こだわり住職のよもやま話

2010年3月

繰り出し位牌の効能

2010年03月29日

札位牌 操出位牌.jpg

初めて新仏が出るお宅や先亡がまだ限られる家では、お葬式を済ませた後は満中陰までに漆や金が塗ってある位牌(札位牌)を用意したいものです。満中陰法要の際には、この位牌の開眼供養も一緒に行うと良いでしょう。しかし古い家になると先亡が沢山おられるので、戒名や没年月日などが記入された位牌札が10枚程度まとめて収納出来る、繰り出し位牌(回出位牌)にされている家が多くなります。しかも、家によってはこれが二つも三つもある家があります。私の実家も仏壇に三つ置かれています。実家は真宗本願寺派なので、仏壇には過去帳を備えるので良いらしいのですが、なぜか田舎では本願寺派であっても繰り出し位牌が大抵あります。それだけ我々日本人は昔からお位牌というものを大切にして来たのでしょう。今でも火事にあったお宅のお年寄りが「お位牌だけは、なんとか持ち出すことが出来た」と話されることがあります。それは、なにはともあれ「ご先祖の位牌だけは守らねばならない」と考えていたからです。事実この繰り出し位牌というものは、その家のルーツを辿る際にはとても貴重です。「寺に過去帳があるじゃないか」といわれるかもしれませんが、お寺も古い過去帳となると火災で焼失していることが多くなります。都市部のお寺だと太平洋戦争中の空襲で焼失していまい、戦後の記録しか無いことだってあります。

実家の仏壇.jpg

山寺は田舎ですから戦災はありませんでした。しかし、残念なことに江戸中期以降の過去帳しか残っていません。それでも、そこまで遡れる事はありがたいことです。ただし、この時代の過去帳というものは、ご先祖の調査資料として精査する際にはずいぶん苦労します。当時はどの家でも姓を名乗っていた訳ではないのがネックになるのです。例えば、どこそこ村の誰れそれの倅(せがれ)とか、当村のなんとか左右衛門の父だ母だ妻だ娘だ子だ、などと記載されていることが多いのです。姓どころか俗名も記載されていないケースもあります。しかし墓石が残っていれば、刻まれた没年月日で過去帳を調べることが容易になります。昔の墓石は干支(えと)も必ず彫り込んでいたから可能になるのです。干支(十干十二支表記)は正式には二文字で表記されます。十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞で、暦を始めとして、時間、方位などに用いられていました。今年の暦の例だと平成二十二庚寅(かのえ・とら)です。昭和は60年以上続いたので例外的に同じ干支が巡ってきましたが、昔の時代の年号は実に短命だったので、年号・年数・干支の組み合わせは限定されます。それで、風化して少々読めない文字があっても、墓の文字をたよりに寺の過去帳から該当の記載を探し出すことができます。

例えば墓石から読み取れた文字が「寛?十?庚申」だとすると、墓石に年号が入るようになったのは通常江戸期からなので、江戸期に頭が寛の文字の年号は、寛永・寛文・寛保・寛延・寛政となります。この中で庚申の年は寛政十二年しか有りませんので容易に確定できます。前記の例が「寛?十七庚?」であれば、十七年まであったのは寛永だけなので、寛永十七年庚辰であることが解ります。このように干支(十干十二支表記)は実に便利なしくみです。昔の人は賢いですね。しかし、古墓が残っていないケースではこうは行きません。それで、そういう時に繰り出し位牌が残っていると大変助かるのです。今では使われない古典的な表現や文字で書かれていることが多いので、少々判読には苦労しますが、通常は墓石の文字や寺の過去帳より詳しい情報が記入してあるものです。俗名や年齢は必ず書いてありますし、場合によってはそれ以上のことが記されています。例えば、どの家から迎えた養子であっただとか、どこから来た嫁であったなどです。「それがどうした」と言われればそれまでですが、これはいわば自分につながる歴史であり、子孫にも引き継がれるその家のルーツです。やはり大切にしなければならないと思うのです。古い繰り出し位牌の札は、まず例外なく白木の板に墨で書かれています。何百年も後でも、結構読み取ることが出来ます。だから、繰り出し位牌の札は絶対に処分しないで頂きたいのです。

