こだわり住職のよもやま話

2010年

今年の一字は?

2010年12月24日

平成22年も残りわずかとなりました。財団法人日本漢字能力検定協会が毎年師走の「漢字の日」に発表している「今年の漢字」は「暑」でしたが、確かに今年の暑さは異常でしたね。清水寺の貫主さまが巨大な色紙に今年の漢字を書き上げられるニュースはすっかりおなじみとなりましたが、その映像を目にする私の感想は「なんと見事な書なんだろー」とただただ感心するのみです。さすがに清水寺の貫主さまです。書の神様(仏さま?)に思えて来ます。ごつい筆で一気に書き上げられるそのご様子を見ていると、「立派な衣が墨で汚れはしないだろうか?」などと誠に俗っぽいことをついつい心配してしまいます。私も時々坊主衣装の姿で塔婆を書く事があるのですが、これまで何度しくじったことでしょう。貫主さまがお書きになった書はその後、清水寺「奥の院」のご本尊・千手観世音菩薩に奉納されます。いわばこの儀式(法要)が最終的な目的であり一番重要なのですが、ついついそんなことよりも「墨が飛び散って衣が」などと目先の事が気になってしまいます。今年も相変わらず見事に「在家の人」のままで私は晦日を迎えるようです。

さて今年をふりかえると、私の一字は「驚」になります。この一年は予想外の出来事ばかりでした。今年は、いや今年もさまざまな事がありましたが、驚く事が実に多かった。春には思いがけない大雪に見舞われて慌てました。

平成22年3月10日

7月には歴史的な豪雨により、大日堂を失うという光明寺にとっても歴史に残る大事件が発生しました。その後の記録的な猛暑もすごかった。その影響もあったのでしょうか、晩秋以降になると葬儀が次々に発生して多くの檀家さんをお見送りすることにもなりました。山寺のお坊さんになって以降、なんだかんだでこんなに忙しい一年を送った年は初めてでした。プライペートでも殺生坊主の記録更新があったりして、まさに「驚きました」の連続でした。来年は平穏な年になるとよいのですが、こればっかりは解りませんね。

平成22年歴史的豪雨災害.jpg

今夏は猛暑でしたが、この冬はとても寒くなるらしい。師走に入ると境内の水盤に氷が張る日が見られるようになりました。本日は晴れていますが、今現在(お昼過ぎ)の本堂の室温は5度です。山口県の山間部はホワイトクリスマスになるかもしれません。受付テーブルに置きっぱなしのPCでこの記事を書いていますが、寒くて風邪を引きそうなのでもう切り上げます。

凍り付いた水盤.jpg

続、発願文の心で生きる

2010年12月07日

航空自衛隊制帽.jpg

2月14日に「発願文の心で生きる」と題して投稿しておりますが、本日は再びこの「お題」に関して書きたいと思います。繰り返しになりますが、我が宗派において非常に大切なお経(偈文)である「発願文」の現代語訳(意訳)に、まず目を通して頂いた後に本題に入りたいと思います。できれば2月14日の記事も参照して頂けると幸いです。

発願文(現代語訳)
仏道の友よ、命の終わる時がきたならば、つぎのことを願おうではないか。心うろたえることなく、心の錯乱することなく、心を失うことなく、心身に苦しみ傷むことなく、心身は安らかにして、心は安定の状態に入り、目の前に仏・菩薩らのお迎えを頂きたい。そして阿弥陀仏の救いの願いに乗って勧経に説いている上品上生の往生人のように生まれさせて欲しいと。無論、かの国に生まれ至ったならば、そこで得た偉大な能力をもってこの世の苦しむ人々に救いの手をさしのべようと思っています。このわたしたちの願いは、宇宙の空間が限りなく広がっているように尽きることはありません。このように発願いたしました。心より阿弥陀仏に帰命いたします。

 

