こだわり住職のよもやま話

2010年

タケ子さん宅の法事

2010年05月13日

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先日、藤井タケ子さん宅で法事がありました。タケ子さんはご主人が昭和57年に亡くなられて以降、一人で生活をされていました。昨年体調を崩されたのを機に、近くにおられる子供さんの所に身を寄せられるようになっていたのですが、最近転倒による骨折で入院をされています。それで今回はタケ子さんが長年住み慣れた自宅に、息子さん夫婦と娘さんが集まられて年回忌法要を行いました。お会いしたかったのですが残念でした。タケ子さんは89才になられると聞きました。数年前から少々視力が低下されているので、顔をのぞかせてもすぐには誰だか解りにくくなっていました。それで訪問した際には大きな声で「光明寺の坊主が来ました」と声を掛けていました。そんなタケ子さんですが、老いたとはいえ頭の回転はとても速い方です。大変失礼ながら「このおばあちゃんはただ者ではないなー」と痛感させられた経験があります。

それは6年前のことです。お盆のおつとめで訪れた時の事が今も印象に残っています。タケ子さんのお宅には毎年お盆前の決まった日の午後に訪問しますが、いつも軽い食事を用意して待っていて下さいました。そうめんやスイカなどを頂いて、こちらで少々油を売るのが恒例です。いろいろお話しをすることになるのですが、その際の話題が政治や経済の話にも及ぶのでびっくりでした。例えば「今朝の新聞の○○の記事について方丈さんはどう思うかね?」だとか、昨夜のニュースについて「私はこう思うけど方丈さんの見解は?」なんて、80才を超えてるタケ子さんから次々に飛び出しました。「偏見だぞー」って叱られるかもしれませんが、当地は田舎ですからめずらしく感じますよね。その後も毎度のように政治や経済問題について意見を交わしたり、新聞やテレビなどで今話題になっているテーマについて、あれこれ会話をすることになりました。最新の話題がどんどん出てくるということは、毎日隅々まで新聞を読みニュース番組も常にチェックしておられるという事です。雑誌や話題の本などもよく読まれているから、ホットな話題で盛り上がることになります。私が知らない最新情報を教えて頂くこともありました。話していると実に年齢を感じさせない方です。それで「このお年寄りはただ者じゃないぞー」と思ったのです。

後から知ったことですが、タケ子さんは職業婦人でした。今では看護師と呼びますが、現役時代は看護婦さんだったのです。要するにバリバリのキャリア・ウーマンだった訳です。厳しい医療の現場でがんばって来られた気丈な方だからこそ、この年齢になられても自立した生き方を実践することが出来たのでしょうね。タケ子さんの経歴を知って「なるほどなー、強い女性なんだー」と改めて納得したものです。まったくもってすごいお年寄りです。

今回はかないませんでしたが、次の機会にはぜひ元気なお姿を拝見したいものです。気にかけて下さっていた本堂建て替えの件も、今年中には正式に計画が固まって動き出すでしょう。我々に時間が限られているのは否定できない事実ですが、新しい本堂をぜひ見て頂きたいのであります。

ナナの記憶

2010年05月09日

光明寺境内の生類供養塔

大日堂のそばにある生類供養塔の石棺には、檀家さんの愛犬「ナナ」が眠っています。16才だったとのことですから、ずいぶん長生きしたワンちゃんです。ナナは真っ白な中型犬で座敷犬でした。法務で訪問するとさっそく私のそばにやってきます。まれに「犬が怖い」といわれる方がおられますが、私は元来動物好きでとりわけ犬が好きです。ですからナナが真横にいても全く平気ですし、そばでおとなしくしているナナを見ていると、私のお経に耳を傾けているみたいで犬とは思えない不思議な感覚さえ抱いたものです。仏教では、我々衆生は六道世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を何度も生まれ変わっているのだといいます。(これを輪廻転生という)そしてこの輪廻転生から離れること、すなわち六道世界を繰り返し生まれ変わるサイクルから脱出し、お浄土(極楽国土)へ生まれ変わることが、苦しみの世界から離れることであり解脱なのだと説きます。私の読経に付き合ってくれるナナを見ていると、この六道輪廻を意識させられました。「ナナの前世は何だろう?人間だったのかもしれないなー」などと思えて来てしょうがなかったのです。

ナナは今世では畜生道に生まれました。本当はお浄土に生まれたかったでしょう。せめて人間界(人道)には生まれたかったと思います。でも今世のナナは決して不幸ではなかったと思います。ナナは生まれて間もなく家族の一員として迎えられました。長年このお宅で過ごしたナナにとって、一番の楽しみはたぶん日課であったご主人様とのお散歩でしょう。そんなナナですが、最晩年は足腰がすっかり弱ってしまい視力も低下していました。散歩の際にはとてもゆっくりした足取りです。よく見ると少々フラつきながら歩いていました。檀家のご主人はナナの歩調にあわせて、実に辛抱強く付き添うようにして散歩をされていました。あそこまでいたわってもらえたナナは幸せ者だったと思います。

ナナが亡くなったのは平成19年2月20日でした。ご主人の落胆ぶりは傍目にも感じ取ることが出来ました。私自身も愛犬が逝った時の辛い記憶があります。その犬は私が生まれる前から飼われていた大型のシェパード犬で、名前は「ケリ」でした。物心ついた頃からいつも一緒に遊んでいました。幼い私がケリの背中に乗って得意げにしている写真も残っています。ケリが死んだのは私が小学校3年の時で大変ションクでした。激しく泣きじゃくったのを覚えています。一番の仲良しだった友達を失った私の哀しみは、とうてい言葉では伝えられそうにもありません。ナナに逝かれたご主人の哀しみも、きっと私の経験に勝るとも劣らないものだったにちがいありません。

ナナが逝ってしばらくすると奥さんからご相談がありました。「ナナがいなくなって主人が可哀想なほど落ち込んでいます。ナナの為にお経をあげてもらうことは出来ないでしょうか?」とのことでした。ご主人はナナのお骨をベットのそばにずっと置いているそうです。あれほど可愛がっていた我が子同然のナナが逝ってしまったのです。ご主人にしてみれば長年生活を共にした家族の一員であり、親兄弟・子や孫との別れと何ら変わりない深い哀しみでした。他人には理解出来ない喪失感なのです。そんなご主人に対して、坊さんである私に出来ることとは何でしょうか。「命あるもの何時かは死を迎えるのです。およそこの世に永遠などというものは無いのですから、無常の理を受け入れるべきなのです」などと、正論を吐いてご主人の哀しみ(苦しみ)が容易に消え去るとも思えません。私はただ一言「ナナのお葬式をしましょう」と申し上げました。