ただし実家のにようにすでに位牌入れが三つもあるとなると、やがて置き場にも困ります。仏壇が小さめだとなおさらです。それで、私は檀家さんには「50回忌を済まされた先祖の位牌は位牌入れから抜いてひとまとめにされ仏壇の引き出しに安置なさってよろしいですよ」と申し上げております。(宗派や地方によっては33回忌を同様に扱うこともある)そして、位牌入れに例えば「○○家先祖代々之精霊」などと記載した塗りの札を一枚設け、50回忌が済まれた方はこちらに集約して頂くのです。これなら仏壇に奉る繰り出し位牌は一つで済みます。それと、今日、各家のお墓は累代墓が普通になりましたが、古い家となるとその累代墓に骨壺が実に沢山収納されているケースがあります。こちらも繰り出し位牌と事情は一緒です。いずれ満タンになって入れるところが無くなります。それで「50回忌が過ぎた先祖のお骨は土に返してあげて下さい。お浄土へ旅立たれた方は50年も経過すればかならず仏となられており、自身の一部であったお骨に対する執着からもすでに離れられておられます。だから土に還して差し上げるのが正しいのです」と、ご案内しております。残った者にしても、50回忌となるとそろそろ孫の代になっているでしょう。先だたれた方をよく知る人も限られますし、その記憶も薄くなっているかと思われます。だから残っている我々も、故人(個人)に対する思い(執着)からそろそろ解き放たれ、「ご先祖と一体になられたのだ」と、とらえるようにするべきなのです。そのためにも、納骨の際には骨壺にどなたであるかを表示して納めることを忘れないで下さい。

私にしてみれば、50回忌とは坊さんを呼んで読経して頂くことも大切なことではありますが、忘れてはならないのは、繰り出し位牌の整理と累代墓に眠るお骨の整理をして頂く貴重な機会なのです。いわば重要なけじめのタイミングだととらえて頂きたいのです。

お墓の建立について

2010年03月25日

大正時代の累代墓.jpg

山寺の檀家さんに同級生の中野君宅があります。彼とは中学・高校と同じ学校でした。色白でひよろっとしていますが意外にタフなヤツです。ずいぶん昔の話になりますが、彼から軟式テニスの個人レッスンを何度か受けたことがあります。中学三年の時の話です。当時彼は軟式テニス部で私は吹奏楽部でラッパを吹いていました。それまでテニスは遊びでしかやったことがありません。卒業も近づいて来たので、中学時代の記念として「いっちょ本格的にテニスをやってみるか」ということになりました。私にしてみればテニスはラケットとコートがデカくなった卓球ですから、どーってことないはずでした。(卓球部にいたことがあるのでナメてる)しかし案の定、本格的な打ち合いになるとネットに引っかけたりホームランになったりします。それでも、しばらく練習を続けていると要領が飲み込めてきます。軟式は硬式テニスのように強烈なサーブがありません。打ち合いの過程でいかに相手を左右に走らせ、打ち返せない状態にもって行くかの勝負です。見ようによっては実に意地悪な競技かも?打ち合う際の球速が硬式にくらべればかなり遅いので、大して経験の無い私でしたが、フットワークには自信があったのでスピードについて行くことは出来ます。以前書いていますが、(12/26・ギター少年の求不得苦)当時の私はかなり足が速かった。(こういうのを過去の栄光という)慣れると、これが結構いけるようになったのです。短期間で彼といいラリーが出来るようになった懐かしい記憶があります。(彼が手加減してくれたからか?)

さて、前置きはこれくらいで本題に入りましょう。その同級生のところの累代墓が近く建て替えられることになりました。彼と私の共通の友人でもある幸夫が立ち上げた墓石店「あつたく」が工事を行います。それで本日はお墓の建立について少々書いてみます。 建て替えられる累代墓は、大正時代に白御影石で建立されたものです。古いものですが、かなり立派なものです。仏石の(墓石の頂上にある細長い部分)頂上は、今時の墓石とは異なり水平ではありません。中心部がこんもりと盛り上がっており、四隅は天に向かってソリ上がっています。仏石の正面は額縁仕上げです。四方が縁取りされて一段低く削り取られた面に文字が刻られます。そして、その仏石は足付きの台に(高級料亭のお膳みたい)のっており、花筒・香炉などのデザインも凝ってます。いずれも古典的な意匠で今日ではめずらしくなりました。江戸期に武家や裕福な家のお墓がこのスタイルで建てられることが多かった。だから少々もったいないような気もするのですが、この累代墓には問題がありました。納骨室が異常に深いので納骨の際に手が届かないのです。ひょっとすると骨壺での納骨ではなく、お骨だけを直接投入することを前提にしていたのかもしれません。しかし今では一般的ではありませんので、やむなく骨壺にひもを掛けて上からそっと降ろすことになります。一度入れた骨壺は、もう取り出すことも触ることも出来なくなります。納骨が大変めんどうなので困っていたのです。納骨室は地下深くまで垂直に掘り下げてありますから、湿気で内部はカビだらけになります。それと、こういう古い累代墓で時々あるのですが、納骨室にハチが巣を作り大変なことになりました。流石にこうなると、お墓をどうにかしたくなるのが心情です。建て替えもやむなしでしょう。

