こだわり住職のよもやま話

2010年

「法然の哀しみ」について

2010年01月29日

坊さんになる為に会社を退職して毎日が日曜になった私が、まず最初にやったことは仏教関係の書籍を片っ端から読みあさることでした。それまで仏の世界とはおよそ遠いところで漫然と日々を過ごしていたので(今も大して変わらんけど)当然その手のことに関する知識は乏しかった。しかも宗教というものに一種の偏見を持っていました。確かに世間には立派な宗教家もおられますが、煮ても焼いても食えないような「えせ仏教者」も存在します。「どうして、あんなインチキ教祖さまを信じる人がいるのだろう?」と不思議でならなかった。なかにはとんでもない反社会的な集団も存在し、司直の裁きを受けることになったりしています。そんな教祖さまが説く教え(うそっぱち)と、お釈迦さまが説いた真理を同じ土俵で語られたら、仏教界としては大迷惑でしょう。結局一般人の心証としては宗教に対する印象は悪化する一方です。私もそうでした。事実宗教は古今東西、両刃の剣でした。人々を救う尊い教えも、取り扱いを間違えると人を不幸にし国も滅ぼしかねない。アフリカの内戦や中東の問題、そして9.11の悲劇などを見ていると、みんな大なり小なり民族と宗教の問題が絡んでいます。(根本は差別や格差、貧困などが原因なのかもしれないが)だから私にとって宗教は危険な「毒」でした。一度はまると容易には抜けられない「呪縛」です。危ないものであり近づかない方が良いものとの認識がありました。「さわらぬ神(仏?)にたたり無し」です。ところで今の私にとって切実な呪縛は「喫煙」です。これもかなり危険です。おまけに周りに迷惑をかける。どうにかしないといけないのだが....(また話がずれてる)

さて、宗教をうさんくさいものと感じていた私でずが、人間は実に複雑な思考をする生き物です。いやだいやだと毛嫌いを装いながら実は興味があったりする。(恋する女性みたいだ)私もその傾向があったのかもしれません。だから中途半端な知識があったし、それが偏見を生む温床にもなっていました。なんの因果か坊さんになることになったので、まずは宗教をきちんと調べてみようと考え、関係の書籍を大量に買い込み図書館にも足を運びました。そしてさまざまな情報ソースから、仏教を中心に宗教というものを知っていくことになりました。相手は「おしえ」と称し変幻自在でとらえどころが無い難敵です。実にさまざまな見方や意見がありました。批判的な意見や問題提起の書籍も随分読みました。そんな私が宗祖法然上人のことを知りたくて、いろいろ読んだ中で一番心に響いたのが、梅原 猛氏が著した「法然の哀しみ」でした。

法然上人御火葬跡(総本山光明境内)

一般的に法然上人のことを知ろうとすると、たいていは宗教界での定説に準じた情報になります。このサイトの「宗祖流祖について」に掲載してある法然上人に関する記事もほぼ定説に従っているので、それらと同様の問題ない(たぶん)解説だと思います。しかしそれはいわば当たり障りのない紹介です。寺の公式ホームページだし、私は宗門に所属する現役の僧侶なので独自色の強いことを詳しく書くわけにも行きません。(叱られるかもしれませんから)ところが梅原氏が書かれた「法然の哀しみ」は、タイトルからも想像できるように法然論を述べる一般的な宗教書とは少々異なります。氏はこの著書で法然上人の思想と人生を広く深く見渡しておられます。そして人間としての法然上人を鋭く観察し、これまで語られることの無かった視点から法然像を追っておられます。だから大変印象に残る一冊でした。(それでも、純粋な小説とは違って読むには少々骨がおれますけどね)

ところで宗教者の人間像がテーマの書物、宗教書というよりもむしろ一般大衆向けの小説に近いジャンルで、圧倒的に人気があり有名なのは親鸞聖人でしょう。最近の例では五木寛之氏が親鸞さんをテーマにした小説を出版されて注目されていますね。親鸞さんは当時宗教界におけるタブーであった肉食妻帯を公然として破った僧侶として有名です。(実際にはこっそり破っていた高僧は随分いたらしいのですが)愚禿親鸞と自ら名乗り非僧非俗の生活を送っています。日々の暮らしの中で自己の煩悩に苦しみ、その苦悩を弥陀への信仰により克服する生き方を実践して、絶対他力の教えを完成させた人です。だから一人の人間像として注目する時、親鸞さんは我々俗人から見ると親しみやすく魅力的な存在です。

私の父母が愛用している本願寺教団のおつとめ経本を開くと、親鸞聖人の姿を描いた墨絵が載っています。壮年期(たぶん)の親鸞さんのお姿を伝える「鏡の御影」と呼ばれている肖像です。その親鸞さんは少々哀しげで遠い目をしています。そして親鸞さん晩年の姿を伝える有名な「熊皮の御影」のお顔となると、何の知識も持たずに拝見すると相当刺激的だと思います。お世辞にも良い人相とは言えないからです。まさに己の煩悩の地獄を凝視しつづけた親鸞さんの人生が、その表情に滲み出ているのです。一方法然上人は極めてまれにみる清僧でした。親鸞さんのような刺激的な肖像はありません。よく知られている法然上人の肖像を拝見すると、実に温厚で優しそうなお人柄を伝えています。まさに清く正しくの人であったのでしょう。だから今日法然さんが法然上人と呼ばれ一般的な「上の人」で、一方親鸞さんは親鸞聖人と呼ばれて「聖人」となっているのは、むしろ逆ではないかと個人的には思います。(いろいろ事情があるのでしょうけど)

我々は子供の頃にはヘレンケラーとかガンジーだとかの物語を素直に読めても、大人になると「清く正しく」の話では面白くないからいまさら読まないものです。もっと現実的でむしろドロドロした話の方が面白い。大人になるということはそれだけ自分も汚れて行くことです。それが普通の人であり一般大衆というものです。だから小説の題材としては法然さんは少々魅力に欠けます。これまで人間法然をテーマにした書籍は無いに等しかった。そういう意味でもこの著作は注目に値します。著者自身の人生観や人間性も伝わって来る作品です。氏の著作活動は現場第一主義です。取材の過程はまるで小説に出てくるベテラン刑事です。現場を丁寧に回って取材を重ね、自分の肌で感じたことを大切にされています。机上の資料や情報を鵜呑みにしません。自ら現場へ出向き鋭い観察力で思索します。そこが素晴らしいのです。その場に立ち自分で感じ取ったことだからこそ書けたのであろう言葉が多くあります。氏が作品中で述べている考察、いわば自分の五感もフルに使って発する言葉は実にリアルです。私は梅原氏が取材の過程で訪れている場所へあれこれ行ってみました。そして氏が語っていることが実感出来ました。それで従来の定説とは少々趣を異にする梅原氏の考察を、疑り深いこの私も「信じるに足りる」と感じることが出来たのです。

 