生類供養塔の墓誌

ナナのお葬式は大日堂で行いました。ご主人と奥さんに同席して頂き、我々人間の葬儀と同等のお経を読誦させて頂きました。戒名も付けさせて頂いた。お骨は建立したばかりの生類供養塔に納め、供養塔の墓誌にはナナの戒名も刻みました。ここまで丁寧にやれば、ご主人の心も救われるのではないでしょうか。「いのちあるもの何時かは」などと説教をたれることよりも、こうするほうが良いと私は思いました。仏教本来の考え方とは少々逸脱しているのかもしれません。ここまでやってしまう私は、たぶん見事な破戒僧でしょう。しかし、人は言葉であれこれ諭されるよりも、することをきっちりやってみせること、かたちを整えることの方が素直に納得出来るものです。お葬式とは遺族が死を受け入れるための、いわばけじめの儀式です。ご主人にとってはナナのお葬式を丁寧に行うことが一番の救いだったと今も思っています。ナナの供養塔婆にはこう書きました。「奉修為慈空妙寿信女発菩提心転生安楽国塔・平成十九年二月二十日没・俗名ナナ」ご主人の深い愛情に包まれて、きっとナナは安楽国(お浄土)に生まれ変わったことでしょう。

 

大日祭盛会でした

2010年04月30日

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山寺は4月29日に大日祭と花祭りが開催されました。今年も5人の僧侶が集い大日堂の転読修行と本堂での花祭り法要が厳修されました。前日は午後より少々雨が降って心配しましたが、当日はまずまずのお天気でした。ただし、もう四月の末だというのに少々風は冷たかった。坊さんの支度は足元は涼しいのですが、上半身は袈裟などを重ね着するので結構暑いものです。それで例年だと白衣は夏物を着て法要に臨むのですが、今年は完全に冬支度でOKでした。まったく今春の天候は変ですね。本来我々の宗派においては、導師(私)は荘厳衣と呼ぶ正装をするのがまっとうです。七条袈裟と呼ぶ金襴の重くて大きな袈裟をつけます。(それで「大袈裟な」という言葉が生まれた)左手には荘厳数珠という長い数珠をかけ、右手は馬のしっぽみたいな(?)払子(ほっす)と呼ぶ道具を持ちます。そして頭には水冠(すいかん)と呼ぶ大型の烏帽子をかぶります。衣で隠れているので一部しか見えませんが、神主さんと同様に袴も着用します。これが我々西山浄土宗における導師の正装です。要するにお葬式の時などに目にする物々しい支度です。しかし今年から私は七条袈裟のかわりに、如法衣(にょほうえ)と呼ぶ金襴ではない薄手の袈裟(大きさは七条袈裟と同等)で大日祭の導師を務めることにしました。それというのも、組内のお寺さんにお手伝いして頂いて転読が行われている最中に、私はお参りに来られた皆さんにお一人づつ大般若経をパラバラやって厄除けをします。その際に重い七条袈裟をつけていると写真のような動作がやりにくくてしょうがないのです。それで今回からごらんの通り少々地味(?)な支度でやらせて頂きました。これだと「誰が導師か解らんかも?」との声もあったのですが、大般若転読が始まる前のおつとめでは荘厳数珠と払子を携えておりますし、真ん中の導師席(写真の右手前方にもう一部屋あり導師の着座席もあります)に座りますので「一応導師の区別はつくでしょう」という判断で、この支度でやっちゃいました。まあいろいろ意見はありますが、そもそも大日堂は真言宗であった旧光明寺の御本尊が奉られている御堂です。私のように未だに在家の人感覚だと、「こっちの支度の方が真言風の雰囲気が出て良いのでは?」と思うのです。いずれにしても、どんなやり方が一番良いのかは今後も研究はしないといけませんけどね。

水冠姿の法然上人像

蛇足ですが、前記の払子というのはお釈迦さんの時代には蚊や蠅を払う為に用いられたものです。殺すことを目的とするハエたたきとは根本的に考え方が違う道具ですね。殺生を戒める仏教ならではの思想が反映されています。今日では導師の容儀を整える第一礼装の執持具とされています。要するに払子を持っている人が導師という訳です。だから導師にとって非常に重要なお道具です。

さて、大日堂の転読修行が終わると次は本堂で花祭の法要です。こちらでは我が宗派のしきたりにのっとって、私は正装で導師を務めさせて頂きました。正装となると前記の通り水冠をかぶるのですが、これはとても大袈裟な(?)烏帽子です。着用した際の状態が水平になっていないと見た目がよろしくないのですが、すわりが良くないので気を遣います。この水冠は浄土宗系の本堂を観察すると大抵目にすることが出来ます。通常ご本尊の左右には、お坊さんの像が設置してあるはずです。それらは高祖善導大師と宗祖法然上人の像なのですが、このご両人が着用されている帽子が水冠なのです。私が初めて目にした時には、正直なところ「へんてこな帽子だなー」と思いました。正面からだと解りませんが、実物は前後に細長い大きな帽子です。後に自分がかぶるようになるなんて、その時は思ってもいなかったので実に不謹慎な感想を持った訳です。あー恥ずかしいやら申し訳ないやら。

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本堂での花祭(降誕会)には子供たちも沢山来てくれました。餅まきの際には大変な賑わいです。毎年婦人会のみなさんがたっぷりと用意して下さるので、おチビさん達もしっかりお土産が出来たようです。お菓子も沢山混ざってますから、しばらくおやつに困らないでしょう。よかったですね。それにしても餅まきっておもしろいですよ。拾うのが楽しいのは当然ですが、まき手側も実に愉快です。老僧に曰く「普段はどこにおるかとも言われんが、この時だけはこっちこっちと皆が手招きしてくれる。わしでもモテモテじゃー」であります。

