こだわり住職のよもやま話

2010年

今も昔もPCはブラックボックス

2010年10月22日

復活した親指シフトPC.jpg

坊さんになってからの私は、パソコンをいじり倒す生活からすっかり遠ざかっていました。新しいソフトをインストールするなんてこともほぼ皆無の状態でした。私がメインに使用しているPCのOSは一応Vistaですが、オフイスソフト(ワード・エクセル等)は、在職中から使用していたXPバージョンのままです。よく使うフォトショップはバージョン7ですし、イラストレーターはバージョン10と、これまた在職中に使用していたものです。ですから私はすっかり浦島太郎状態です。でもそのおかげ(?)か、PCに問題が発生することはほとんどありませんでした。ところがどっこい、先日ひさしぶりに私のPC、浦島太郎号に不具合が発生しました。ブログの更新に使用していたソフトがエラーで起動しなくなったのです。その後、2週間近く投稿が出来ない状態で放置することになりました。ちょうどその頃、山寺には珍しく、お葬式や法事等が続いてちょっと忙しかったのです。それで復旧作業はどんどん先送りになってしまい、結局復活したのは昨夜でした。

思えば私のPC歴もずいぶん長くなりました。今やPCは一家に一台どころか複数台ある家庭も多くなり、すっかり家電製品です。WEBサイトの閲覧は常識ですし、年末になると年賀状の印刷でお世話になっている家庭も多いことでしょう。PCは「ソフト次第で何でも出来る便利な道具」だなんて言われていた頃もありましたが、裏を返せば「ソフトがなければただの箱」でもありました。PCが出回り始めた当初からいじり倒して来た私にしてみれば、今日のPCは信じられないくらい高性能になって用途も実に多彩になりました。価格も随分リーズナブルになりました。まさに隔世の感があります。しかし、今も昔も変わっていないのは相変わらず何かのきっかけで動作がおかしくなることが結構ある事です。それらの障害は機械的な問題とソフト的な問題が複雑に絡み合って発生します。そして、そういう時に痛感するのはPCがいまだにプラックボックスみたいなものであることです。不幸にも問題が発生するとその原因究明は大変難しくて、我々一般人には手にあまる例が実に多いのです。PC上で稼働するソフトウエア(プログラム)は信じられないくらいに巨大化し複雑になりました。そして、多くのプログラムは大なり小なりエラーを起こしかねないプログラミング上の問題点(バグ)を内包したまま、見切り発車で出荷されています。新しいソフトが発売されると間もなくユーザーから数々のクレームが上がり、それを解消する為の修正プログラムがネット上で次々と公開されます。発売当初から修正プログラムが用意されているケースさえあります。大袈裟な表現かもしれませんが、多くのソフトウエアには故意ではないがいわば小さな地雷みたいなものが含まれています。だからいつエラーが発生しても不思議ではないのです。

そういう話を聞かされちゃうと「問題が無いようにきちんと確認してから販売しなさいよ」と苦情の一つも言いたくなる訳ですが、PCとはユーザーが好き勝手にさまざまなソフトをインストールして使うものですから、同じ条件(環境)のマシンはありません。ですから、あらゆる条件で厳密な動作確認を行って出荷する事は事実上不可能なのです。本来なら「不良品」なのかもしれませんが、PCの世界ではそれが普通です。説明書やマニュアルに書いてある通りに動作しない事がよくあって、恐ろしいことにそれが普通なのです。今日では量販店等で安売りされるごくありふれた家電製品になりましたが、今も昔もPCとはバグ(不具合)が必ずついて回る「不完全な道具」であり、他の電化製品とは明らかに異質な「実に信頼性の低い商品」なのです。程度の差はあれども大なり小なり問題がある可能性が極めて高い商品が、じゃんじゃん販売されているのですから、見ようによっては相当異常なことだと思います。