12月1日、檀家の長井和夫氏がお亡くなりになりました。私にとって氏はとりわけ印象深く特別な方でした。現役時代の故人は航空自衛隊の自衛官として要職に身を置かれていました。適切ではないでしょうが、あえて古典的な表現をするならば、いわゆる「軍人」であられた。しかし、故人のお人柄をよく存じ上げる者の一人として、誤解を恐れずに率直な思いを述べさせて頂くと、「この方が自衛官であったなんて信じられない」と思わずにはいられませんでした。なぜなら長井氏は実に温和な人物であり、まるで菩薩のような方だったのです。氏は私にとって尊敬すべき人生の先輩であり、同じ仏教徒として「心の師」でもあられました。

仏教では「貪瞋癡(とんじんち)」 貪(むさぼり)瞋(いかり)癡(おろか)の「三毒」を強く戒めますが、これを克服することはとても難しいことです。仏教者である私にとって、貪瞋癡の克服は永遠のテーマであります。長井氏の人生を見聞きし晩年の生き様を拝見させて頂いた私にとって、三毒を見事に乗り越えられている姿には尊敬の念を禁じ得ませんでした。そして、故人は己の死期が迫る中でも周囲に対する思いやりにあふれた行動を最後まで忘れない方でした。それはまさに深い慈悲の心でした。確かにご職業をかんがみれば、己の死というものに対しては一般人には及びもつかない深い覚悟があられたであろうことは想像できます。しかし、それはあくまでも現役時代のことでありましょう。誰しも死は恐ろしく苦しいものです。他人には決して計り知れません。しかし、それでも、できるとこならば穏やかな心でその日を迎えようではないかと「発願文」は説きます。そして、それは己の為だけではないのです。恐怖におののき苦しみもだえる姿を見守ることになる家族や周囲の人々を苦しませ悲しませたくないからでもあるのです。だから「最後まで慈悲の心を手放さない菩薩の生き方をしようではないか」と発願文は説くのです。

12月1日午前5時24分、長井和夫氏はこの世での使命を終えられ、お浄土にお還りになられました。故人はまさに「還相回向」の人でした。前世において、極楽へ往き仏となり、そして阿弥陀仏の大いなる願いに導びかれて再びこの世界に戻って来られていたのにちがいありません。この世で人々を救済する(阿弥陀仏のお手伝いをする)ために、この娑婆世界で菩薩の生き方を貫かれ、そして再び阿弥陀仏の元へ還られたのです。まさに「発願文」の心で生き抜かれた76年の生涯でした。

制服に身を包み涙をこらえながら最敬礼でお見送りされるご子息、竜夫さんの姿が脳裏に焼き付いております。父と同じ道を進んだ竜夫さんにとって、故人は尊敬する父でありまた目標でもありました。万感の思いを込めた最後の敬礼を目の当たりにした私は、激しく心を揺さぶられました。発願文を称えるたびに私は長井和夫さんのことを思い浮かべることとなるでしょう。今生においてお会いできたことを心から感謝申し上げます。 合掌

安部家の年回忌法要

2010年11月21日

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本日は安部家のお宅で年回忌法要がありました。読経は私にとってのスタンダード、阿弥陀経と日中礼賛偈でつとめさせて頂きましたが、少々駆け足ぎみの読経でいつもより早く終わるように意識しました。それというのも、当主の安部和敏氏はまだ定年前なのですが、4人の息子の内すでに3人(でしたっけ?)が片付いており(嫁さんをもらってる)沢山の孫がおられます。本日はおチビさんたちが勢揃いなので「長くなったらまずいでしょう」と考えたのです。ところがどっこい、子供達は思いの外静かにしているではないですか。拍子抜けというか誤算であります。(みんなお利口さんでしたね、写真右側に写っています)これなら時間を意識する必要もありません。それで、当初は予定していなかった法話も追加させて頂きました。