本山御忌会開催される

2010年04月24日

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21日に組内の快友寺住職が本山御忌会の講讃導師を務められました。七日間に渡って盛大に行われる本山の御忌会(法然上人の年回忌法要)において、宗門における頂点の僧侶である御前さん(法主)の代務として「歎徳之疏・たんどくのしょ」を読み上げる重要な役目が講讃導師です。「歎徳之疏」では他力易行浄土の一門を開かれた法然上人の半生が語られ、広大な恩徳に報謝申し上げる言葉が述べられます。講讃導師は本山御忌会における一日法主みたいな重要な役目であり大変名誉なことです。それで快友寺檀家を中心に我々山口県各末寺は合同で本山の参拝団を組み、前日の午後より北九州市の新門司港より阪急フェリーで神戸まで夜行便で移動し、神戸港からはバスに分乗して本山へ向かいました。平日であったこともあるでしょうが、我々参拝団以外の乗船客はわずかで船内は閑散としています。高速道路の割引制度の影響でフェリー業界はいずれも大変であることは聞いていますが、1万5千トンもあるフェリーに乗船客がこれでは見事に赤字でしょう。我々山口の参拝団はこの船で本山を訪れるのが定番なのですが、このフェリーの存続が少々心配になりました。

さて私は桜が満開だった8日の同行人会に引き続き、今月二度目の本山訪問ですが、紅葉参道はすっかり新緑になっており、境内のあちらこちらでツツジの開花が見られました。ここは何度来ても良い所です。四季折々の表情を見せてくれますから訪れるたびに心に栄養を頂けます。本山は秋の紅葉シーズン以外は無料で入山可能です。元々広大な境内に柵はなくて、どなたでも自由に境内を散策することが可能です。今時こういう本山はめずらしいでしょう。ところで今回それらの景色を持ち帰ることは出来ていません。メモリーカードを抜いたままでカメラを持参していました。実にまぬけです。翌日からは携帯で屋外の写真を少々撮りましたが、雨が降っていたので写りはかなりひどいです。

唐招提寺

団体参拝の日程は、まず御忌会で快友寺住職の晴れ姿を見届け、その後は宿泊する琵琶湖の畔にある雄琴温泉でしこたまビールを頂くことになりました。翌日は浮御堂を見学し、その後は奈良の唐招提寺・春日大社・東大寺・興福寺を訪れて帰路につくというハードスケジュールです。高齢者ばかりの参拝団ですから、さぞや皆さんお疲れになったことだろうと思ったのですが、意外にも帰りの新幹線内でも見事に宴会場状態です。年金生活者は元気ですね。恐れ入りました。 本山を訪れた21日は良い天気でしたが、翌日はあいにくの雨模様でとても寒い一日でした。ホテルから直行した浮御堂は、本山の阿弥陀堂に鎮座する阿弥陀如来が元々あった場所です。法然上人のお弟子であった熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が譲り受けて運んだと伝えられています。それで日程に入っていたのです。その後は一路奈良を目指して移動します。まず唐招提寺を見学し春日大社を参拝してから昼食を頂きました。その後は東大寺へ向かいましたが、お目当ての東大寺大仏殿は駐車場からかなり歩くことになるのでこりゃ大変です。おまけに足元には奈良名物(?)鹿のフンがあちらこちらに落ちています。東大寺の壮大な伽藍に見とれて足元への注意を怠ると大変なことになります。おまけにとても寒い。しかし、そうちょくちょく来られるわけでは無いのでみなさんよく頑張られました。

東大寺

東大寺の大仏殿は木造建造物としては世界最大の規模なのですが、確かに間近で見上げると本当に大きいので圧倒されます。まして、最初に建立された大仏殿は現在のものより間口がさらに大きかったそうですから、驚きを通り越してあきれてしまいます。私は少々ひねくれているので、ここまで大きいのを見せつけられると「こんなでっかいものを造ろうなんて考えたあの方(聖武天皇)は、ある意味少々異常(?)な人だったのかもしれんなー」などと、大変失礼な思いにかられてしまいました。申し訳ありません。凡人の素直な感想です。(怒られるなー)

東大寺南大門

大仏殿の正面には巨大な南大門が構えていますが、その柱を間近で眺めるとこちらもまたすごいのです。その太さといい長さといい一本物の柱としては信じられない大きさです。南大門は鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されていますが、その際に山口県から運ばれたその柱は、もう二度と手に入らない巨大な木材です。東大寺再建の際に勧進を務めた重源上人(法然上人のお弟子さんでもあった)は、巨大な柱を求めて自ら山に入り探し歩いたといわれています。求める木材は徳地の山奥で見つかり、ここから防府の港まで運ぶ手段として、上人は佐波川の上流域に堰をいくつも造って水路を確保しました。徳地(山口市徳地町)を訪れると今でもその遺跡を目にすることが出来ます。柱にする巨大な木材を出したい。この目的に向かって人々は力を結集させ、谷を埋めて道を造り、巨大な滑車を設置して切り出した木材を川まで下ろしたのです。そして佐波川源流域の流れに木材を流すことができる水位を人工的につくり、佐波川河口からは瀬戸内の海路で運んだのです。こんな大それたこと今日では絶対に出来ないでしょうね。現在徳地には重源上人の資料館が併設されたテーマパーク(?)風の施設「重源の里」があります。ここを訪れると、この件に関して詳しく知ることが出来ます。とんでもない山奥ですが、けっこう人気の観光スポットになっています。

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最後に訪れた興福寺では時間的な余裕が無かったので、国宝館の見学のみでバスに戻られる方がほとんどでした。それでもみなさん大満足です。なぜならお目当ての品、例の阿修羅像を見ることが出来たからです。昨年でしたか、九州太宰府での出開帳の際に私の両親が見に行っているのですが、あまりの人出に驚いたそうです。三時間も待たされてようやく対面出来たらしいのですが、入館すると立ち止まることは許されず、じっくり眺めることは出来なかったそうです。私ならたぶん入館を諦めていますね。今回我々はこちらですんなり入館出来、しかもじっくり拝ませて頂けました。実にラッキーでした。しかも、我々がここを出発する頃には修学旅行の団体が押し寄せていて、入場口は人であふれかえっているではないですか。観光バスは停める場所が無くて大変なことになっています。お天気には恵まれませんでしたが我々はとても幸運でした。