さて、長い間私のPCはソフトの更新をすることがなかったのですが、今回常用するプログラムにエラーが発生するようになったので、その解消の為にレジストリのクリーニングなど(この作業はかなりリスクが高い)さまざまなメンテナンスを行ったこともあり、思い切ってオフイスソフトを最新の2010バージョンにアップグレードしました。浦島太郎号にとっては待望のニューウエポン導入です。雑誌等の情報で承知はしていましたが、新版はメニューの構造が大幅に変更されており、しばらくは使いにくいでしょう。でもこれは慣れるしかないですね。OSもそろそろWindows7に乗りかえるべきかもしれません。そうなるとPC本体も更新するのが最良なのですが、いかんせん私が使用する親指シフトキーボード仕様のノートPCは、富士通しか生産していないので恐ろしく割高になります。どうしても躊躇してしまいます。さーて、どうしましょうかねー。

再び「南無あきら菩薩様」

2010年10月04日

休耕田の草刈り.jpg

本堂で書き物をしていると駐車場に車が止まる音が聞こえました。「誰だろう?」と思っていたら、責任総代の藤井 昭さんでした。顔を合わせると「住職、田んぼの草が随分伸びたから刈ってもいいかなー」です。「刈ってもいいかなー」だなんて実に昭さんらしい言い回しです。良いに決まってるのにね。この場所は年三回は草を刈りますが、雑草の成長が早くてなかなか追いつきません。昭さんには、夏法座の直前にも持参した乗用草刈り機で刈って頂きました。その時の事は6月24日の記事(南無あきら菩薩様)に書いてありますが、実に素晴らしいタイミングでした。今回も再び「あきら菩薩様」としてご来山です。我々は時々、世の為人の為に労を惜しまない行動される人を「菩薩のような人だ」などと呼んだりしますが、この「菩薩」という言葉、けっこう広い意味を持っています。広辞苑を引くと、

(1)〔仏〕さとりを求めて修行する人。もと、成道以前の釈迦牟尼および前世のそれを指して言った。後に、大乗仏教で、自利・利他を求める修行者を指し、自利のみの小乗の声聞(しょうもん)・縁覚に対するようになった。また、観世音・地蔵のように、仏に次ぐ崇拝対象ともされる。菩提薩〓(ぼだいさった)。(2)朝廷から碩徳(せきとく)の高僧に賜った号。また、世人が高僧を尊称して用いる号。「行基―」(3)神仏習合による日本の神の尊号。「八幡大―」(4)米の異称。浮世風呂(4)「―様をかやうにまづ、柘榴口(ざくろぐち)へまきちらしてお捨なさるといふは」(5)雅楽。林邑楽の一つ。唐楽、壱越調(いちこつちょう)の曲。一人舞。舞は廃絶。

とあります。(4)や(5)は少々ピンと来ませんね。我々にとって「菩薩」といえば、やはり(1)の菩薩でしょう。日本人にとって一番身近な菩薩といえば、観音菩薩(観世音菩薩)が真っ先に思い浮かぶかも。それと、お地蔵さんも「地蔵菩薩」が正式な呼び名です。菩薩は、厳密にいうと仏の一歩手前の状態なのでしょうが、我々衆生からみれば観音さまも、お地蔵さんも、完全なる仏である如来(阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・釈迦如来など)となんら変わらぬありがたい仏様です。菩薩さんは基本的に現世利益の仏さんですから、我々衆生にとってはひときはありがたいのですあります。私も「あきら菩薩様」の広大なご利益に浴して、大変助かっているのであります。あーありがたや、ありがたや。再び「南無あきら菩薩様」であります。

ずいぶん広く感じるものです

2010年09月28日

大日堂の撤去1.jpg

7月15日の豪雨で被災した大日堂の撤去作業が遂に完了しました。複数の業者さんに見積もりを依頼しましたが、提示された金額はいずれも相当な額でした。実施するとなると、この支払いが発生するのですから山寺にとっては大きな決断が必要でした。それで私の心はずっとブルーでしたが、檀家の木地建設さんが破格の見積もりを提示して下さったので、無事処置することが出来ました。たぶん相当な赤字でしょう。ありがとうございました。

大日堂の撤去2.jpg

大日堂があった場所はご覧の通り完全に更地となりました。建物が無くなるとずいぶん広く感じるものです。生類供養塔はあの日からずっと一部が土砂に埋もれたままの状態でしたが、ようやく元の姿に戻りました。