おつとめが一通り終わった後は、すぐ近くにある安部家のお墓にお参りに行きました。大変良い天気でしたから歩いて行くには絶好でしたね。安部家の立派な累代墓の前で親族一同の記念写真を撮り、再び自宅へ戻ってくると、法要会場はすでにテーブルが並べられて食事の用意が出来ていました。当主のご案内で席に着いて目の前のお料理にふと見をやると、「あれっ、どっか違うナー」と感じます。よく観察すると目の前のお料理はすべて個別の容器に盛られています。これってお店での食事と同じですが、ここは料理屋じゃないですから、あれれ?です。今日、自宅で行われる年回忌法要の食事といえば、送迎バスで料理屋等へ場所を移動するか、仕出屋さんから配達してもらう豪華なお弁当(会席膳) になります。ところが目の前にあるお料理は一品ごとに陶器の容器に盛りつけてあります。それで訪ねてみたら、なんと全て奥さんの手作りなんです。これには驚きましたね。

いまどき(この表現は適切ではないかも)法事の際に手作りのお料理でもてなす家はめずらしいでしょう。いや大変貴重です。すごいと思います。奥さんにはすっかり脱帽です。見直しましたね。(この表現は失礼だなー)訂正します。「尊敬します」である。そうです、私は料理の上手な女性を尊敬してやみません。(以前ピアノの弾ける人を尊敬してやまないと書いているが、ご婦人方の料理の腕前も同様である)みなさん、自分が長生き出来たら奥さんの手料理を何度口にする事になるか、その回数をよーく考えて下さい。料理上手な奥さんがどれだけ有りがたい事なのか、世の亭主族にはしっかりと理解して頂きたいものです。残念ながら携帯のショボイ写真しかありません。レンズにキズが入っているので不鮮明ですが掲載します。本日は寺まで迎えに来て頂いたので、車に積みっぱなしのカメラで撮影することが出来ませんでした。残念。でもその代わりに(?)奥さん手作りのお料理をアルコール付きで堪能させて頂いた。実に贅沢な食事でした。ありがとうございました。

十夜会厳修される

2010年11月16日

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昨日山寺は十夜会が行われました。春の彼岸会と同様に午後から行う法要なので、例によって六種類ある唄みたいなお経(往生礼賛偈)は「日没礼賛偈」を読誦しました。往生礼賛偈は、いずれも阿弥陀様のおられる西方極楽世界(お浄土)に思いを寄せる実に味わい深いお経です。昨日みさんに聴いて頂いた日没礼賛偈は、タイトルの通り通常は夕方(午後)のおつとめとして読誦するお経です。ですから夕日を浴びながら称える事が出来ると一際感動的なおつとめになること間違いなしであります。まあ、そこまで条件がそろうと映画の一場面みたいで少々芝居がかって来ますが、要はそういう心構えで臨みたいお経だという事です。理想としては「沈み行く夕日を追いかけるようにして読経させて頂けるといいなー」と云うわけですから、他の時間帯の礼賛偈よりも若干早いテンポで読誦することになります。

さて、この日没礼賛偈ですが、前半部分で阿弥陀如来の別名を次々と読み上げます。このお経の最大の特徴であり印象に残る部分でしょう。登場する阿弥陀如来の別名は、無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏です。阿弥陀仏の智慧の働きを十二の光にたとえてこう呼ばれるのです。そして終わりには「日没無常偈」と呼ぶ重厚な詩偈を蕩々と読誦します。(まさに歌い上げます)無常偈は、仏教における重要なキーワードの一つである「無常」を説いています。六種類ある往生礼賛偈は、いずれも最後は無常偈で結ぶことになり、日没無常偈、初夜無常偈、中夜無常偈、後夜無常偈、晨朝無常偈となります。参考までに日没無常偈の経文と現代訳を掲載します

 


【日没無常偈】


諸衆等聴説日没無常偈

もろもろの衆生たちよ聴きたまえ、日没の無常偈を説こう。

人間怱怱営衆務

人間は慌ただしく苦楽を生む処世に追われ、

不覚年命日夜去

仏の教えを目の前にしながら寿命がどんどん流れていることを知らない。

如燈風中滅難期

風の中に置いたロウソクの火が消えるか消えないのかをハラハラして見ているように、

忙忙六道無定趣

気の休まらない六道輪廻の世界には、心の安らぎはない。

未得解脱出苦海

欲望の執着から解脱して、苦しみの世界から抜け出していないのにもかかわらず、

云向安然不驚懼

どうして安閑として、この世の無常迅速に驚きおそれないのか。

各聞強健有力時

みな、しっかりと聞いて欲しい、生きている今こそ、

自策自励求常住

みずから励み勤めて、永遠の真実なる世界に生まれることを求めるべきである。

 