にわか土建屋再始動

2010年04月14日

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寒がりなので冬の間はじっとしていましたが、このところの陽気に誘われて、にわか土建屋の虫がムズムズして来ました。それで、ひさしぶりにバックホーの運転台に乗り、山寺の裏山へ分け入ってみました。寺の背後の山は弘法大師八十八ケ所霊場の参道がぐるりと取り囲んでいて、頂上まで石像が設置してあります。大正四年に建立されているので、たぶん運搬は人力と牛馬だったのでしょうが、よくこんなところまで運んだものです。参道にはとても急傾斜な箇所があるので手ぶらで登っても結構疲れます。それで思い切って管理のためのアクセス道を作ることにしました。霊場霊園の一番奥から登り始めて、27番のそばに出る道がまず完成しました。思っていたよりも簡単に(?)出来たので、調子に乗ってさらに作業を続け、19番や34番へ通じるアクセス道も造ってしまいました。これで、今後は登りの八合目くらいまでは機械で容易に重量物を運ぶことが可能です。

登り側のアクセス道が無事完成したので、森の中を横断する林道も切り開いてみました。するとその過程で思わぬ発見がありました。木立の隙間から快晴の空を見上げると、青い空をバックにして雲のように白く見える場所がありました。不思議に思ってそばに行って見ると、なんと山桜の大木が見事に咲き誇っているではないですか。こんな所に桜があるなんて知りませんでした。周囲の雑木も大木なので花は日差しを求めてとても高い所で咲いています。それで、空を見上げないと見えなかったのです。実に運が良かった。花が咲いていなかったら、たぶん気づかなかったでしょう。なんだかとても得した気分です。来年は周囲の雑木を少々伐採して、もっとよく見えるようにしてやりたいものです。霊場の森は毎年竹の伐採をしないと竹林化がどんどん進行します。この道があれば今後は管理が楽になるでしょう。我ながら上出来です。普段はまったく飲みませんが祝杯を上げたい気分ですね。この調子で下り側のアクセス道も造ってみたいものです。

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使用したバックホーは檀家さんから借りっぱなしで、光明寺の什器状態になっている機械です。クボタ建機のミニバックホーで、旧型のU35というモデルです。地元は超大粒のブランド栗である「厚保栗(あつぐり)」の産地なので、寺の周囲には栗山が沢山あります。その栗山に道を作るのに機械があると便利なので、所有されている家がまれにあります。このバックホーも、そんな栗山の整備が主な目的だった個人所有の機械ですが、栗山用としては少々大き過ぎるくらいのサイズです。軽トラが乗り入れられる位の立派な道でも、切り開くことが可能です。機械の重量は約4トンですが、にわか土建屋の私が使うには実に都合が良いサイズです。通常このクラスから本職が土木工事等で使用しはじめますが、個人の場合はちょっと大きすぎるかもしれません。キャタピラの間隔が約1.6メートルあるので、狭いところには入れなくて用途が制限されます。だから個人で所有する場合には、もう1クラス小さい方が都合が良いものです。しかし山林等の傾斜地で作業をするとなると、この大きさが生きて来ます。小さな機械で無理をして作業をすると転倒事故のリスクが高まります。なるべく大きいほうが安全なのです。この機械なら仕事もそこそこ早いし、山寺の裏山に林道を造るにはもってこいです。実に具合が良いのです。

私は前総代の長田社長(水道工事店)に機械の使い方を教わり、作業を行う際のテクニックや注意すべき点、作業の進め方のコツなどをしっかり教えてもらいました。(最初にこれを学んでいないと事故を起こす可能性が大です)それからというものは、寺の整備で度々バックホーをレンタルして来ましたが、今では借りっぱなしの機械があるので、暇なときに好きなようにやることが出来ます。このサイズをレンタルすると一日当たり八千円位はかかります。使用する際には6トン積みのトレーラーで現場まで運んでもらわなければならないので、その回送料として往復で一万円は別に必要になります。昨年秋から借りっぱなしの状態ですが、燃料の軽油さえ買ってくればいつでも自由に使えるのでとても助かっています。キロク(レンタル屋)の藤井さん(営業)は、客が一人減ったので多分がっかりしているでしょうけどね。

さて、この手の機械の操作を覚えてしまうと、素人は大きな機械を使ってみたくなるものです。私もそうでした。大きいところでは日立建機の75サイズ(8トン弱)や120サイズ(12トン強)を操作したこともあります。最初は怖かったのですが慣れると大きい方が楽です。上手な人が操作すると、信じられないような傾斜や段差を登り下りすることも可能です。キャビン(運転席)にはエアコンやラシオが装備されているので実に快適です。良いことだらけみたいに言ってますが、このクラスになると図体がでかいので、シャベルの腕を旋回させる際には、周囲をよくよく確認して操作をしないと本当にヤバイです。油圧の力は非常に強いので、ちょっと当たっただけでも大変なことになります。私は寺の塀を見事に破壊したことがあります。いずれ撤去しようと思っていたので、それはそれで問題はなかったのですがヒヤリとしたものです。

こういうレンタルの建設機械は、通常日割り計算(土建屋さんは月単位でレンタルすることが多い)なので、借りる際には一日でも早く仕事を終わらせて返却しないといけません。料金に跳ね返ってきますからね。大きいのを借りちゃうと当然単価も上がります。一日が1万5千円とかになるのですから必死にもなりますよね。それで無理して早朝から日が暮れるまで動かし続けることになります。作業灯を照らして夜遅くまで動かしたり、食事の時間も惜しんで作業したりしました。一日の稼働時間が12時間なんてこともあって、レンタル屋も驚いていました。(機械には稼働時間を記録する時計が付いてます)ですから、レンタルだとどうしても気持ちがあせってしまうものです。スピード優先の作業を行うので、それで塀を壊したりする訳です。今は時間を気にすることもなくマイペースで作業ができるので、そんな心配も無くなりました。実に有りがたいことです。

もう4年半前になりますが、長田社長と二人で大日堂へ登る道の拡張工事をしたときの写真があったので掲載します。この工事でバックホーの操作を覚えました。 後に私があっけなく破壊したブロック塀が右側に写っています。妙に懐かしく思える写真です。