撤去後の大日堂広場.jpg

大日堂の仏像と仏具は、まるごと光明寺の本堂に移設しました。今後大日祭はこちらで行うことになります。

本堂へ移転した大日如来.jpg

鬼瓦と向拝に取り付けられていた立派な彫刻は保存してあります。大日堂の再建がいつになるか解りませんが、この広場に建っていたことを思い出させる貴重な品です。

大日堂の彫刻.jpg

軽い気持ちなんでしょうが

2010年09月24日

厚保栗.jpg

山寺の周辺は今やブランド栗となった「あつ栗」の産地なので、秋になると毎年「栗ドロボウ」の被害に悩まされます。他人の山へ勝手に入り込んで栗を持ち帰ろうとする輩が絶えないのです。昨日も寺のすぐ目の前で警戒中の私服警官が栗ドロボウを取っ捕まえるところを偶然目にすることになりました。

犯行現場は光明寺のほぽ正面、県道ぞいの栗山です。ここは毎年のように被害が発生しています。道路端に車を停めれば至って手軽に実行可能な場所です。それで狙われやすいのでしょう。でも他人の土地にあるものを勝手に持ち帰れば、たとえわずかな量でも立派な「窃盗」です。ましてやこの地区の栗はブランド栗として手間のかかっている大事な商品です。生産者にしてみれば許せない行為です。しかし、捕まえた犯人達に罪の意識は至って乏しいそうです。毎年取り締まりに当たっている地元の駐在さんから聞いた話ですが、「ほんの軽い気持ちで」っていうわけです。まったくもって困ったものです。日本人が失った大事なものの一つが「道徳心」だと誰かがいっていましたが、つくづくそうだと思います。

突然秋です

2010年09月23日

9月23日の本堂前.jpg

一昨日(21日)は真夏のように暑い一日でした。全国的にもこの時期としては記録的な残暑であったとニュース番組が報道していました。もう9月下旬だというのにどうなってるんでしょうね。昨日午後からは季節の変わり目にお約束の雷が轟いて、少々まとまった雨が降りました。夜半過ぎからは北風が吹きはじめて今朝は随分気温が下がりました。彼岸の中日となる本日(23日)はすっかり様変わりです。本堂の室温計は午後1時の時点で21.6度・湿度64%でした。たぶん本日の最高気温でしょう。一昨日はほとんど真夏だったのに今日から突然秋です。本堂で耳を澄ますと周囲の状況が激変したのが良く解ります。ほんの数日前まではセミの鳴く声が聞こえていました。それが今日は北風にざわめく木々の音と虫の音色が耳につきます。コオロギの音色を聞くとセンチメンタルな気分になるのは私だけでしょうか。

9月23日夕暮れ.jpg

本日は彼岸ですから夕日は真西に沈んで行きました。春の彼岸と同様に大銀杏の影が御本尊に伸びた直後に山寺は日没を迎えました。本堂前の石畳には先週から色づいたギンナンが落ち始めました。毎年この時期は強烈な臭いに悩まされるのですが、今年は極端に少なくて助かっています。今夏の異常な暑さの影響かもしれません。

暑さ寒さも彼岸まで

2010年09月19日

彼岸花と光明寺.jpg

本日は古川家の開眼供養を行いました。日が高くなると暑いので朝日を受けながらきっちり読経させて頂きました。施主の古川安子さんは一人住まいです。ご主人はすでに他界されており、子供さんは県外におられます。未曾有の豪雨となった今年7月15日の朝、私は古川さんのことが心配で電話をかけましたが、ご本人は隣家へ避難されていたので結局声を聞けたのは2日後でした。自宅がある集落は土砂崩れで道路が通行不能となり一時孤立状態でした。後に訪ねると古川さんのご自宅は無事てすが、残念なことに先祖代々の墓所が土砂崩れで完全に破壊されていました。お会いする度に「ご先祖様に申し訳ないことです」と口にされていましたが、この度新しい累代墓が完成しました。以前の墓所は山の斜面で少々不便でしたが今度のお墓は車で横付け出来ます。さぞや安堵されたことと思います。お彼岸にも間に合いましたし本日はこの上なく吉辰であります。