正伝寺 家原宗之師

さて、私の読経が一通り終わると次は先日、晋山(住職就任)されたばかりのご住職にお説法をして頂きました。福岡県行橋市馬場にある正伝寺の家原宗之師です。11月10日の毎日新聞、地域版を開くとカラー写真で大きく掲載されていたのでご覧になった方もおられるかと思います。母方の実家のお寺を継がれたご住職です。家原師はごらんの通り実に立派な体格のお坊さんです。失礼ながらおたずねすると体重は三桁だそうです。すごいですね。我が山寺の内陣は床が随分痛んでいますから、皆さんが見ている前で床板が抜けやしまいかと、私はヒヤヒヤしながら高座にご案内しました。(笑って下さい、本当です)家原師はまだ31歳です。若いっていいですねー。肌なかんつやつやしてます。笑顔になると細めた眼がとても可愛らしくて(失礼)実になごやかな気持ちにさせて頂けるお坊さんです。貴重なお説法を拝聴させて頂きました。ありがとうございました。

2010年11月16日

今年の十夜会は大銀杏が見事に色づいたタイミングで皆さんをお迎えすることが出来ました。本堂前は山吹色の扇葉で覆われ始めています。境内の整備を進めた関係で昔にくらべると密度は随分低下しましたが、(広範囲に拡散するので)しばらくこのままにしておこうと思います。

西山の瀬戸内寂聴さんです

2010年11月09日

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本日は快友寺で十夜会法要がありましたのでお手伝いに行って来ました。お経の後は専修寺(福岡県宗像市東郷)ご住職、馬場俊良師によるお説教が行われました。先月末の舜青寺さんの晋山式で行われた記念説法に引き続き、私は再びお話を聞かせて頂く機会に恵まれました。ご住職は小柄な尼僧さんです。福岡県には西山の尼僧さんが結構いらっしゃいますが、山口県には皆無なので女性のお坊さんのお説法を聞かせて頂く機会はめったにありません。快友寺の檀家さんはもちろんのこと、私にとっても貴重な機会でした。専修寺さんは失礼ながら実に若々しい感覚の語り口が印象的な方です。初めてお会いしたのは、坊さんの研修会が専修寺さんで開かれた時でした。気さくでとても明るい方だったので初対面の時からしっかり記憶に残りました。こんな発言をすると関係者や諸先輩方からお叱りをうけるかもしれませんが、坊さんの世界は男社会です。これは事実だと思います。そしてそんな世界で頑張っておられる尼僧さん達の姿を拝見した私の率直な感想は、皆さんとても真面目で真摯な生き方をされているので頭が下がりました。専修寺ご住職も見事な清僧です。それに比べて私などは典型的な破戒僧ですから誠に恥ずかしい限りです。

山寺光明寺は平成19年の春に専修寺さんにお説教をして頂いたことがあります。檀家のみなさんには「西山の瀬戸内寂聴さんです」と紹介させて頂きました。お説教は当然ですが、ご詠歌もとってもお上手な尼僧さんです。機会があれば、また山寺に来て頂きたいものです。