境内整備工事.jpg

同行人会開催される

2010年04月12日

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今年はずいぶん遅いタイミングで同行人会が開催され、加行が終了(満行)する前日(4/8)に我々は本山に集まりました。境内の桜はまさに満開です。例の中北慶宣君は大風邪で寝込んでしまい、残念ながら欠席でした。まったく運の悪いヤツです。あこちゃんとは一年ぶりの再会です。 以前あこちゃんのことを書いてますが、嘘じゃないことがこれで証明できたと思います。この容姿で実はとても芯の強い人なんです。詳しくは(1/11 秘密のあこちゃんの話)をご覧下さい。こうちゃん(神月一隆君)は宴会には参加できませんでしたが、嫁さんと子供を連れて本山に来てくれました。よけいなお世話だけど見事な幸せ太りでした。他のメンバーも変わり無く元気にやっているようです。勝手に写真を掲載しました。(写真左から、脇田延明・木谷悦也・並河聖光・堀内端宏・川崎曜淳・清水妙照・垣内光顕・私、全員坊さんだから難しい名前が多い)問題のある人は言ってきて下さい。

ところで、どうやら今年の加行人はかなり大変であったらしい。朝一番の水行がとても厳しいものであることは当然ですが、日中もめちゃ辛かったようです。本山のホームページを見ると、その様子が写真で紹介されていますが、よく見ると思いっきり雪が降ってる中で水をかぶっています。おー寒そう。みんなよく耐えました。

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さて、今回の同行人会では意外(?)な人に再会できたので、そのことをぜひ書きたくなりました。その人物とは左から二人目の木谷悦也さんです。(僧名は法空常悦)彼はまだ独身なんで、そろそろ身を固めて頂かないといけません。母方の実家の寺(叔父の寺)の手伝いをするために坊さんになった人で、私と同様に在家から仏門に入った人物です。その木谷さんだが、これが実に異色な存在でした。彼は独語・仏語がペラペラです。現在は翻訳や通訳を仕事にしており、時々寺のお手伝いに出向いているそうです。いずれは、そのお寺を継ぐことになる可能性が大らしい。彼は加行を終えた後、しばらく同行人会に顔を出さなかったのですが、それは日本にいなかった(ドイツ在住)ことなどが関係していました。彼とは六年ぶりの再会ですが、ちっとも変わっていませんでした。こっちはすっかり中年オヤジになり果てて、たそがれ始めているというのにね。

同行人のメンバーは、いずれも思い出深い仲間ですが、彼は良い意味でとりわけユニークな人物だったので、強く印象に残っていました。外国語が二カ国も出来ると聞いただけで、すでに「すごいねー」となるわけですが、本来彼が目指していたのはアーティストでありピアニストであったと言うから驚きです。私も少々音楽に親しんだ経験があるのですが、彼の場合は超本格的です。そして、一番驚いたのは彼が絶対音感の持ち主だという事です。絶対音感というのは、耳で聞いただけでその音の音程が解ることです。例えば「君の車のクラクションはAの音で鳴ってるね」とか、「本山のキンス(鐘)の音はDだ」とか、ずばり言い当てます。超一流のピアニストなどに時々見られるのですが、縁あって彼と同行人となったことで、彼のそんな才能を目の当たりにした思い出があります。

 これまで何度か触れていますが、西山浄土宗においては往生礼賛偈という唄みたいなお経を、とりわけ重視します。哀愁に満ちた美しい旋律で称えられるこのお経は実に素晴らしいものです。ただし、旋律(メロディー)があるのですから、それをきちんと再現しながら読誦しなければなりません。それだけ難しいお経だといえます。当然修得するには少々時間がかかります。私は加行に参加する際に、往生礼賛偈は一応出来る(唄える)状態で臨みました。ところが、彼はまったく知らないで加行に参加していたのです。そんなお経があるなんて事すら知らなかったようです。それでも、若い人達は覚えるのが早くて、最終的にはなんとかなるのではありますが、彼の覚え方はすごかった。彼は往生礼賛をまったく知らないので、私に唄って欲しいといいました。それで私が読誦して聞かせると、その場で譜面を書き始めたのです。何度か部分的に繰り返して聞かせ、やがて譜面は完成しました。この時、彼が絶対音感の持ち主であることが明らかになったのです。

確かにそういうことが出来る人が、この世に存在することは知っていましたが、目の前で見せつけられたのは初めてです。私が唄った(読誦した)旋律をその場で五線譜にオタマジャクシで記録し、彼はそれを見ながら私の旋律で読誦して見せるではないですか。絶対音感の人ですから、少々低めの音程で唄う私の癖も完璧に再現され、私の音域で唄ってみせるのです。これには本当に驚きました。微妙な部分に多少ぎこちなさは残るものの、まるで手品みたいでした。これならもう彼の前で何度も読誦して教えてあげる必要はありません。その譜面で少々練習をすればたちまち上達するでしょうし、事実そうなったのです。これってすごい事だと思いませんか?

大げさに聞こえるかもしれませんが、私にとっては少々感動的な体験でした。私は若い頃に多少音楽をやっていたくせに、実は楽譜が苦手です。だから私にしてみれば彼のような人物はいわば「奇跡の人」であり「神様」です。うーん実に羨ましい。何よりもピアノが弾けることが素晴らしい。それも一流の演奏レペルである。私はピアノが弾ける人を尊敬してやまないのであります。坊主にしておくには実に惜しいナー(問題発言であります)

花の命は短かし

2010年04月04日

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この土日は良いお天気に恵まれて市内の桜は満開です。山寺のシダレ桜も見事に咲いています。たぶん本日がピークでしょう。このシダレは一般的な吉野桜とは異なり、花の命がとりわけ短くて賞味期間はわずかです。たぶん次の土日にはもう見られないでしょう。吉野桜より4~5日遅く開花が始まって一挙に満開となり、先に散ってしまう実に潔い桜です。そのため、ピークを迎える前に風雨にやられてしまい満開の状態をめったに見られません。今年は運良く雨に打たれなかったので無事に咲き誇り、すでに風が吹くたびにハラハラと散り始めています。日本人は昔から、はかなさの象徴みたいなこの花木を、こよなく愛してやみませんでした。パッと咲いてパッと散っていくところが、まさに滅びの美学を感じさせてくれます。桜が散りゆく姿を眺めていると、坊さんでなくても「無常」を感じずにはおられないのではないでしょうか。

姿かたちあるもの何時かは滅び去ります。およそこの世に永遠というものは無く、仁王経(にんのうきょう)に説かれる「盛者必衰の理」を感じさせてくれます。今年も多くの方がこの桜を見に来られた。写真を撮る方、絵を描く方、人それぞれ様々な思いを持ってこの桜を眺められたのであろう。