唐木仏壇をなめちゃいけません

2010年01月26日

地元美祢市は本願寺派のほぼ占領地です。さらに言えば山口県そのものが真宗王国です。新山口駅のすぐそばには、山口別院といういわば西本願寺の出先機関でもある特別寺院があります。そしてその山口別院が単独スポンサーのラジオ番組が、地元のFM局からは流れて来ます。長州はそういう土地柄ですから、仏壇といえば本願寺派の荘厳が圧倒的です。真宗の仏壇はピカピカの金仏壇です。私の実家も本願寺派ですから、幼少よりピカピカ仏壇を目にして来ました。近所の家も友達の家もみんなこの仏壇です。子供の頃は仏壇というものはみんなピカピカなのだと思っていました。ところが世の中にはこれとは対象的な、紫檀や黒檀などで制作されたシックな仏壇があります。一般的に唐木仏壇と呼ばれます。金仏壇は基本的に真宗向けで、その他の宗派では唐木仏壇が一般的(らしい)です。日本の仏教宗派全体を考えてみると、むしろこちらの仏壇が主流の可能性があることに、坊さんになってようやく気づきました。

山寺の檀家さん宅へ行くと仏壇は唐木です。荘厳の様式も違います。西山の坊さんになった以上「唐木仏壇の知識が必要だな」と思い始めました。それで私は仏壇店の偵察を開始しました。しかしこと山口においては、仏壇といえば金仏壇です。展示場をのぞくと並べてあるのはピカピカ仏壇が主力です。唐木仏壇は?となると、展示場の隅っこに申し訳程度に置かれていることが多かった。あっても小さなサイズで田舎向けのそれなりの大きさになると数が限られました。

余談ですが、すばらしい金仏壇を確実に沢山見たいなら、名古屋市内の仏壇街(仏壇店が異常に密集)に行けば楽勝です。いずれの店舗も店の看板商品となるすごいのが、目立つところにドカンと据えてあるので、それらのはしごをするとお手軽にまとめて拝見出来ます。目の保養にもなりますよ。

さて、山口での話にもどします。唐木を見たくて探してみたのですが、まとめて拝見できる店が見つかりません。ところが「灯台もと暗し」とでも言いましょうか。実は美祢市のお隣、旧豊田町(現在は下関市に合併)に、唐木仏壇をどっさり持っている仏壇屋があったのです。それが下関市豊田町殿敷(西市)にある住谷仏壇店(本店)です。例の(12/30記事)千々松菩薩のお店です。初めて偵察に行ったときは全く期待していませんでした。その店は西市の古い町並みの中にありました。油断すると見落としそうです。(でも昔は繁華街だったのかも?)住谷は長府や長門そして菊川にも店舗があり、西市が本店なのですが、その本店の事務所兼店舗は意外にこぢんまりとしています。対応して下さったお店の方はとても感じが良かった。坊さんであることは内緒にして「唐木仏壇を見たいのですが?」と告げると、金仏壇が展示してある建屋とは別の、少々古めかしい展示場の大きな扉を開け放って自由に見学させて下さいました。よくあるのは店員さんが張り付いて商品をしきりに勧めて来る事です。しかしそれはありませんでした。(いかにも金もってなさそうに見えたのかな?それとも忙しかったのかな?)その倉庫(あえて展示場とは書きません)はお世辞にもこぎれいな場所ではありません。ただし、やけにだだっ広く天井は高くて形も変わっています。実は映画館だった建物でした。

唐木の仏壇は金仏壇と異なり表面を漆などで着色塗装しません。素材そのものの質感や木目の美しさと彫刻で勝負する、仏さま専用の高級家具みたいなものです。ですから、材料である木材の品質と彫刻の緻密さがもろ販売価格に反映されます。同じ大きさでも価格にけっこう開きが出ます。それと、金仏壇は表面の金泊が経年劣化しやすく、指紋をつけるとそこからすぐ痛むので要注意ですが、唐木は経年変化が起こりにくいので、長期在庫になっても品質低下のリスクが低いという特徴(利点か?)があります。だから主流じゃないのに、あんなに大量のストックをかかえていても大丈夫なのかもしれませんね。まるで家具屋の倉庫みたいです。そうはいってもこれだけ持ってたらすごい金額ですよ。真宗王国の仏壇屋ですから当然金仏壇も豊富に持っています。あの店舗兼事務所の慎ましさ(?)に対して、実にアンバランスに感じました。後から聞いた話ですが、住谷仏壇店は元々は仏壇を自前で制作していた製造直売の店だったそうです。そして昔は仏壇の卸元でもあったのです。そういう歴史があるので唐木でも大量に持つのが社風なのかもしれませんね。

私は店員さんが張り付かないことをこれ幸いに、遠慮なく実に丁寧に(しつこく?)見させてもらいました。その展示場という名の実質倉庫で我々素人がまず注目するのは価格ですね。ずらりと並んだ仏壇を見比べると、材料や彫刻で価格が変わるのが良く解ります。「なるほどねー」と大変勉強になりました。絶対数があるので材料により様々な印象の仏壇があることもしっかり確認できました。これくらいまとめて並んでいるととても得した気分です。展示数が最も多いのは黒檀か紫檀を使用したものです。シックで高級感があり唐木仏壇の定番です。欅(けやき)は癖のない素材感が身上ですね。実に落ち着いた印象です。鉄刀木(たがやさん)やシャム柿(黒柿)はハッキリした木目が目を引きます。カリン材の仏壇もありました。桑の木の仏壇は枯れた感じが絶妙で、緻密な木目が非常に上品でした。木魚の材料としても桑の木は最高の木です。いい音で鳴りますからね。

さて、そんな数ある仏壇の中でも私の目が釘付けになった仏壇が一本ありました。大きな仏壇ではありません。半間仏間用のお手頃なサイズです。実にさりげなく置かれていたのですが、他とは明らかに異なる独特の雰囲気を醸し出していました。落ち着いた色調の仏壇が多い中にあって、木肌が明るい色なので一見シンプルで軽やかに感じます。しかしよく見ると非常に上品でむしろ重厚感があるのです。細目の木目も見事です。矛盾していますが一見あっさりしてるようで実はしっかり目立ちます。そんな不思議な仏壇でした。「これはいい仏壇だナー」とすぐに惹かれました。それで眼鏡を掛け替えて(老眼が来てるので近くが見づらい)さらに細部をじっくり観察しました。仏壇の中に頭を突っ込んでしっかり観察です。(店員さんがいたら出来ないことです)間近で凝視すると彫刻も素晴らしく緻密です。ますます「これはいいわー」と、買うわけでもないのにすっかりお気に入りです。ただしよく見たらお値段も素晴らしかった。七桁なのは当然ですが頭の数字が1じゃないんですよね。隣に並んでる仏壇が複数買えちゃえます。

屋久杉の仏壇結局この仏壇が数ある唐木の中でも最高価格の一品でした。仏壇の端っこに置いてあった説明書を見ると、使用されている材は屋久杉と書かれています。「おー、これが屋久杉ですかー」と驚きましたね。まれにあるとは聞いていたのですが、初めて現物を目にしたのです。今や入手困難で幻になりつつある木材。日本が世界に誇る銘木中の銘木です。私は「違いのわかる男」ですから、たちまち目が釘付けになるはずです。(笑っていいですよ)さすがにあの価格でも納得です。恐れ入りました。(市場には屋久杉と称するものが時々出回るのですが、屋久杉とは屋久島で産出された樹齢千年以上の杉のことで、千年に満たないのは屋久島では小杉というらしい)

