光明寺について

厚氏の墓石(五輪塔)

地頭厚氏の墓.jpg

平安中期頃より真言寺院として当地に存在していた光明寺は、室町中期の応永の戦火によりことごとく伽藍を焼失した。かろうじて残った本尊大日如来は、里の人々が結んだ三間四面の草庵でひっそりと守られていたという。その後、光明寺が復活するのは約180年後の天正年間、織田信長の時代であった。江戸初頭になると厚氏の菩提寺(曼陀羅寺)が引寺され、浄土教の念仏道場としてますます繁栄することになる。引寺の際には厚氏の墓石群の一部が移されており、五輪塔が今も境内や寺墓地に残っている。

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