さて明日は彼岸入りです。「暑さ寒さも彼岸まで」と昔の人は言いました。日中の日差しは相変わらず強烈ですが、さすがに夜間の気温は随分下がるようになりました。「日暮れがずいぶん早くなったなー」と感じるようになったので、調べてみると本日の日の入り予定時刻は18時16分(山口)です。今年一番遅かったのは6月30日の19時30分ですから、すでに一時間以上早くなっています。ついでに本日と同じ日の入り時刻の日を遡ってみるとなんと3月9日です。山寺は今春思いがけない大雪に見舞われたのですが、9日はその前日です。日暮れの時刻は同じなのですが、春と違って今は厳しい残暑です。ずいぶん違うものですね。

百日紅が孤軍奮闘です

2010年09月09日

百日紅.jpg

山寺は一昨日、昨日と台風9号の影響で雨が降りました。関東では集中豪雨となって大変なことになっていますが、こちらでは正に「慈雨」でした。ずっと日照り続きだったので人間にも植物にも実にありがたかった。本日は朝から再び強烈な日差しです。もう少し雨が欲しかったですね。今年の夏は各地で「観測史上最高だ」とか「何十年何百年ぶりの出来事だ」などと、雨量や気温の記録更新が連発です。下関地方気象台のホームページを開くと、山口県内全観測所で8月の平均気温が観測史上最高になったと報じていますが、「そうだろうなー」と軽く受け流せるのが、今夏の厳しさを物語ります。本当にめちゃくちゃ暑かったですからね。山寺では境内の植物が枯れそうになって困りました。元々西向きで乾燥が激しい場所です。ですから夏期の水やりは欠かせません。ホースをあっちこっちに伸ばして頑張ったのですが被害は免れませんでした。今後も毎年こんな状況になることが充分予想されます。こうなると植える植物をしっかり吟味しないといけないのでしょうね。

ところで今年のような過酷な環境でも平気な花木もありました。本堂の前にある百日紅(サルスベリ)がそうです。この時期山寺の境内で目を引く花といえはこれです。まさに孤軍奮闘状態で咲いています。字の通り長期間(百日間あまり)紅色の花が咲き続けます。それで「百日紅」と書くのだそうです。だから花は紅色が標準なのですが、今日では品種改良でしょうか下の写真のような白花品種も見られます。こちらの百日紅は2年前に檀家の岩﨑幸三さんから苗木を頂戴したものです。今年から本格的に咲くようになりました。山門前の休耕田に5本まとめて植えてあるので結構目を引きます。大木になればさらに見栄えがするでしょうから先が楽しみです。

白花百日紅.jpg

今シーズンになって気づいたのですが、私の実家には薄紫の花を付ける百日紅がありました。(かなり昔からあったようです)「灯台下暗し」とはまさにこのことですね。この苗木を育てて3色目を植えることが今後の宿題です。百日紅は乾燥に強く手間がかかりません。花の少ない時期に長期間咲き続けますから貴重です。山寺のように厳しい環境の場所には実に都合の良い花木です。なんといっても水やりが不要ですから助かります。「よーし、いろんな品種の百日紅を植えまくって百日紅寺でも目指すかー」なんちゃって。

久方ぶりのアルコール漬け

2010年08月29日

ワイン.jpg

昨夜(28日)は若い頃からの友人であるマサ坊(河野正朗君)の結婚祝賀会がありました。彼がついに一生の伴侶を射止めましたので、両人を市内の宴会場(飲み屋)へ招いて、まだ日も高い夕方5時頃から20人あまりでドンチャン騒ぎを繰り広げました。昨夜の祝宴に集まった面々は、若かりし頃に度々夜遅くまで共に過ごした仲間達です。今では死語となりましたが「青年団」という懐かしい響きを持つ組織の最後の残党が我々でした。青年団はボランティア団体的な若者グループであり、我々には毎年重要な任務がありました。それは地元の夏祭り(盆踊り大会)の主催です。今では行政からの支援も手厚くなり、公民館を中心とした各種関係団体が合同で実行委員会を立ち上げて開催する行事となりましたが、我々が若かった頃は伝統的に地元の若者グループ(青年団)が主催していました。事前の準備・前日からの会場設営・当日の進行・翌日の後片付と、やることは山のようにありました。特に事前の準備には大変な時間を要しました。我々はそれらの業務を限られた人数でこなしていましたので、毎夜のように集まって遅くまで活動したものです。ハッキリ言って仕事よりもこちらを優先した日々でした。若かったとはいえ今振り返るとずいぶん無理なことをしていたものです。