後に聞いた話ですが、住谷にはこの屋久杉の仏壇が数年前には複数あったそうです。他の仏壇店でここにあることを聞きつけて、遠方からわさわざ見に来られたお客さんがお買い上げになったそうです。残る一台は貴重品ですね。まだあるとのことなので、売れる前にもう少し拝ませてもらっとかないと後悔しそうです。(次が入るかどうか解らんので)山口は金仏壇が主力なので、唐木のすごいやつにお目にかかることは極めてまれです。運が良かった。それにしても屋久杉のあの独特の雰囲気、不思議な存在感はいつまでも印象に残ります。唐木仏壇をなめちゃーいけませんね。(厳密にいうと屋久杉は唐木ではないから、銘木仏壇というのが正しいでしょうけど)

慶宣の接待につかえるかも

2010年01月24日

本日は有働(うどう)家の年回忌法要がありましたので、御当家のお仏壇の前で一曲歌って(礼賛偈ですね)来ました。いつものお経(阿弥陀経と日中礼賛偈)は、すでに何度か聴いて頂いている家なので、今回は違うバージョンで読経しました。本山で毎朝行われている一連のお経に、般若心経や十四行偈等を追加した、特別プログラム(?)で法要を行いました。今年元旦の記事でも書いていますが、本山の朝のおつとめでは必ず「菩薩戒経」を読みます。それで、その意義についても少々講釈をたれさせて頂きました。読経が終わると、車で移動して寺の背後にある有働家のお墓に寄り、食事は菊川町のサングリーン菊川でした。菊川温泉の入浴とお食事が出来る施設です。田舎の坊さんは、たいてい年回忌法要後のお食事に同席することになります。(お暇ですからね)昨今は食事を外でされる家も多くなりました。それで、近郊の食事処を坊さんの姿で訪れる機会が多くなります。(最初は抵抗があった)これまでも何度かこちらに来たことはあるのですが、サングリーン菊川は昨年秋にリニューアルしています。嬉しいことに、お料理が一段と良くなっていました。いろんなふぐ料理がまんべんなく盛り込まれている、なかなか立派な会席を頂戴しました。それで「これはいいや」ということになり、例の慶宣(1/9記事・慶宣が山寺にやってくる)が、山口へ来た際の食事に使えるんじゃないかと考えたわけです。帰りにフロントでチラシを頂くと、残念ながら本日頂戴した会席は期間限定の特別サービスらしくて、2月14日までだというではないですか。あら残念。

南風泊市場

山口県はご存じの通り、ぶぐの水揚げ日本一です。下関駅のすぐ裏側、狭い水道を挟んで対岸が彦島です。その彦島の北端にある南風泊(はえどまり)市場が、国内に流通するトラふぐの大部分(8割強くらいかな?)を扱っています。ふぐは地元山口の名産です。しかしふぐは高いものです。一番高いのは内海ものの天然トラふぐ(生きてるやつ)らしいです。バブルの時代には、この市場でセリ落とされる価格は㎏3万円以上していました。1㎏というと大したこともないサイズです。それが3万ですから、料理屋で口に入る時はいったいいくらになっていたのでしょうね。最低でも2~3倍にはなるでしょうから、やっぱり高価なお魚ですね。(最近の落札価格は㎏1万円少々らしい)でも、山口県民にとって、ふぐはある意味とても身近なお魚です。実は高級な天然トラふぐではなく、養殖ものや白サバふぐなどの、少しランクは落ちるのだけど庶民的なふぐ刺(一人用パック)が、県下のスーパーでは普通に売られています。美祢での通常価格は490円くらいからです。広告の品になるともう少しお安くなるので、お刺身の好きな私の奥さんも、他は節約してこれを良くお買い上げになります。

南風泊市場・ふぐのイケス.jpg

そういう食生活を常日頃より送っているので、訳あって気の利いた料理屋で、一番いいやつ(天然トラふぐ)を食べようとするとえらく高いので驚きます。たいていお一人様でも1万円札がさようならです。店によっては2枚以上必要です。下関でふぐ料理といえば、日清講和条約締結の舞台となった「春帆楼」が有名です。この格式ある料亭旅館で、ふぐを食した伊藤博文公があまりの美味しさに納得して、それまで本来ご禁制であった「ふぐ」を、正式に解禁させたという逸話があります。ただし毒があるので、誰でも料理して良いという訳にはいきません。それで免許制にして、その公許第一号が春帆楼に与えられたそうです。ですから、本場下関でふぐ料理を頂くならば、「春帆楼なら間違い無しでしょう」とご案内しておきます。(行ったことないけど、天皇陛下もご利用になるそうですからすごい所ですね)まあ、そういうのは財力のある方に任せておけば良いわけです。庶民は庶民でスーパーの店頭に並ぶやつで、お手軽にふぐ刺しを楽しませて頂けるのですから。県内や北九州地方を離れると、このお手軽コースは商品が出回らないので不可能です。(加工基地が山口にしかないので)だから地元山口居住で食いしん坊の人は本当に恵まれています。それが当たり前の生活をしているとありがたさが解らなくなりそうですが、これなぞみごとな「小欲知足」かもしれませんね。

こだわり住職の懺悔(後編)

2010年01月22日

私が少年時代の実家は大家族でした。父は長男ですが、母と結婚する前に父親と死別しています。だから私はおじいちゃんの姿を写真でしか知りません。あの時代ですから父の下には兄弟が沢山いました。生存していたのは8人です。(幼くして亡くなった兄弟もいた)それで私には叔父や叔母が沢山います。私が小学生の時までまだ高校生の叔父などもいました。多いときは9人+1匹(犬です)の時代もありました。父は釣りはしませんでした。私が幼少の頃はまだ独立していない父の弟や妹がいましたから、そんな余裕もなかったのでしょう。しかし私が高校生になる頃には、社会人となった父の弟たちが成長した甥っ子を磯釣りに連れて行ってくれました。叔父のおともで私は磯釣りデビューを果たしたのです。当時の海は見た目だけなら今と大して変わりませんが、非常に豊かな海でした。魚がうじゃうじゃいました。大人が使う本格的な道具を持たされて、見よう見まねでエサを放り込むとずいぶん立派なサイズの魚が釣れます。引きの強さは川で釣る魚とは雲泥の差、海の魚はとんでもなく元気です。遠ざかっていたあの感触、生命の躍動感が再び私を興奮させ魅了しました。

その後社会人になった時、すぐに本格的な磯釣りを始めたわけではありません。転機は職を変え磯釣りを教えてくれた叔父と同じ会社で働くようになってからです。その頃の世間は空前の磯釣りブームです。休日の磯場は釣り人であふれ、ゴミの問題や遭難事故の多発で一時は少々悪いイメージが付きかねないほどでした。社内には釣りバカがごろごろしています。私と叔父は社内の釣りパカグループに所属し、彼らとたびたび北長門国定公園の磯へ出かけて釣果を競っていました。やがてあまりにも大勢の釣り人が押しかけるので、どんどん魚は釣れなくなって行きました。昔のように子供がポンとえさを投げ込むだけで、豪快に竿を絞り込むなんてことはもう幻です。長門の海での磯釣りは急速に難しくなって行き、やがて超マニアックな世界になりました。

