光明寺について

光明寺の大銀杏

十夜会の光明寺

光明寺は大昔から真言伽藍があった土地に建つのだが、浄土教寺院としてはある意味まっとうでは無い伽藍配置である。何よりもまず気になるのは本堂の方角である。浄土教寺院の多くは東向きに構えているものである。なぜなら本尊阿弥陀如来は西方浄土の教主であり、我々衆生が弥陀に手を合わせるとき、西に向かって拝むようになるのが理想的だと考えるからである。ところが光明寺本堂は西向きである。しかも、その本堂の正面には巨大な銀杏がある。

「どうしてこんな 所に植えてあるんだろう」と、ずっと思っていた。大変邪魔というか、不都合なことが多くて困るのである。おそらく市内でも最も高い樹木であろう。測ったように正確に本尊の真正面にあるところを見ると、それなりの意図があってのことと思うのだが、誰が今日のこの姿を想像していたであろうか。万が一倒れたらなどと考えるのも怖いのだが、これだけの大樹となると今となっては手の出しようが無い。初秋になると大量のギンナンが落ちてきて強烈な臭いに悩まされる。素手でふれようものなら、かぶれて大変なことになる。ギンナンが終わると今度は色づいた扇葉が大量に降り積もる。それもバサバサと音を立てながら降るのである。

光明寺の大銀杏

さて、そんななんともやっかいな巨木であるが、ある時この銀杏が本尊の真正面に存在する理由らしき現象に気付いた。ご存じの通り、彼岸になると夕日は真西に落ちて行く。この時、光明寺の銀杏の幹が作る真っ直ぐな陰は、本堂の阿弥陀如来に向かって一直線に伸びたまま夕闇が訪れるのである。

天文学が非常に発達していた古代マヤ文明や、古代エジプトなどに見られる神殿では、年に数回だけ、太陽の光と影により作り出される特異な現象や光が差し込む神聖な場所の存在が知られている。これらには非常に重要な意味が込められていたという。光明寺で彼岸に観察出来る少々ドラマチックな夕暮れも同様に思えて来たのである。

彼岸の頃に見られる大銀杏の影

ひょっとすると傳空上人は旧本堂を再建する際に、今日のこの姿を意図していたのかもしれない。この場所の東側は草場山へと続く稜線のすそであり、山を背にすると西を向く土地である。このような立地条件であれば、京都の東山に多数ある有名寺院の例に習い南向きに建てる選択もあったはずである。なのに西を選択している。しかも正真正銘の真西であり、正面には天高く伸びる銀杏である。初めて気づいたのは建てかえ前の旧本堂の階段に腰を下ろして目の前の巨木を眺めていた時だった。 「きっと先人たちの意図があったにちがいない...」と。

▲PAGETOP