さて、そんな訳で互いに遠慮なんてこれっぽっちも持ち合わせていない(?)連中が久しぶりに集合したのですから、二次会三次会は朝飯前です。最後には極めつけの悪友6人が、あろうことか河野夫妻の新居へ押しかけ てシメの酒宴を繰り広げました。結局我々が河野家を後にしたのは日付けが変わってからですから、実に7時間あまりも延々と飲みっぱなしです。マサ坊の嫁さんにもずっと付き合わせちゃいました。ずいぶん迷惑な連中ですが、散会の際には笑顔で「また遊びに来て下さいね」なんて実に有りがたい言葉を頂戴しました。あー有りがや有りがたや。 (本当にまた遊びに行っちゃうのが我々ですから知りませんよー)

私は常日頃は一滴も飲みませんが、下戸ではありませんのでこういう機会では人並み以上に頂戴しております。他人からすすめられたら断れないない性分です。結局いくらでもグラスを傾けてしまいます。おかげで昨夜はどっぷりとアルコール漬けになりました。坊さんのくせに大酒くらったのを白状するのは少々気がひけますが、マサ坊のお祝いですから「きっと阿弥陀様も大目にみてくださるだろう」と勝手に解釈しております。僧呂の世界では酒を「般若湯」と申しまして、実にありがたいお水(湯)ということになっております。そして「酒は飲んでも飲まれるな」を実践すれば「良いではないか」ということにも成っているようであります。

まさに災害特需です

2010年08月24日

共同墓地の豪雨被災現場1.jpg

私は毎年お盆が終わると近くの温泉で膝の療養を行うのですが、今年は後回しになったままです。7月15日の豪雨災害により山寺周辺では崖崩れが多数発生しました。そして多くの墓地が大なり小なり被災し、お墓の改修や移転が必要になった家が少なくありません。それで、お盆のお参りに伺うと「お墓が被災したので後日読経に来て欲しい」という依頼が沢山入りました。その対応を盆明けから行う事になったので16日以降もけっこう忙しかった。

被災現場へ行ってみると墓石の一部が土砂で埋まっていたり、墓所の一部が崩れて危険な状態になっているお墓が沢山ありました。墓所全体が完全に破壊されてしまったケースもあります。写真は山寺の近所の共同墓地で発生した土石流です。見事に山が崩れ去っており、にわかには信じられない様な光景でした。不謹慎な発言ですが、現在地元の業者さんは「災害特需」で大忙しです。秋の台風シーズンまでに最低限の対策は施しておかないと、また災害が発生する恐れがあります。だからみんな焦っています。山寺もそのあたりの事情は同様で、被災した大日堂をいつもまでも放置しておけません。しかし撤去するにも相当な費用が必要ですから正直困り果てています。

共同墓地の豪雨災害現場2.jpg

さて、大日堂の背後が崩れて山寺は大変なことになりましたが、幸い霊場霊園に関してはまったく問題ありませんでした。あれほどの豪雨でもどうってこと無かったのですから、たぶん今後も大丈夫でしょう。今回の被災を機にお墓をこの霊園に移すことを考えられている檀家は結構あるようです。先日も2区画売約が成立しました。こちらもいわば「災害特需」です。今後はパタパタとお墓が建って行くのかもしれませんが、喜べないのが残念です。 