北長門国定公園の磯.jpg

10年一昔といいますが、まさに10年もするとすっかり様変わりです。よほどの幸運にめぐまれない限り満足できる釣果は難しくなったのです。人間は勝手なもので釣れないとおもしろくありません。社内の釣りバカ連中も、釣果を求めて長門の海をやり過ごし、遠征する輩が増えて行きました。そんな頃でした、以前からの釣友で今も釣りの相棒である悪友が連絡してきました。「めちゃめちゃ釣れるところへ連れて行ってやるからつきあえ」と、悪魔のささやきをするのです。彼の名は上田研二です。私より2つ上だったっけ?その上田が「すごいところへ連れて行くから、とにかく一番でかいクーラーをもって来い」と、大風呂敷を広げるのです。目指したのは大分県の米水津村( よのうずむら、今は佐伯市に合併)にある、クロ(めじな・関西ではグレ)釣りなら西日本一かも?といわれていた場所です。それで夜間に4時間以上も交代で運転して行きました。(当時は今ほど高速が伸びてなかったので時間がかかった)相棒と上がった瀬は事前に予約をしないと(この予約が容易ではない)釣ることが出来ない、「当番瀬」と呼ばれる場所です。米水津村の渡船基地から渡れる広大な磯の中でも別格のポインです。行って驚きました。本当に良く釣れるのです。しかも釣れる魚は長門の海ではまず不可能なサイズです。「おなじクロ釣りなのに、こんなにも釣果が違うのか」と、一種のカルチャーショックでした。

そんなことがあって、私はまもなく長門の海で釣るのは完全に止めました。釣りは大分オンリーとなりました。その後も当番瀬で釣る機会はありました。(相棒が船長と古くからの知り合いなので予約がよく取れた)しかし当番瀬は条件が揃うとあまりにも釣れるので、やがて少々気にくわなくなって来ます。(なんて贅沢な)だってそんなに釣っても食べきれんでしょう。「これって、むだな殺生じゃないか?」の疑問が頭をよぎるのです。自分が後に坊さんになるなんてその時は知るよしもありませんが、さすがに後ろめたさを感じます。それで「えーと、わが家と実家とお向かいさんの分、それに叔父のところと叔母の分があるな」などと勘定して、「もう充分だから」と私はさっさと釣りを止めて昼寝を決め込んでいました。すると相棒が「おーい何にしよるー、当番瀬に上がっとるんやから、もっと釣ってくれんにゃ困るー」と叫ぶのです。「もうお土産充分確保したから寝るー」と答えると「エサがもったいない、それなら俺のお土産を釣ってくれー」と叫びます。「なんじゃーそりゃー」です。彼は私よりクロ釣りが上手です。すでに大量に釣っています。なのに「お土産はいくら大量になっても大丈夫、出来るだけ一生懸命釣ってくれ」というのです。

彼は下関市内で自営業をやっています。取引先は街の電気屋さん「ナショナル」のお店です。個人の電気店ですね。街の電気屋さんが大型家電を販売した時の納品の応援やエアコンの工事、テレビアンテナ工事や電気温水器の設置などなど、その他もろもろの搬入に人手が必要なケースや技術が必要な工事、要するに個人電気店のおやじさんが対処できない工事を彼が請け負うのです。その取引相手(いわば彼のお得意さん)である何十件にもなる街の電気屋さんの経営者に、魚を配って喜んでもらうのだといいます。(彼の仕事もなかなか大変だ)そもそも、彼がここに釣りに来るのはその為だというのです。だから魚はいくらあっても困らないらしいのです。確かにそれなら、極端な話かもしれんが100㎏くらいクロを持ち帰っても大丈夫であろう。(実際二人で80㎏近く釣ったこともあります。当然配るのはめちゃくちゃ大変であったらしい)だから釣った魚は全て美味しく食べてもらえる。無駄な殺生にはなりません。「それならば」というわけで、それ以降は彼の「お土産釣り」に毎回協力することになりました。当番瀬は潮が良いと一日中連れ続きます。そういう時は飯も食わずにひたすら釣り続けることになるので、二人はほとんど漁師です。いわば他人に食べてもらうために、大分まで長時間運転をして美味しい魚を調達に行くのです。なんともおかしな釣りです。遊びではなく仕事みたいです。事実彼は「釣りは半分遊びで半分仕事だ」などと、公言してはばかりませんでした。

そんな大分での釣りですが、一日の釣りでは当たりが遠くなる時間帯も有ります。そういう時に、彼は私に釣りを続けさせ自分はせっせと二人分の食事を準備します。「吉村は釣っとけよー急に食いがたつかもしれんからー、めしが出来たら呼ぶから」です。お湯が沸いて準備ができると「飯にしようかー」です。そんな調子で、我々はいつも磯の上でラーメンを主食にけっこうムシャムシャ食べるのがお約束でした。(夏はそうめんや焼き肉もよくやった)しかし、すでに数年前から「当番瀬」で鬼のように釣りまくる(我々はこの状態を漁師モードの釣りと呼んでいた)ことはありません。お互いもう若くはありません。徹夜で運転して釣り場まで来たあげく、終日気合いを入れて釣り続け、さらに再び運転して帰るなんてもう無理です。一度行くと体力の回復に3日は必要です。それで釣行先はずいぶん楽な所に変更しています。(絶対数は落ちるが大物が確保できる磯でのんびりやってます)釣行の頻度もずいぶん低下しました。よって彼が魚を配る絶対量も回数も低下しました。もらう方はこちらの事情など関係ないので「また食べたいから頼むねー」と、気軽にリクエストだそうです。相棒は「また頼まれちゃったよー」と困った風にいいますが、顔はニャニャしています。私は彼と釣りに行っても最近は釣った魚を持ち帰らないことが多くなりました。恵美ちゃん(妻)は魚の処理が苦手なので、魚を釣って帰っても大して喜びません。(彼女はお刺身を食べるのは大好きなんですけど)まして働いていますので、疲れて帰ってきている所へ魚を持ち帰るとかえって不機嫌になります。私が処理すれば良いのですが、私もめんどくさいことはイヤだし。(なんて勝手な)それで釣果は相棒に全て後のめんどうを見てもらうのです。彼に渡しとけば無駄になりません。電気屋さんの家族には喜んでもらえるのですからね。私はそこそこ釣らせてもらって、子供の頃のあの「どきどき感」が味わえるのですから大満足です。みんなが幸せです。坊さんになりましたが、今後も体力が続く限り時々相棒と海へは行くつもりです。そういう事情なので、どうか阿弥陀さまこの殺生坊主をお許し下さい。

こだわり住職の懺悔(前編)

2010年01月21日

先日の記事『1/11・秘密のあこちゃんの話し』を読んだご当人から、メールが届きました。それが思わず笑っちゃうのですが、「吉村さんの愛を感じるわぁー。へこむことも多々ありますが頑張ります...」なんていうメッセージでした。絵文字が沢山入ってる女子高生のメールみたいで、彼女らしいお言葉でした。さて、あこちゃんのことを肴にして記事を書いたので、今回は自分の秘密を白状して懺悔することにします。実は私、長年磯釣りをやっています。だから今はみごとな殺生坊主です。でも最近はめったにやってません。人目が少々気になりますしね。例によって話は長くなりそうですが、私の懺悔(言い訳)を聞いてやって下さい。