今年も見事に色づきました

2010年11月08日

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山寺の大銀杏が色づいて来ました。すでに風が吹くとハラハラと散りはじめていますから、今週末あたりがピークだと思います。数年前までは落葉が真下に分厚く降り積もるので後片付けが大変でしたが、今はそこまで積もることはありません。境内南側へ駐車場を整備した関係で風通しがすこぶる良好になり、落ち葉はたちまち飛散するようになったからです。おかげで随分助かっています。実に良い事みたいに書いていますが、要するに風が吹き散らかしてくれるので「掃き掃除をサボれるようになった」という事です。南北に細長い境内を北風が吹き抜けると、都合の良いことに(私にとってです)遙か遠くまで吹き飛ばしてくれます。ただし飛散した落ち葉がこれまで以上に周囲に迷惑をかけているのも事実です。 (こんな田舎ですから叱られることはありませんけど)それと、あの見事な絨毯がもう眼に出来ないのはとても残念です。降り積もった落ち葉で実に素晴らしい景観でしたからね。およそ娑婆世界では何もかもが都合良く行くなんてことはないのですが、凡夫はやはり無いものねだりしたくなるものです。

まさに喜びの涙です

2010年11月01日

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昨日は「西山で用いる二つの紋」 (3/9投稿記事)でご紹介した徳光山舜青寺さんで晋山式が行われました。先代漆間正道師が遷化されて早や三年、法灯を受け継がれた漆間朋道師の住職就任式は、組寺の僧侶はもとより檀家の皆さんや地区の皆さんも多数見守る中で盛大に開催されました。晋山式の主役はもちろん晋住(新住職)ですが、ひときは皆さんの目を引いたのは可愛らしいお稚児さんたちでした。少々雨模様だったので屋外での稚児行列は中止になりましたが、先代が再建された本堂で稚児行道をしっかりやりました。その様子を眺めていたら、もう二十歳になる私の娘が実家の檀那寺本堂の建て替えが行われた際に稚児として出演(?)したのを思い出しました。まだ幼かった長男は姉の稚児姿を目にするなり「自分もやりたい」と急に言い出して妻を困らせたものです。私はカメラを握りしめて娘の晴れ姿を残す事に必死でした。(当時写真に凝っていましたから)仕上がったプリントを眺めて「我が娘ながらなんて可愛い子なんだ」と悦に入ったりしていたのですから見事な親ばかぶりです。稚児行列はめったにありませんが実にいいものですね。お寺なんて(失言)常日頃はお年寄り専門ですが、この日ばかりは若い方の姿が目立ちます。そしてこれがあるからこそひときは賑やかになるのです。お稚児さん一人につき、父母とおじいちゃんおばあちゃんですでに4人の関係者が御参拝です。この構図は幼稚園の運動会とまったく同じですね。

さて、晋山式が無事に終了したので晋住はさぞかしホッとされたことでしょう。事前の準備も大変でしたね。本当にお疲れ様でした。なんてったって晋山式は何度もやることじゃないし、やり慣れていない事が沢山出てくる法要ですから緊張しますよね。「うまく出来るかなー」なんて言われてましたが、前日に二人でリハーサルした通り見事にこなされました。それと流石に元教頭先生ですね。(今年退職されました)晋住の挨拶は実に堂々としていて素晴らしかった。私など極度のあがり症ですから、いまだに人前で話すのは苦手です。うらやましい限りです。

式の最後には支所長の願成寺住職、国藤重成師より参拝の皆様に謝辞が申し上げられました。当日の雨模様について「先代が喜びの涙を流され、この地に降りそそがれているのです」と述べられた挨拶には感銘を受けました。先代の強い思いを知る一人として、まさにその通りだと思いました。誠におめでとうございます。

運を使い切ったかも?

2010年10月28日

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私が殺生坊主であることは、こだわり住職の懺悔(後編)で白状していますから、本日は最近釣り上げたお魚のことを書きます。(今秋思わぬ大物を釣ってしまったので自慢したいのである)場所は玄界灘のまっただ中に浮かぶ沖ノ島です。ここは福岡県宗像市にある宗像大社(むなかたたいしゃ)の神領(沖津宮)なので勝手に上陸することは出来ません。島全体がご神体とされており今も女人禁制の伝統が守られています。島内の古代祭祀遺跡からは12万点もの遺物が出土しており、その多くは国宝、重要文化財となっています。別名「海の正倉院」とも呼ばれており、地元宗像市をはじめ福岡県等が中心になって世界遺産への登録を目指す動きが活発になっている宝の島です。九州本土からは60㎞位離れており周囲には何もありません。まさに絶海の孤島です。