試練の夏です

2010年08月19日

住職ブログは先月13日に投稿したのを最後に、一月以上放置したままでした。本日は長らく未更新となってしまった事情も含め、その間の出来事を少々振り返ってみたいと思います。全国ニュースでも報道された通り、山口県は昨年に引き続き今年も豪雨による大規模な水害が発生しました。特に山寺がある美祢市の南西部(東厚保町・西厚保町)は7月15日の早朝に歴史的な豪雨に見舞われました。このため市内を縦断する厚狭川が氾濫し、古老が「こんな大水害に見舞われたのは初めてだ」と話されるほどの甚大な被害が発生しました。全国ニュースでは下流の山陽小野田市の水没状況が大きく報道されましたが、美祢市の被害も甚大です。美祢市は過疎地なので絶対的な被災件数が山陽小野田市に比べると少なくて、ニュースで大きく取り上げられることはありませんでした。しかし、今回の災害で解体撤去となった住宅も少なくありません。山寺の檀家さんのお宅でも被害にあわれた方が多数あります。

土砂に埋め尽くされた水田.jpg

寺の周辺部は河川の氾濫による水害というよりも、むしろ崖崩れや土石流等による被害が甚大です。大量の土砂により道路や水路は寸断され、水田は至る所で埋まっています。地元のブランド品である「厚保ぐり」の栗山も大きなダメージを受けました。あちらこちらで崩れたり大きな地割れが発生しています。復旧には相当な期間が必要でしょう。土砂崩れで住めなくなった住宅や墓地の被災等も数多く発生しています。

それから、厚狭川に沿って市内を南北に走るJR美祢線は、盛り土や鉄橋の流失により壊滅的な被害を受けており、復旧は非常に困難な状況です。かって美祢市は無煙炭の産出量日本一を誇りました。その石炭を運ぶ列車が24時間体制で走り、美祢駅は日本一の貨物量を誇ったこともありましたが、今回の水害により「廃線」の危機に直面しています。

平成22豪雨災害.jpg

今年は梅雨入り当初から激しい雨が降り、私は6月27日の記事で心配だと書いておりましたが、その不安は現実となりました。山寺も本堂背後の大日堂に甚大な被害が発生しました。背後の山が崩れてその土砂により御堂はダメになりました。復旧のめどはまったくたちません。最初目にしたときは信じられない光景でした。まさに言葉を失いました。その後、山寺周辺の集落を見てまわると、至るところで崖崩れや土石流が発生していることが明らかになってきました。これまでは考えられないような場所で大規模な災害が発生しています。それほど激しい雨が降ったのです。この状況を目の当たりにすると、山寺背後の崖が崩れて大日堂が倒壊したのも納得せざるおえません。むしろ本堂がまったく無傷で済んだことを感謝しなければいけないのかもしれません。

倒壊した大日堂.jpg

大日堂の惨状を目にした当初は大変落ち込みました。しかし嘆いていても何も変わらないのですから、総代の皆さんにも手伝って頂いて早々に内部の仏様と仏具等を本堂に移しました。不幸中の幸いとでも申しますか、御本尊の大日如来は奇跡的に無事でした(下の写真)これまで幾度も破壊や焼失の危機をくぐり抜けて来たこの如来の歴史を考えると、今回も無事であった事は決して偶然ではないのかもしれません。それほど強運な仏なのです。今は本堂に移って頂いておりますが、今後も大切にまもって行かねばならないとあらためて強く思います。

被災直後の大日如来

今年の夏はまさに「試練の夏」でした。7月15日の豪雨により山寺は大変なことになりましたが、私の実家も見事に床上浸水となり、そちらの対応にも忙殺されました。そして8月3日には山寺にとって最も大がかりな行事である「施餓鬼会」が行われるので、その準備も同時進行でした。毎年組内の各寺院は順番に施餓鬼会(盆施餓鬼)を行います。山寺がトップバッターとして8月3日に開催し、この日は組内の住職が全員集合します。その後は各寺が順次開催して行くので、私は他寺の施餓鬼会へ連日のように出席(出仕)することになります。そして、それとほぼ同時進行で自分のところの檀家のお盆参りも行うので、盆明けまで非常にハードなスケジュールをこなすことになります。そういう事情でブログ更新どころではなかったのです。今年ほど大変な思いをした夏はありません。きっといつまでも記憶に残ることでしょう。とりあえずここ一月あまりの状況報告とします。

平成22年豪雨 床上浸水した実家.jpg

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