私の住む旧美祢市はわずか1万8千人程度の過疎の街ですが、磯釣り人口は異常に比率が高いところです。かっては日本一の無煙炭(石炭)産地として栄えたこともありますが、今は見る影もありません。旧美祢市(現在は秋芳町・美東町と合併し、現美祢市は人口3万です)を南北に縦断する国道316号は、都市部ではまず考えられない平均速度で北上できるので(現実を詳しく書くといろいろ問題があるので想像して下さい)中心部から一時間もかからずに、北長門国定公園に指定されている美しい海へ余裕でたどり着けます。山陰側は荒々しい磯場が沢山あり磯釣りのメッカです。そういう立地条件なので磯釣り人口比が高いのです。美祢の人間(おじさん連中)の遊びというと、この磯釣りかゴルフ(市内はもとより周辺にはゴルフ場が異常に密集しています)そしてパチンコが定番です。お隣旧山陽町のオートレースあるいは下関市の競艇にも根強い支持があり、番外で飲み屋通い(遊びとはいえないか?)というところでしょうか。要するにあまり気の利いた遊び(?)はありません。カラオケボックスもボーリング場もゲーセンもありませんので、若い人たちにはなんとも退屈な街です。あるのは緑と美味しい空気と広大な石灰山。旧秋芳町と旧美東町に広がる日本一のカルスト台地とその地下に広がる巨大な鍾乳洞。そして田舎ながらの純朴で暖かい人々の心です。(実は驚くことに市内中心部に24時間営業のファミレスが1店ある。若者が集まる貴重なスポットになっている)そういう街であるので、私の嗜好にマッチした大人になっても続けられる遊びは、長年磯釣りに落ち着いているのです。

本州最西北端・川尻岬.jpg

遊びといえば、子供の頃を振り返ると歳のあまり離れていなかった叔父達に、ずいぶんいろんな遊びを教えてもらいました。めんこやコマにビー玉などはもちろん、竹を切って鉄砲とか弓矢も作ったし冬は竹ソリやスキーを作って遊んだものです。ニッケの根を一生懸命掘り、夏はトマトをかじりながら川へ泳ぎに行き、うなぎカゴを仕掛けて蒲焼の材料を調達をするのが遊びだった。ビワ・柿・山モモ・野イチゴ・くるみ・くわの実・グミ・アケビなどと、およそタダで食べられるものはなんでもおやつだった。叔父たちについて行って野鳥をとる罠を仕掛けて焼き鳥の材料を調達したり、竹の子掘りや山芋掘りも遊びだった。近所のイチジクは自分たちのものだと思っていたし、堅くてまずい野生のナシも、けっこう気に入って食べていた。それらもすべて遊びだった。しかし叔父たちに教えてもらった遊びの中で、一番のお気に入りだったのは川での魚釣りでした。食べるわけでもないのに、まさに意味のない殺生をしていたわけです。(一部食べることもあった、うなぎなど)少年(私)にとっては、釣りはとても魅力的な遊びでした。魚が針にかかった時のあの強い引きや、釣り上げたときのバタバタ暴れる姿、いわば生命の躍動感が少年を興奮させ魅了したのです。まして大物を釣り上げたときの達成感はひとしおです。しかしその少年も成長とともに釣りは卒業します。さすがに意味のない殺生に矛盾を感じ始め、純粋なわくわく感や本能(狩猟本能でしょうか?)を満たすだけの遊びより、もっと複雑なことや頭の中で考える楽しさ、そして格好いいと思われる遊びに興味は移って行ったのです。

誰でも子供の頃に生き物に対する興味が高まり、昆虫や金魚などをカゴや水槽に入れて四六時中眺めていた記憶があるはずです。それはきっと生命の不思議、生命の輝きに純粋に惹かれていたからです。しかし手に入れた虫や魚たちは大抵すぐに死んでしまいます。それを繰り返し結局多くの殺生をすることで、ようやく生命というものの大切さや重さを肌で感じとり少年時代を卒業します。だからその殺生は少年が成長するための「糧」になったのです。意味のない死でありません。誤解を恐れずにあえ申し上げれば無駄な殺生ではなかったのです。最近の子供達は自然の中で遊び生命の重さや大切さを学ぶ機会がありませんね。これも時代の流れですから仕方ないのかもしれませんが残念なことです。

さて、話が少々違う方向に展開してしまいました。そうです「今おまえがやってる殺生はどうなんだ?」とのお言葉に、私は懺悔をしなければなりません。言い訳ですね。長くなりそうなのでとりあえずここまでを前編として、続きは次回とさせて下さい。きちんと懺悔させてもらいますので。(本当はどうやって言い訳するか、少々考える時間が必要なのである。)

西山の阿弥陀経は魔球かも

2010年01月19日

私は法事に呼ばれると、たいてい本山で行われる御忌会(法然上人の法事)に準じたお経を読誦します。御忌会では「歎徳之疏:たんどくのしょ」が読まれるので、これに相当する疏も読みます。(先亡に対する哀悼の意を表する文書です)木魚を叩きながら読むメインの仏典は「仏説阿弥陀経」です。お経は音読みですが、音読みには漢音や呉音、唐音などがあり、同じ熟語でも複数の読み方が可能です。例えば食堂は「じきどう」とも読むわけです。通常、西山浄土宗の坊さんは、仏説阿弥陀経を少々変わった発音で読みます。仏説阿弥陀経は普通「ぶっせつあみだきょう」ですが、我々は「フ・セイ・ア・ビ・ダ・ケイ」と発音します。確かに分厚い漢和辞典で調べてみると、そう読めないこともない。もう一つ例を上げておきます。阿弥陀経は極楽世界のことを語るお経なので「極楽国土」という言葉が何度も出てきます。これも「ごく・らく・こく・ど」ではなく「キー・ラク・ケキ・ト」と発音します。おしなべてこんな調子ですから、初めて聴かせて頂いたときは、真宗のあの「阿弥陀経」とまったく同じお経であるとは思えませんでした。

 浄土真宗では、法事の際にお経をみんなで一緒にゆっくり読むスタイルが多いのですが、この変わった読み方で「一緒に読みましょうか」というわけにも行きません。それで西山では木魚をテンポ良く叩いて、やや早読みの読経を聴いて頂くのが普通です。阿弥陀経が早読みされる理由はもう一つあります。我々西山派(西山浄土宗・浄土宗西山禅林寺派・浄土宗西山深草派)そして浄土宗(知恩院)の法要では、根本経典である三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)とは別に「往生礼賛偈」というお経も重視されます。往生礼賛偈は哀愁に満ちた実に美しい旋律のお経です。(厳密にはお経ではなく詩偈で、時間帯に応じて6種類あります)それで、阿弥陀経も大切だけど、こちらの歌みたいなお経(声明の一種)もやらなくちゃいけないのです。次があるので阿弥陀経だけに時間を使ってられません。急ぎます。だからみんなで阿弥陀経をゆったり読むスタイルは取りにくいのです。

