰐口.jpg

鰐口は真言系寺院等でよく眼にすることが出来る。お堂の入口に下がるっている金属製の薄い太鼓状になった鐘で、我が宗派の本山でも、総門をくぐってすぐ左にある閻魔堂で見ることが出来る。神社の大鈴と同様の用途で使用され、参詣者が打ち鳴らすのである。旧大日堂に設置してあった鰐口は、江戸期に人々の寄進により設置されており、大阪高津の職人が制作したものである。彫り込まれている文字は次の通りである。なお平成22年秋以降は光明寺本堂の向拝に移設している。

奉寄進大日如来御宝前 長州美祢郡厚保邑 曼陀羅山光明寺傳空代
寛政十一戌未三月吉日
長尾村平沼田村嶽村駒ケ坪村鍛冶屋原村中村下村梅河内村
若連中 治工 大阪西高津町新道住 今村清次藤原吉久作

牛馬祈祷と生類供養塔

旧光明寺御本尊大日如来座像

清末藩の記録等によると、往古から生きとし生けるもの全ての守護佛として篤く信仰されてきた大日堂の「大日如来」であったが、やがて我々人間のみならず牛馬等の動物たちに対しても格別の加護を授ける佛として、北部九州や中国地方全域にまで広く信仰を集めることになる。それは江戸中期のことであった。 各地で牛馬の疫病が大流行したが、当大日堂で祈祷を受けた牛馬はことごとく疫病から守られたのだという。大日堂へ登る急な石段には「牛馬祈祷」の文字が今も残っているが、当時、農耕や商業を生業とする者たちにとって牛馬の健康と安泰そして供養がどれほど重要であったかを考えると、絶大な信仰を集めていたというのもうなずけるのである。

さて、戦後もしばらくは牛馬を連れて祈祷や供養を行う人があったと聞いているが、今日その対象は明らかに牛馬ではなくなった。我々にとって今大切な生類(動物)とは、それはずばり我が家の愛するポチやタマであろう。言葉は交わせなくとも安らぎを与えてくれる存在であり、時に励ましとなってくれる彼ら。動物であって動物以上の隣人、いわば家族の一員である。周囲が何と言おうと自分にとっては何者にも代え難い大切な存在である。そしていつか訪れる彼らとの別れ。他人には理解できぬ喪失感。当人にとっては親兄弟との別れとなんら変わりはなく、そこには救いが求められているのである。

生類供養塔.jpg

そんな彼らにも大日如来の慈悲の光が遍く注がれてしかるべきであろう。そのひとつの答えが大日堂広場の生類供養塔である。施主の深い思いと共に、彼らはこの供養塔の石棺で安らかに眠っている。

※関連情報 生類供養(ペット供養)のご案内

弘法大師八十八ケ所霊場記念石碑

弘法大師八十八霊場完成記念碑

八十八ケ所霊場の完成記念碑である。大正四年の秋に大日如来を信仰する人々の寄進により建設されている。石碑に彫り込まれた文字は次の通りである。なお、八十八霊場に関しては別のコーナーに掲載している。そちらを参照願いたい。

弘法大師八十八ケ所石建設記念碑 紀元貳千五百七十五年 大正四年十一月
當山第廿一世住職蘭空香岸代
世話人 坂 準一 長田忠六 三村鶴吉 大友怚輔 岡本清一 岡田政之進

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