百日忌法要の意義

2010年04月01日

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先日、檀家さんのお宅で百日忌法要を行いました。これは満中陰忌(四十九日忌)の次に行われる法要で、亡くなってから百日目に行われます。人は亡くなると死出の旅に出発し、七日ごとに生前の行いを調べられることになります。いわば裁判のようなものを受けるらしいのですが、この旅の過程で三途の川を渡ったり閻魔大王の取り調べを受けたりして、満中陰を迎えると来世が決まるのだと考えられて来ました。生前の行いが悪いと地獄行きもあるらしくて、残った者は亡くなった方が良い来世を迎えられるようにと、初七日・二七日・三七日・四七日・五七日・六七日・満中陰と七回供養を行ないます。今日ではお葬式の当日に初七日を行うことが一般的になりましたから、お葬式の後は二七日より七日ごとにお寺さんがその家を訪問して中陰(中有)のおつとめを行います。最後の仕上げとなる満中陰忌では、再び親族等が集まり法要が行われます。亡くなられた方にとってはとても大切な区切りの日なので、ひときは丁寧な法要になります。一方、百日忌は卒哭忌(そっこくき)とも呼ばれ、むしろ残った者にとって重要なのですが、その意義は以外と知られていないようです。「哭」とは「泣く」の意です。卒哭忌とは、「いつまでも哀しみにくれていては、先立たれた方も浮かばれません。残った者たちが元気に生きてくれることをきっと願っておられるはずです。だから、この法要を済ませたら涙からはもう卒業しましょう」の意で行なわれるのです。そして、百日忌をけじめとして普通の生活に戻って下さいということでもあります。

ところで、私は葬儀を行うと納骨は百日忌にして頂くようにお勧め(お願い?)しています。満中陰法要の際に納骨を行うこともまれにはありますが、大抵は百日忌法要とセットにしています。これには田舎ならではの事情が絡んでいます。先日(3/25 お墓の建立について)の記事で、今時のお墓は納骨が容易な舞台墓が主流であることを書きましたが、山寺では納骨がめんどうな古典的なお墓が多くなるからです。満中陰法要の際に納骨したくても、納骨室がとても深かったり、あるいは納骨室のフタを開けるのが大変だったりで、法要に出席した支度(衣装)のままでは躊躇するケースがよくあります。山中の共同墓地が今でも珍しくありませんので、いざ納骨となると、関係者一同でせっせと山道を登って行くことになります。雨など降ろうものならドロだらけになるのは必至です。強行すると礼服はたちまち汚れてしまいます。私も「タビや白衣が汚れるし略衣も台無しになることがあるから、こりゃ参ったなー」です。運良く天候に恵まれたとしても、夏期だと蚊取線香や防虫スプレーを忘れると墓前で読経どころではなくなります。そういう訳で「百日忌があるのですから、その際に少々汚れても良い支度で納骨に行きましょうか」とご案内しています。百日忌に参列するメンバーは満中陰忌とは異なり家族だけでも良いのですから。納骨に行ける支度で読経に付き合って頂き、おつとめが済めばそのままお墓へ行きます。それと、百日忌の実施日は当り日(百日目)より少々早めに予定を組みます。万が一天候に問題があれば延期になるからです。それでも、できれば予定通りに越したことは有りません。よって前日から「晴れてくれ」と願わずにはおられません。都市部ではこんな配慮は不要かもしれませんが、田舎の坊主はこんなことも考えないといけないのであります。

 

繰り出し位牌の効能

2010年03月29日

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初めて新仏が出るお宅や先亡がまだ限られる家では、お葬式を済ませた後は満中陰までに漆や金が塗ってある位牌(札位牌)を用意したいものです。満中陰法要の際には、この位牌の開眼供養も一緒に行うと良いでしょう。しかし古い家になると先亡が沢山おられるので、戒名や没年月日などが記入された位牌札が10枚程度まとめて収納出来る、繰り出し位牌(回出位牌)にされている家が多くなります。しかも、家によってはこれが二つも三つもある家があります。私の実家も仏壇に三つ置かれています。実家は真宗本願寺派なので、仏壇には過去帳を備えるので良いらしいのですが、なぜか田舎では本願寺派であっても繰り出し位牌が大抵あります。それだけ我々日本人は昔からお位牌というものを大切にして来たのでしょう。今でも火事にあったお宅のお年寄りが「お位牌だけは、なんとか持ち出すことが出来た」と話されることがあります。それは、なにはともあれ「ご先祖の位牌だけは守らねばならない」と考えていたからです。事実この繰り出し位牌というものは、その家のルーツを辿る際にはとても貴重です。「寺に過去帳があるじゃないか」といわれるかもしれませんが、お寺も古い過去帳となると火災で焼失していることが多くなります。都市部のお寺だと太平洋戦争中の空襲で焼失していまい、戦後の記録しか無いことだってあります。

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山寺は田舎ですから戦災はありませんでした。しかし、残念なことに江戸中期以降の過去帳しか残っていません。それでも、そこまで遡れる事はありがたいことです。ただし、この時代の過去帳というものは、ご先祖の調査資料として精査する際にはずいぶん苦労します。当時はどの家でも姓を名乗っていた訳ではないのがネックになるのです。例えば、どこそこ村の誰れそれの倅(せがれ)とか、当村のなんとか左右衛門の父だ母だ妻だ娘だ子だ、などと記載されていることが多いのです。姓どころか俗名も記載されていないケースもあります。しかし墓石が残っていれば、刻まれた没年月日で過去帳を調べることが容易になります。昔の墓石は干支(えと)も必ず彫り込んでいたから可能になるのです。干支(十干十二支表記)は正式には二文字で表記されます。十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞で、暦を始めとして、時間、方位などに用いられていました。今年の暦の例だと平成二十二庚寅(かのえ・とら)です。昭和は60年以上続いたので例外的に同じ干支が巡ってきましたが、昔の時代の年号は実に短命だったので、年号・年数・干支の組み合わせは限定されます。それで、風化して少々読めない文字があっても、墓の文字をたよりに寺の過去帳から該当の記載を探し出すことができます。