浄土宗西山派や浄土宗(知恩院)が往生礼賛偈を重視する理由を説明すると、教団の歴史を語る事になります。長くなるので別の機会にしますが、とにかく我々の法要では、この歌みたいなお経が肝であり、いわば一番の聴かせどころです。ですから末寺の坊さんも法事の際には少々気合いを入れて読誦したいお経、ぜひ聴かせたいお経だといえます。ただし相当練習しないと人様に聴いて頂けるレベルに達しない、いわば鬼門のお経でもあります。単調なお経がとりわけ苦手な私は、鬼門のお経とはいえこちらの方がだんぜん好きです。これを歌う(読誦する)ために、前半の阿弥陀経をじっと我慢して木魚を叩いているようなものです。礼賛偈になると旋律のあるお経をゆったりとしたテンポで歌います。一節一節で適度な間が入ります。これが大変ありがたいのです。私にとっては休める(?)ので、長時間の読誦も苦痛ではなくなります。木魚は叩かなくて良いのでこれまた好都合です。後ろで聴かれているみなさんも、前半の単調なお経よりは変化があって耳を傾けやすいはずです。読経の腕次第では聴衆者に感動を与えて信心を深めて頂くことも可能です。歌ってる当人も心地良いものです。礼賛偈とは正にみんなを幸せにしてくれるありがたいお経です。

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さて、変な発音(?)で読む西山の阿弥陀経ですが、その利点(弱点でもある)を指摘しておきます。一般的ではない発音なのですから慣れるまでは大変でした。しかし、そこそこ早読みも出来るようになって常用しはじめると、非常に都合が良いことを実感します。それは私にとっての都合です。西山の読み方は聴いてる人にはほとんど日本語じゃない(?)のだから、読み間違えても決してバレないのです。(笑わないで)まるで絶対打てない星飛雄馬の魔球です。(アニメ巨人の星、若い人は知らないだろうな)私など修行がまだまだ足らないので、未だにこの魔球の威力に頼りっぱなしです。連日連夜、魔球の連投です。ストレート(普通の読み方)を投げたら一発で痛打を浴びる(読み間違いがバレる)に違いありません。しかし飛雄馬が魔球の連投で肩を壊してしまったように、「たよりすぎると危険だなー」と思うのも事実です。

今年はおばあちゃんの二十五回忌が来ます。もしかしたら実家の菩提寺の住職は、吉村家の一員として参列している私に「衣を着用されて阿弥陀経を一緒に読誦されませんか?」と、提案されるかもしれません。確かに真宗と共通のお経なのだから、おばあちゃんの為にも菩提寺の住職と並んできちんと読経するべきかも。しかし私は真宗流の普通の読み方をほとんどやっていないので人前では無理です。常用しているのは西山のいわば「魔球読み」です。そんなこと言われると困るんですよねー。(西山の坊さんは、最終的に西山の読み方と一般的な読み方の両方に熟練するのが理想なのです)

三部経素読の思い出

2010年01月17日

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実家の宗旨は真宗本願寺派です。その本願寺派が圧倒的に支配している当地では、法事やお寺での法要では、経本を手にして全員が唱和するのが一般的です。いわば否応無しに、お経を読まされる(?)のです。真宗門徒の長男である私も、住職の発声に続いて「にょー・ぜー・がー・もーん・いちー・じー....」と、読まされていました。しかし信心なんて大してありゃしませんので、経本からちょっと目を離したとたんに、どこを読んでいるのか解らなくなります。そうなると黙って聴いているしかありません。大変居心地が悪いというか、実に格好悪いったらありゃしません。ゆっくり読むので「阿弥陀経」でも30分近くかかります。周囲はまじめに唱和しているのに、一人ぽつんと取り残されているみたいで、なんだか自分が情けなくなってきます。そんなわけで在家の頃から単調な仏典の読誦は嫌いでした。お坊さんになることになったとき、真っ先に思い浮かんだのは「今度は自分があの退屈な読経を仕事にするんだー」などと、大変不謹慎なことを思ったものです。今も長いお経の読誦は得意ではありません。いえ、正直に白状するとそうとう苦手です。なによりも長いお経は暗記できていないのでお経本から目が離せないのが困るのです。

そんな私が本山で勉強させて頂いた授業の中で、とりわけ印象に残っているのが「三部経素読」です。住職資格を頂く為の必修単位の一つです。ご指導下さった堀田先生は、「我々は浄土三部経が根本経典ですが、今日このお経を全部通しで読む機会は限られます。長大なこの三部経を全て読誦するとなると大変な時間がかかるからです。場合によってはそんな機会はないかもしれません。だからこの授業で一度は読むようにして頂きます。この授業は今後も繰り返し受講してもらうことになります。その度に読み進めて最終的に全部読み終わるようにします。そのつもりで臨むように」とおっしゃいました。そういえば、昔は法事の際に三部経を全部読誦するため、お坊さんは前日や場合によっては前々日からその家の仏壇の前で読み始め、当日は残りを読んで法事をしていたとおばあちゃんから聞いたことがあります。今日、私の地方でそんな大変なことは行われていません。法事の際の読経は10時くらいから始まって、いくら長くても1時間半位が限度です。(それ以上長いと苦情が出る恐れがあります)その後住職のご法話があったり、実家のようにお墓がすぐ近くにある家はお墓参りに行き、もどったら昼食になるのが普通です。だから強烈に長いお経はありません。たしかに堀田先生のおっしゃる通りで、三部経を全部通しで読むことは無いように思われます。それで私たちは先生の発声に続いて大きな声で丁寧に読んで行くことになりました。

実はこの授業がとても辛かったのです。なによりもまず睡魔との戦いでした。授業は夕食や入浴が終わったあとの就寝時間までの間に行われていました。私たちは連日本山の大部屋で寝起きしながら、夜明け前のおつとめから始まる講習を受講していました。この講習は短期勝負の詰め込み教育です。住職資格の試験「検定試験」の受験資格を得るための特別講習です。それで通称「検定講習」と呼ばれています。半期に一度開催されるこの講習を最短でも2年以上受講し、必要な単位を取得して受験資格を頂きます。本来なら本山で住み込み坊主修業(随身:ずいしんという)を行いながら、本山に隣接している西山短大の仏教コースを卒業して住職の資格を頂くのが王道なのです。しかし事情があってそれが難しい末寺の後継者向けに特別に実施されているのです。(実際この制度がなければ私が西山の住職になることは不可能でしょう)この講習会の長い一日の最後にひかえていた日課のような授業が「三部経素読」でした。私たちは連日遅くまで起きていたので(唯一の自由時間だから)眠いのです。指導して下さった堀田先生はこの道の達人です。約2時間の授業ですが、いったん始まると先生の読経はよどみなく続きます。我々は机に座ってお経本を手に、ひたすら先生の読経に合わせて声を出します。「このまま永遠に続くのでは?」と思えるほど時間の経過が遅く感じられました。三部経を淡々と読誦するだけでしたが、その疲れること。まったく休み無しに(読経の発声が途切れることが無い、一切の間が入らないということです)一時間も二時間も続けるのは、思いもよらぬ苦行でした。ふりかえるとあの検定講習で「一番鍛えられたなー」と思える授業でした。

