本堂背後に控えていた大日堂の御本尊大日如来御出現の縁起は、清末藩吉田宰判の資料に詳しく記載されている。以下一部を掲載する。
当山大日如来は奈良の大仏建立で勧進を務めた高僧行基菩薩が、聖武天皇の勅命によりこの地を訪れ、霊夢のお告げによって大日如来を自ら刻み安置した如来と伝えられており、往古よりこの地区の守護佛として信仰されてきた。それゆえ当尊像は「地主大日如来」と呼ばれている。
伝承によると行基菩薩が大日如来を納めた堂は、大日ケ浴(美祢西インターの南側山手・原川支流の谷間)にあったという。平安の代に入ると、この大日尊を本尊とする真言伽藍が大いに栄えていたのだが、戦乱や飢饉によりいつしか諸堂は荒廃してしまい、大日如来は唯一残ったお堂に鎮座していたという。ある時、如来の額から草場山の麓へ向かって一筋の光明が放たれるという不思議な出来事が起こった。これを見た里の人々は如来のお告げであると感じ、光明が指し示した場所にあった真言伽藍へ大日如来を移したという。この不思議な出来事により移転先の真言伽藍は光明寺と号することになったのである。
その後この光明寺は荒廃数度に及びながらも法灯を伝えていたのだが、応永の兵火(室町中期)によりことごとく伽藍を焼失して本尊を残すのみになる。これを歎いた里人が三間四面の草庵を跡地に結び本尊を守っていたのである。光明寺の北隣りには城山と呼ばれる小高い山がある。砦が築かれていた場所だといわれ、往時を偲ばせる石垣が今も残っている。応永の兵火の際には、光明寺の周辺では激しい戦いが繰りひろげられたのであった。
余談だが、我が宗の総本山も「光明寺」と号するので、その縁起も紹介しておこう。総本山の場合は法然上人のご遺骸をおさめた石棺から西山栗生広谷の地へ光明が放たれたため、その場所にあった念仏三昧院にご遺骸を運 び、御火葬と埋葬が行われている。この縁起により念仏三昧院は朝廷より「光明寺」の寺号を賜り今日の総本山光明寺となったのである。
さて、度々の危機を奇跡的にくぐり抜けて来た大日如来像のその後であるが、詳しくは光明寺縁起に記載の通りである。真言寺院であった光明寺は伽藍焼失からおよそ180年後、天正年間に浄土教寺院として復活し、江戸初頭には厚氏の菩提寺てあった曼陀羅寺の引寺を機に栄えることになる。その後、江戸中期になると、大日堂に奉られていた大日如来が牛馬の守護佛として広く人々に知られることになり、絶大な信仰を集めたのである。その威光は今日では想像も出来ないほどのもので、いわば光明寺が最も繁栄した時代であった。
地方の小堂にこのような貴重な佛が眠っているとはにわかには信じがたい伝承であるが、今となってはこれを証明する手だては無いに等しい。真偽の議論は学者や研究者にゆだねるとして、少なくともこの如来の気品と慈悲にあふれた姿を前にすると心が洗われるのは事実である。
※平成22年の豪雨災害のため、現在大日如来像は光明寺本堂に移設しています。