山門横には鐘つき堂の跡が残っている。戦前まではここに梵鐘があったのだが、戦時中に供出されており、今は境内の違う場所から移転させた奉納塔と厚氏の墓石が据えてある。奉納塔は一見大型の墓石に見えるが、これは先亡供養の為に浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を寺に納め、その証として建立された供養塔である。
石碑側面には二名の戒名が掘られており、いずれも院号が授与されている。俗称からみても、両人とも武士であることが解る。背面の文字によると二十四年後の嘉永六年に、両名の二十五回忌供養で門弟一同によって建立したとある。實相院廓道朗然居士の記録は光明寺の過去帳にも残っている。寒月院釋凋山秀智居士は浄土真宗の法名であろう。施主が門弟一同とあることから、剣術道場等の関係者による供養ではなかろうか。困難とは思うが、ここまで丁重な供養を行うことになった経緯を調べてみたくなる事例である。
奉納三部経塔
文政十二年巳丑秋九月六日卒三十五歳 實相院廓道朗然居士 俗稱 來原佐冶馬清次
文政十二年巳丑冬十一月十二日卒七十歳 寒月院釋凋山秀智居士 俗稱 西田佐仲清成
文政十二年巳丑秋九月六日卒三十五歳 實相院廓道朗然居士 俗稱 來原佐冶馬清次
文政十二年巳丑冬十一月十二日卒七十歳 寒月院釋凋山秀智居士 俗稱 西田佐仲清成