お経の力を信じたい

2010年01月15日

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仏事の際にはお経を読誦したり、あるいは聴かせて頂くことになりますが、そのお経の意味を解っている人はまれでしょう。人前で偉そうに読経しているこの私も「きちんと理解しているのか?」といわれると「まだまだ修行が足りてませんで」となってしまいます。そういえば私のおばあちゃんがよく言ってました。「わたしゃ、お経の意味なんてちっともわからんけど、お経というものはありがたいものだから、聴かせて頂くだけでもええんじゃ。うちのごいんげ(真宗の住職のこと)は、ええ声をしちょるから、なおさらありがたい。お経は聴くだけでも功徳が頂けるからさあ」などと孫に話してくれていました。

そのおばあちゃんの孫は、今はお坊さんになっています。仏門に入るタイミングが随分遅かったので、孫が読誦するお経を生前に聴く機会はありませんでしたが、あの時おばあちゃんが言ってたように、お経というものはまずは素直に聴かせて頂くのが正解なのかもしれません。よく解らなくても、聴いているだけでも、なぜか心は穏やかになり救われたりします。私もそうでした。嫌なことや腹立たしいことがあって心が乱れていても、長谷川師の読経を聴かせて頂くと不思議とおさまりました。最近は多少私に力がついてきたのか、自分が読経することで、自身の心を鎮めることも出来るようになって来ました。そしてそんな人を救うかもしれないお経を、今や私が人前で読誦して聴いて頂く立場になっているのです。

坊さんになりたての頃、私の読経を聞いてくれる檀家さんは「歳はいってるけど新米坊主なのはご存じなのだから」と、とにかく一生懸命読経することにつとめました。それは今も変わってはいないのですが、「やっぱりお経(読経)は上手に越したことはないのだから」と、けっこう意識して練習をしたものです。お経だけで坊さんの値打ちが決まるわけではありません。過度にこだわるのもどうかとは思います。でも、坊さんになっても私の頭の中は、未だに「在家の人」そのままです。おばあちゃんの「うちのごいんげはええ声をしちょるから、なおさらありがたい」の言葉が、そうさせるのです。長谷川師の読経を目標に今も努力はしています。しかし私に師のような読経力(そんな言葉はないか?)が身につくはずもありません。凡人の猿まねでどうにかなる世界ではありませんね。

話は変わりますが、光明寺の檀家さんで、ご主人が脳梗塞で倒れられ寝たきりのお宅がありました。言葉を交わすことは難しく意志の疎通も困難な状態です。奥さんは自宅で介護の日々を送られています。感心するのは、奥さんが何かにつけてご主人に「おとうさん、おとうさん」と、常に話しかけられておられることです。「きっと主人は解っているはずですから」と話されます。周囲にとても気配りをされ、他人のために行動される方です。ご主人が大変な状態なのに、いつも明るく振る舞われておられます。常に前向きな姿勢を崩さず、お話をさせて頂くとこちらが励まされてしまいます。毎月21日には、わが山寺の境内にある弘法大師堂へのお参りも欠かさない信心深い方です。そのお宅へ仏事で伺い読経させて頂くと、「お経を聴かせて頂くのがとても嬉しいです」と話して下さいます。私からみれば菩薩さんのような方でした。

それは私が加行を受けて正式にお坊さんになった年の秋でした。奥さんから思いもよらない言葉をかけられました。「方丈さん(私のこと)のお経がいつでも聴けるように、録音したものを作ってもらえませんか?主人にも沢山聴かせてあげたいのです」めっそうもないことです。「私のお経などまだまだ半人前です。私がいつも聞いている大先生のお経CDがありますから、それをコピーして差し上げますよ。今はパソコンで同じものが簡単に作れますからね。明日にでもお持ちします。ぜひ聞いてみて下さい」と申し上げました。(本来は違法であるので、後日正式版を本山で調達して進呈しました)それからしばらくして お会いする機会がありました。すると「頂いたお経を度々かけております。このCDを流すと主人がとてもいい表情をして、ちゃんと反応してくれるんです。方丈さん本当にありがとうございました。救われた思いです」と、涙を流さんばかりに感謝して下さったのである。

本当にありがたいのは私ではなくお経です。そしてその力を最大限に発揮させている、長谷川是修師の卓越した読経の技であります。そんなことがあり、私はますます「お経が上手になりたいな」と思うようになりました。ひよっとすると、この話は怪しい教祖さまのお説法に近いかもしれません。ご主人の反応は偶然かもしれませんし、奥さんの思い込みかもしれません。でも、このご夫婦にそんな奇跡みたいなことが、起こっても良いのではないでしょうか。もしこの世に奇跡があるのなら、そうであって欲しい。そして、それは「お経の力」だと思いたい。そう、私は「お経の力」を信じたいのです。なぜなら本当に救われたのはこの私の方だからです。奥さんのあの感謝の言葉で、私は「お坊さんになってよかった」と、しみじみと感じることが出来たのです。

西山浄土宗勤行式の読経

2010年01月14日

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坊さんになることになった私が最初に練習をはじめたお経は、本山の売店でも販売されていたカセットテープのお経でした。「西山浄土宗勤行式」と呼ばれるお経テープです。現在ではクラウンレコードからCDで出ていますので、通販サイトのアマゾンなどでも入手可能です。そのお経ですが、アーティスト(読誦者)は長谷川是修師でした。私はカセットの音源をパソコンでデジタル化し、オリジナルの音楽CDを作って繰り返し聴きました。車に乗った時にはいつもBGMとして流していましたから、長谷川師の読経の声はすっかり耳に染みついています。だだ、その方がどんな人なのか、そしてお顔も、まる一年近く知ることはありませんでした。元来好奇心が強いので、長谷川師のお経を聴き始めたのを機に、他宗派のさまざまなお経も入手していろいろ聴いてみました。おかげでおもしろいことが解ってきました。レベルの高い読経の声は、私にとっては大きく二つのタイプに分類できたのです。

一つは、たいていの人が初めて聴いた瞬間から「ほおー」と感じる好印象の声です。私の言葉で表現すると「わかりやすい声」です。具体的には、若干高めのキー(音程)で透明感や艶のある美しい声です。私が加行でお世話になった監督さんたちの読経の声がそうでした。こういう声の持ち主は、多くの檀信徒が訪れる本山の大法要などでは最適です。美しい声で称えられる読経に、参拝のみなさんは素直に感動して下さることでしょう。いわば一発勝負に適した声です。もう一つは、第一印象は個人差が出るかもしれない声です。しかし、じっくり聴いているとやがて馴染んできて、いつの間にか引き込まれてしまい記憶に残る声です。長谷川師の読経の声は、私にとってはこちらでした。末寺の田舎坊主が大変生意気なことを申し上げるのですが、師の読経の声は基本的に渋く落ち着いた印象です。しかし一方では強い情念も感じさせます。秘められている大きなエネルギーがじわじわ伝わってくるような、実に味わい深い声でした。