さて、そんな神聖な場所に年に何度か私が行くようになったのは(恐れ多くも魚釣りである)坊さんになる前からですから、もうかれこれ8~9年になります。長年の相棒、上田研二が案内してくれた事で、私の釣りに対するスタイルはずいぶん変わってしまいました。それまでは上田と大分県米水津村でのクロ釣り専門でした。しかし大分への釣行はどうしても体力勝負になるので互いに辛くなっていたこともあり、やがて釣行先は沖ノ島オンリーとなって行きました。この島での釣りは実に強烈で釣りというよりも格闘に近いケースが多くなります。対象魚の筆頭は何と言っても特大のヒラマサ(九州ではヒラスとかヒラソと呼ぶ)でしょう。通常、釣師が磯から狙えるターゲットとしては最高の獲物(ファイター)であり食味もバツグンです。シーズンになるとこの島を訪れる釣り師は軒並み目の色を変えて狙っています。常連のタックルを初めて目にしたときは「クジラでも釣るんやろか」と思えるほどごつい仕掛けなので驚きました。それまでの私は太くてもハリスは6号でしたから、12号だとか14号で狙っているのを知って唖然としました。彼らはあくまでも超大型(メーター級)を狙って釣行しているのです。事実この島ではとんでもない大物が釣れます。ヒラマサは139㎝/25.7㎏という怪物が出ています。数は出ませんが大型の尾長グロも釣れます。私の知る範囲では71.6㎝/7.32㎏がここの記録だと思いますが、同じ船で釣行していたので現物を見ています。

初めて訪れた時の事は今もよく覚えています。大分の磯で真鯛や大型の尾長を夜釣で狙うために使用していた、自分としては最強のふかせタックルで沖ノ島に挑んだのですが、見事な返り討ちにあいました。その日は大型ヒラマサの食いが好調で私の仕掛けにすぐ当たって来ました。しかしこの島ではいたって軟弱な道具立てになるのですから、とても太刀打ちできません。たて続けに三度でした。ものすごい力で糸を引きちぎられました。私がその日持ち帰ったのは大型のイサキ(40㎝以上ありました)数匹と50㎝級の尾長グロでした。私にしてみれば充分な釣果ではありますが、あの強烈な引きを体験すると、やはり「釣り上げてみたいな」の思いは強くなりました。それまでの私は繊細な釣りが中心でした。柔らかい竿と細い糸で釣技を駆使して良型のクロを取り込む釣りです。しかしここでは根本的に考えを改めないといけません。とにかく太い仕掛けと強い竿でないとヤツらを(大型ヒラマサ)取り込むことは難しいのです。その後は私もそれなりの道具立てで釣行するようになり、そこそこ釣らせてもらっています。しかしメーター級の大物となると運も必要ですから、私のような「にわか大物師」にはチャンスは巡ってきませんでした。釣れてもせいぜい80㎝位でした。

自己最高記録(1㍍のマグロ).jpg

ところが今年の私は好調でした。春に訪れた際には85㎝の真鯛を釣らせて頂きました。真鯛の自己記録更新です。そして今秋には写真の大物に巡り会うことも出来ました。長さは1メートル位(正確には計測していません)あったでしょう。重量は12㎏でした。スーパーの鮮魚コーナーなどでおなじみのキハダマグロです。残念ながらヒラマサではありませんでしたが、沖ノ島でもこのサイズのマグロとなるとめったに釣れません。(50~60㎝の小型なら釣れますが)毎年秋のわずかな期間だけチャンスが巡ってくる貴重な獲物です。これまで大物にはとんと縁のない小物釣り師の私が運良く釣ってしまったのですからびっくり仰天です。クーラーに納まらないので山口まで持ち帰るのは大変でした。ここまで大きいと後が大変です。テーブルに新聞紙を広げて豪快に解体し、親戚やご近所に配って喜んで頂きました。猫のくせに魚嫌いのチロ(実家の猫)も、マグロだと喜んで食べてくれました。まるで宝くじにでも当たったみたいで「自分の運を使い切ったんじゃなかろうか」と少々心配になる事件でした。