例えば墓石から読み取れた文字が「寛?十?庚申」だとすると、墓石に年号が入るようになったのは通常江戸期からなので、江戸期に頭が寛の文字の年号は、寛永・寛文・寛保・寛延・寛政となります。この中で庚申の年は寛政十二年しか有りませんので容易に確定できます。前記の例が「寛?十七庚?」であれば、十七年まであったのは寛永だけなので、寛永十七年庚辰であることが解ります。このように干支(十干十二支表記)は実に便利なしくみです。昔の人は賢いですね。しかし、古墓が残っていないケースではこうは行きません。それで、そういう時に繰り出し位牌が残っていると大変助かるのです。今では使われない古典的な表現や文字で書かれていることが多いので、少々判読には苦労しますが、通常は墓石の文字や寺の過去帳より詳しい情報が記入してあるものです。俗名や年齢は必ず書いてありますし、場合によってはそれ以上のことが記されています。例えば、どの家から迎えた養子であっただとか、どこから来た嫁であったなどです。「それがどうした」と言われればそれまでですが、これはいわば自分につながる歴史であり、子孫にも引き継がれるその家のルーツです。やはり大切にしなければならないと思うのです。古い繰り出し位牌の札は、まず例外なく白木の板に墨で書かれています。何百年も後でも、結構読み取ることが出来ます。だから、繰り出し位牌の札は絶対に処分しないで頂きたいのです。

ただし実家のにようにすでに位牌入れが三つもあるとなると、やがて置き場にも困ります。仏壇が小さめだとなおさらです。それで、私は檀家さんには「50回忌を済まされた先祖の位牌は位牌入れから抜いてひとまとめにされ仏壇の引き出しに安置なさってよろしいですよ」と申し上げております。(宗派や地方によっては33回忌を同様に扱うこともある)そして、位牌入れに例えば「○○家先祖代々之精霊」などと記載した塗りの札を一枚設け、50回忌が済まれた方はこちらに集約して頂くのです。これなら仏壇に奉る繰り出し位牌は一つで済みます。それと、今日、各家のお墓は累代墓が普通になりましたが、古い家となるとその累代墓に骨壺が実に沢山収納されているケースがあります。こちらも繰り出し位牌と事情は一緒です。いずれ満タンになって入れるところが無くなります。それで「50回忌が過ぎた先祖のお骨は土に返してあげて下さい。お浄土へ旅立たれた方は50年も経過すればかならず仏となられており、自身の一部であったお骨に対する執着からもすでに離れられておられます。だから土に還して差し上げるのが正しいのです」と、ご案内しております。残った者にしても、50回忌となるとそろそろ孫の代になっているでしょう。先だたれた方をよく知る人も限られますし、その記憶も薄くなっているかと思われます。だから残っている我々も、故人(個人)に対する思い(執着)からそろそろ解き放たれ、「ご先祖と一体になられたのだ」と、とらえるようにするべきなのです。そのためにも、納骨の際には骨壺にどなたであるかを表示して納めることを忘れないで下さい。

私にしてみれば、50回忌とは坊さんを呼んで読経して頂くことも大切なことではありますが、忘れてはならないのは、繰り出し位牌の整理と累代墓に眠るお骨の整理をして頂く貴重な機会なのです。いわば重要なけじめのタイミングだととらえて頂きたいのです。

お墓の建立について

2010年03月25日

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山寺の檀家さんに同級生の中野君宅があります。彼とは中学・高校と同じ学校でした。色白でひよろっとしていますが意外にタフなヤツです。ずいぶん昔の話になりますが、彼から軟式テニスの個人レッスンを何度か受けたことがあります。中学三年の時の話です。当時彼は軟式テニス部で私は吹奏楽部でラッパを吹いていました。それまでテニスは遊びでしかやったことがありません。卒業も近づいて来たので、中学時代の記念として「いっちょ本格的にテニスをやってみるか」ということになりました。私にしてみればテニスはラケットとコートがデカくなった卓球ですから、どーってことないはずでした。(卓球部にいたことがあるのでナメてる)しかし案の定、本格的な打ち合いになるとネットに引っかけたりホームランになったりします。それでも、しばらく練習を続けていると要領が飲み込めてきます。軟式は硬式テニスのように強烈なサーブがありません。打ち合いの過程でいかに相手を左右に走らせ、打ち返せない状態にもって行くかの勝負です。見ようによっては実に意地悪な競技かも?打ち合う際の球速が硬式にくらべればかなり遅いので、大して経験の無い私でしたが、フットワークには自信があったのでスピードについて行くことは出来ます。以前書いていますが、(12/26・ギター少年の求不得苦)当時の私はかなり足が速かった。(こういうのを過去の栄光という)慣れると、これが結構いけるようになったのです。短期間で彼といいラリーが出来るようになった懐かしい記憶があります。(彼が手加減してくれたからか?)

さて、前置きはこれくらいで本題に入りましょう。その同級生のところの累代墓が近く建て替えられることになりました。彼と私の共通の友人でもある幸夫が立ち上げた墓石店「あつたく」が工事を行います。それで本日はお墓の建立について少々書いてみます。 建て替えられる累代墓は、大正時代に白御影石で建立されたものです。古いものですが、かなり立派なものです。仏石の(墓石の頂上にある細長い部分)頂上は、今時の墓石とは異なり水平ではありません。中心部がこんもりと盛り上がっており、四隅は天に向かってソリ上がっています。仏石の正面は額縁仕上げです。四方が縁取りされて一段低く削り取られた面に文字が刻られます。そして、その仏石は足付きの台に(高級料亭のお膳みたい)のっており、花筒・香炉などのデザインも凝ってます。いずれも古典的な意匠で今日ではめずらしくなりました。江戸期に武家や裕福な家のお墓がこのスタイルで建てられることが多かった。だから少々もったいないような気もするのですが、この累代墓には問題がありました。納骨室が異常に深いので納骨の際に手が届かないのです。ひょっとすると骨壺での納骨ではなく、お骨だけを直接投入することを前提にしていたのかもしれません。しかし今では一般的ではありませんので、やむなく骨壺にひもを掛けて上からそっと降ろすことになります。一度入れた骨壺は、もう取り出すことも触ることも出来なくなります。納骨が大変めんどうなので困っていたのです。納骨室は地下深くまで垂直に掘り下げてありますから、湿気で内部はカビだらけになります。それと、こういう古い累代墓で時々あるのですが、納骨室にハチが巣を作り大変なことになりました。流石にこうなると、お墓をどうにかしたくなるのが心情です。建て替えもやむなしでしょう。