例えるなら、前者は先般の紅白歌合戦に特別出演して話題になった、スーザン・ボイルさんの歌声でしょうか。インターネット上の動画配信サイトYouTubeで驚異的なアクセス数を記録し、一躍全世界で注目されるようになった、遅咲きの英国女性シンガーです。誰が聴いても素晴らしいと感じる美しい歌声です。一方長谷川師の読経の声は、美空ひばりさんの歌声と申し上げたい。ひばりさんの歌声もいいですね。ただ声の好みで、ご年配の方に好きな歌い手を選んで頂いたら、ひばりさん以外にも「私は島倉千代子、いやあたしゃ石川さゆり、いや最近は天童よしみだ」などと、意見は分かれるでしょうね。しかし「昭和を代表する最高の女性歌手はどなただと思いますか?」と質問したら、おそらく大抵はひばりさんに落ち着くと思うのです。

私の場合は、ひばりさんが晩年にヒットさせた名曲「愛燦燦」や「川の流れのように」が馴染み深いのですか、ご年配の方は、ひばりさんが若かりし頃からその歌声を何度も聴いておられるはずで、いわば耳に染みついた記憶に残っている歌声だと思います。もちろん時代背景などもあって、そういうことになるのかもしれませんが、ひばりさんの歌には他の歌手にはない特別な力があったと感じています。私なりの視点で具体的な特徴を指摘すると、ひばりさんはその歌唱力、表現力がだんとつであったことです。それを支えていたのは、ひばりさんが有していた広い音域、そして低音・中音・高音で使い分けていた声質の顕著な変化、表情の多彩さです。

ひばりさんの数々の名曲を聴いてみると、さまざまな表情を有する歌声が使い分けられています。低音部は女性とは思えないような迫力のある歌声です。中・高音部では明るくパンチのある声や若干鼻にかかる力強い声があると思えば、多少鼻に抜けながらも艶やかな声や優しい印象の声もある。そして実に哀しげな表情の声や、せつないため息そのものに聞こえる声もあります。「悲しい酒」や「みだれ髪」のように、曲によっては艶めかしいファルセット(裏声)も織り交ぜて、涙ながらに語りかける姿を想像させる歌声もありました。晩年のリサイタルで「愛燦燦」を歌うひばりさんは、まるで子供に語りかける母親のように、甘くさとすような歌声が印象的でした。ひばりさんは非常に多くの作品を歌っていますが、いずれも1曲の限られた時間の中で見事に一つのドラマを演じ切っています。この表現力の広さ豊かさが、美空ひばりの「ひばり」たる所以であり、誰もが認める「昭和を代表する大歌手」と称される理由の一つでしょう。歌うこととは実に奥の深いものです。そしてそれは西山浄土宗勤行式を読誦する、長谷川師の味わい深い読経にも通じるものです。

初めて長谷川師の読経を聴いた時、ど素人の私にとっては、師の声はとりわけ好印象ではありませんでした。私にとっては「わかりやすい声」では無かったからです。しかし何度か聴いていると「あれっ、なんだかどんどん印象がよくなってくるな」と、最初の気づきがありました。そして、その読経をお手本に練習を始めると師の本当のすごさに気づくことになりました。私は何度も聴いて同じように発声しようと試みるのですが、これが出来きません。どうしても出来きないのです。それで「このお坊さんすごいわー」と驚き、やがてはひれ伏すことになりました。聴き込めば聴き込むほど、この読経の奥の深さが見えて来ました。見事な技が駆使された実に玄人好みの読経ではありませんか。その微妙な表現力は尋常ではありませ。息継ぎの際の声の切り方にも神経が行き届いています。誠に素晴らしい読経です。たぶん、聴いているだけでは気づかなかったでしょう。そもそも、ど素人が猿まね出来るレベルではありません。しかしこれでも随分練習しました。いわば今だからこそいえる事なのです。

後に長谷川師をお見かけした時は、良い意味で少々意外でした。声の印象から勝手にどっしりした感じ力強い外見の人物像を想像していたのです。実際には、すらりとした上品で非常に静かな感じの方でした。あの情念のこもった読経とはイメージが重なりません。あえて例えるなら、時代劇に登場する剣の道を究めた達人の雰囲気とでも申しましょうか。一見穏やかでありながら一分の隙もない無言の圧力に屈して、挑んだ者が一太刀も打ち込めず「参りました」とひれ伏すシーンを思い浮かべます。やはり道を究めた人になると、余分な力は抜けて周囲には実に穏やかな印象を与えるのでしょう。それでいて、内には埋み火のように熱いものが秘められているのです。読経の際のあの緻密で豊かな表現力からして、師の歌唱力はすごいはずです。マイクをお持ちになり、演歌が流れてくれば「素晴らしい歌が聴けるに違いない」と、私は推察しております。

本山カレーは星ふたつ?

2010年01月13日

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宗門の僧侶になるための行(加行)では、食事の当番になると本山の回廊を必死で走り抜け、時間との競争でした。その食事には、たまにカレーライスの日があり、自分の食事当番と重なるとちょっと嬉しかった。使用する食器の数が少なくなるので、準備も後片付けも通常より少々楽になるからです。実はカレーライスと聞いた時「坊さん修行には似つかわしくないのでは?」と思った。だってスプーンで食べるものですよ。どう考えても日本的な食べ物ではないでしょう?でもよく考えてみたらルーツはインドの代表的な料理です。お釈迦さんの生まれた国の食べ物です。それとカレーの原料になっている香辛料は強壮剤みたいなものですから、疲れ切った心身の回復には効果的です。通常我々がカレーと称して食しているものは、インドの本場もんとは相当違う食べ物ではありますが、そういう考え方をすれば日本の修行僧が食べていても少しも変でありません。おまけに素早く食べられるので、食事中の正座から早く解放されてありがたい。だから加行人には大歓迎の献立でした。

そんなみんなが喜ぶ本山カレーですが、このカレーには娑婆のカレーとは決定的に違うところがありました。ヒントは仏道修行中の現場で食する特殊性です。察しの良い方はすぐに気づかれたと思いますが、そうです肉が入っていません。どうなってるかというと、肉の代わりにきつねが好物にしているらしい(?)油あげがたっぷり入っています。これが娑婆ではまずお目にかかれない本山特製の精進カレー、別名コンコンカレー(私が勝手に命名)です。初めて見たときは少々驚いた。「えーつ」とみんな思ったはずです。話を聞いただけで「まずそー」と思った者もいたでしょう。しかし修行中の者がそんなわがままなことを口にしてはなりません。出されたものは残さず頂くのがルールです。それでしぶしぶ口に運びました。ところが食べてみると目から鱗がポロリ。1枚じゃ足らず2~3枚は落ちるのです。「あれっ?まずくない」「けっこういけてるかも?」「いや、これはかなり美味いんじゃないか?」と、評価はすぐに変りました。そして「すみません、おかわりお願いします」になったのです。本山でB級グルメが味わえるとは思いませんでした。今でもあの香りを思い出すと「もう一度食べたいなー」と思ってしまいます。グルメガイドには絶対に載らない、選ばれた(?)者にしか口にすることが出来ない幻のカレーです。B級として採点するなら「星ふたつ」くらいは楽勝の本山カレーでした。

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