大日堂の鰐口が復活しました

2010年10月26日

復活した大日堂の鰐口.jpg

7月15日の豪雨で倒壊した大日堂には寛政11年に設けられた鰐口がありました。被災後は取り外して保管していましたが、昨日本堂の向拝に取り付けて復活させました。浄土宗の本堂に鰐口がぶら下がっているのは妙かもしれませんが、このお寺の歴史を考慮すると「これもありかな」と考えました。設置には長いハシゴが必要で苦労しましたが、こうやって眺めるとずっと昔からここにぶら下がっていたかの様です。建物が建物ですから(ボロボロである)江戸時代の鰐口とのマッチングはすこぶる良好、全く違和感がありません。大日堂の御本尊「大日如来」さんは、今はこの本堂内に奉ってあるのですから、鰐口があった方がやっぱりいいでしょう。これをカンカンと鳴らすと雰囲気も出ますしね。毎月大日如来をお参りされている方や、まもなく本堂の前にある大銀杏が色づくのでこれを目当てに山寺を訪ねられる方などに、さっそく鳴らして頂ける事でしょう。もちろん山寺の行事で参拝された皆さんも鳴らして下さる事でしょう。以前より使用頻度は確実に向上するでしょうから、これはいい判断だったかも。もっと早く設置すれば良かったなと思います。

松永家の開眼供養

2010年10月24日

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松永家墓所の移転工事が終了したので、昨日(10/23)は山寺の霊場霊園で開眼法要を行いました。例によってもろもろのお道具を持ち込んできっちりとやらせて頂きました。思えばこの霊園造成はかなり思い切った決断でした。いざ工事に入ると、今時の霊園に期待される水準を意識して、どうしても「これくらいのレベルまではやっとかなければ」と費用は膨らんで行きました。でもこんな田舎ですから永代使用料はごくお安い設定にしてあります。収支を意識していたら絶対に出来ない「ご乱行」ですが、境内整備の一環だと考えれば「これもありかな」です。それから美祢市は中心部でないと整備された霊園が無いこともありました。山寺の周辺では、各家の墓所は山中の不便な共同墓地や所有する山林に建立してあるケースが大半です。過疎と高齢化はどんどん進行しているので、これらの墓所では維持管理が問題になって来ています。そんな事情があるので、当地でもアクセス道路や区画内の通路等がきっちり整備してある、今風の霊園が必要になっています。お墓のすぐそばまで車で入れて足腰の弱った高齢の方や車いすの方でも参拝可能な霊園が必要なのです。

さて、話を松永家の開眼供養にもどします。今年の豪雨でご当家の累代墓が被災したので、これを機会に山寺の霊園へ墓所を移転されました。ごらんの通り、おばあちゃん(アヤさん)にも出席して頂いて法要を行いました。アヤさんはもうすぐ101歳になられます。耳の方はだいぶ遠くなられましたが、ご家族に囲まれてお元気に過ごされています。今でも身の回りの事はご自分でされているそうです。すごいですね。文句なしに山寺の霊園にお参りされた最高齢者です。この記録は容易には破られないでしょう。日本は世界一の長寿国になりましたが、さすがに100歳超えとなると限られます。ましてやアヤさんのようにすこぶるお元気な方となるとさらに限られます。1世紀も世間の移り変わりを見て来られたのですから、きっといろんな事があってさまざまな思い出をお持ちのことでしょう。ご主人(勇さん)が昭和49年に建立された累代墓は、36年後に菩提寺の新しい霊園に引っ越すことになりました。2度目となるお墓の開眼供養(再開眼)に立ち会われた感慨はいかほどだったでしょう。以前の墓所はアヤさんがお参りすることは不可能でしたから、私としても霊場霊園を整備したかいがあったというものです。本当によかったです。

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