今日、累代墓を建立するとなると、たいてい舞台墓の様式になります。地上にまず納骨室となる四角い石造りの部屋(舞台)を設けます。この部分がいわば墓石の一段目です。その上に二段目以降の墓石がのって行き、最終的に舞台を含めた全体が墓石になります。この建て方で敷地を目一杯使って建立すると、今時の小さな区画でも実に見栄えの良いお墓となります。当然、納骨室は地下にはなりません。骨壺は舞台に設けられた扉(普通は正面)を開けて、水平になっている納骨室に納めます。これなら簡単ですし湿気の問題も解消されます。ハチも滅多なことでは住み着きません。納骨室内の大掃除も、やろうと思えば大して苦労しなくても可能です。いいことだらけです。ですから同級生の累代墓もこの舞台墓に更新されることになりました。

典型的な舞台墓.jpg

ところで、お墓というものはそうそう建てたり、建て替えたりするものではありません。累代墓に限定して考えると、家を建てることよりも頻度は低いのではないでしょうか。ですから、お墓の建立は慎重にことを運ぶべきです。今日、大手の墓石店や大型の霊園に行けば様々なデザインの墓石を見ることが出来ます。そういう時、我々は当然ながらまず見た目にこだわりますよね。末代まで残るかもしれないのですから、出来るだけこだわってみたいものです。それはそれで悪いことではないでしょう。ただし、累代墓を建立するとなるとそれ相応の資金が必要です。これが問題なわけです。お金に充分余裕があるのならかまわんでしょうが、世の中そうは甘くない。「いや、金の心配はないぞ」っていわれる方が中にはおられるかもしれませんが、いざ建立となるとやっぱり金額は気になるものです。そんなときに目先の金額や営業マンの口上にうっかり乗ると、後で後悔することがあるので注意して下さい。くどいですが、お墓は場合によっては末代ものです。何百年も使うかもしれません。そう考えると墓石建立はめったに無い大事業です。例えば家を建てるときは、どなたでも真剣に検討されるでしょう。しかし、お墓だと金額的に一桁は違うので油断するのかもしれませんね。でも、お墓は家を建てるのと同じくらい大事なことだと考えて慎重にお願いします。

ここで質問です。家を建てる時みなさんは何を重視されるでしょうか?使いやすい間取り・夏涼しく冬温かい断熱効果の高い家・採光の良い明るい室内・風通しの良い家・おしゃれな外観あるいは重厚な外観などと、いろいろ考慮しなければならないことがありますね。もちろん予算あってのことですし、忘れてはならないのが耐久性。これも重要です。では、お墓の場合で一番大切なのは何でしょうか?考慮しなければならないことは数ありますが、私はなんといっても永続性だと思っています。なんだかんだ言っても、今時の家はよくて100年くらいでしょう。普通はそこまでもちません。でも墓は違います。それから、家のように途中で補修や建て増し(改築)をすることが難しくなります。あえてそれを行うとなると、新しい墓を建立するのと変わらないくらいお金がかかるケースもあります。墓は何度も建て替えるものではないし、またするべきではありません。そうなると場所もよくよく考えないといけません。お参りのしやすい場所でないときっと後悔します。将来のことも含めて、可能な限り後で問題が起こらないようにして下さい。最悪なのは、いい加減な業者で適当に建てたばっかりに、後でとんでもないことになるケースです。そういう業者は見えないところで手を抜くので危ないのです。具体的にいうと、それはずばり基礎工事です。上にお墓が乗っかったらもうわかりません。でも将来お墓が傾いたり継ぎ目がずれて来たらどうします?完全に解体して建て直すはめになります。しかも、建てた業者が責任をとってくれないことがあります。これが一番怖いのです。事実、山寺の檀家さんでこのケースがありました。だから複数の墓石店で見積りを取ることは必要でしょうが、金額にこだわって安い業者を安易に選ぶのはリスキーです。安く出来るのはそれなりの理由があるからです。もしそれが基礎工事のコストダウンだったら大変です。最終的に見えなくなる部分ですが「だからこそ充分な安全マージンを取るべきなのだ」と考える墓石店で建立したいものです。ましてや決して安くも無かったのに、いい加減な工事で傾いて来たら目も当てられません。結局なによりも信用できる墓石店で建立することが大事なのです。

さて、そうなると「じゃあ、信用できる優良店をどうやって探せば良いんだ?」になる訳ですが、実はこれが難しいのです。私も「ここが一番です」と、自信をもって紹介できるほどの情報は持ち合わせておりません。しかし私自身が近年お墓を2基建立した経験はありますので、その話をしておきます。それは山寺の永代供養墓と生類供養塔です。幼なじみが墓石店「あつたく」を開業していたので、その彼に任せました。結果、大変満足しています。私の墓石に関する様々な知識は彼から教わったものです。長年大手の墓石会社で経験を積み、現場を全て仕切るまでになっていた彼の口癖は、「とっしゃん、墓は基礎が一番大事やで」「ここをいいかげんにやったら、後で大後悔することになる」です。いわば石屋として独立した彼の信念であり哲学でした。そんな彼の口癖は今ではすっかり私の哲学でもあります。

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山寺の永代供養墓は納骨室(納骨堂)の上に観音菩薩が据えてあります。当然全体の重量は大変なものです。基礎工事は充分すぎるほど留意して建立しました。およそこの世に「永遠」なんてものはないのですが、それでも、あえて永代供養とうたう以上は、「可能な限り丈夫な建立でなければならない」と、まず考えました。観音菩薩の台座が実質的に納骨堂ですが、コストはかかっても総御影石づくりによる、いわば「大型のお墓」として設計してもらいました。骨壺納骨を前提にしていますので、建設費のわりには収納できる数は少なく、正直なところ収支を重視していたらこんなことは出来ません。納骨堂部分は鉄筋コンクリートの壁に石板を張って仕上げれば、見た目はほとんど変わらずにコストダウンが可能です。しかし100年200年先を見据えると採用できません。それと、総御影石づくりにこだわるにしても、シンプルな納骨堂(箱形の御堂風)を建てた方が収納数や建設費が有利になるのは解っていますが、私はあえてこの形を選択しました。この供養墓もいつかは古びてくるでしょうが、仏さんが上にのっていますから、100年200年先でも粗末にされることはないでしょう。私が逝ってもここに眠る仏さんはきっと大丈夫です。そう考えて観音菩薩なのです。

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