今日、累代墓を建立するとなると、たいてい舞台墓の様式になります。地上にまず納骨室となる四角い石造りの部屋(舞台)を設けます。この部分がいわば墓石の一段目です。その上に二段目以降の墓石がのって行き、最終的に舞台を含めた全体が墓石になります。この建て方で敷地を目一杯使って建立すると、今時の小さな区画でも実に見栄えの良いお墓となります。当然、納骨室は地下にはなりません。骨壺は舞台に設けられた扉(普通は正面)を開けて、水平になっている納骨室に納めます。これなら簡単ですし湿気の問題も解消されます。ハチも滅多なことでは住み着きません。納骨室内の大掃除も、やろうと思えば大して苦労しなくても可能です。いいことだらけです。ですから同級生の累代墓もこの舞台墓に更新されることになりました。

典型的な舞台墓.jpg

ところで、お墓というものはそうそう建てたり、建て替えたりするものではありません。累代墓に限定して考えると、家を建てることよりも頻度は低いのではないでしょうか。ですから、お墓の建立は慎重にことを運ぶべきです。今日、大手の墓石店や大型の霊園に行けば様々なデザインの墓石を見ることが出来ます。そういう時、我々は当然ながらまず見た目にこだわりますよね。末代まで残るかもしれないのですから、出来るだけこだわってみたいものです。それはそれで悪いことではないでしょう。ただし、累代墓を建立するとなるとそれ相応の資金が必要です。これが問題なわけです。お金に充分余裕があるのならかまわんでしょうが、世の中そうは甘くない。「いや、金の心配はないぞ」っていわれる方が中にはおられるかもしれませんが、いざ建立となるとやっぱり金額は気になるものです。そんなときに目先の金額や営業マンの口上にうっかり乗ると、後で後悔することがあるので注意して下さい。くどいですが、お墓は場合によっては末代ものです。何百年も使うかもしれません。そう考えると墓石建立はめったに無い大事業です。例えば家を建てるときは、どなたでも真剣に検討されるでしょう。しかし、お墓だと金額的に一桁は違うので油断するのかもしれませんね。でも、お墓は家を建てるのと同じくらい大事なことだと考えて慎重にお願いします。

ここで質問です。家を建てる時みなさんは何を重視されるでしょうか?使いやすい間取り・夏涼しく冬温かい断熱効果の高い家・採光の良い明るい室内・風通しの良い家・おしゃれな外観あるいは重厚な外観などと、いろいろ考慮しなければならないことがありますね。もちろん予算あってのことですし、忘れてはならないのが耐久性。これも重要です。では、お墓の場合で一番大切なのは何でしょうか?考慮しなければならないことは数ありますが、私はなんといっても永続性だと思っています。なんだかんだ言っても、今時の家はよくて100年くらいでしょう。普通はそこまでもちません。でも墓は違います。それから、家のように途中で補修や建て増し(改築)をすることが難しくなります。あえてそれを行うとなると、新しい墓を建立するのと変わらないくらいお金がかかるケースもあります。墓は何度も建て替えるものではないし、またするべきではありません。そうなると場所もよくよく考えないといけません。お参りのしやすい場所でないときっと後悔します。将来のことも含めて、可能な限り後で問題が起こらないようにして下さい。最悪なのは、いい加減な業者で適当に建てたばっかりに、後でとんでもないことになるケースです。そういう業者は見えないところで手を抜くので危ないのです。具体的にいうと、それはずばり基礎工事です。上にお墓が乗っかったらもうわかりません。でも将来お墓が傾いたり継ぎ目がずれて来たらどうします?完全に解体して建て直すはめになります。しかも、建てた業者が責任をとってくれないことがあります。これが一番怖いのです。事実、山寺の檀家さんでこのケースがありました。だから複数の墓石店で見積りを取ることは必要でしょうが、金額にこだわって安い業者を安易に選ぶのはリスキーです。安く出来るのはそれなりの理由があるからです。もしそれが基礎工事のコストダウンだったら大変です。最終的に見えなくなる部分ですが「だからこそ充分な安全マージンを取るべきなのだ」と考える墓石店で建立したいものです。ましてや決して安くも無かったのに、いい加減な工事で傾いて来たら目も当てられません。結局なによりも信用できる墓石店で建立することが大事なのです。

さて、そうなると「じゃあ、信用できる優良店をどうやって探せば良いんだ?」になる訳ですが、実はこれが難しいのです。私も「ここが一番です」と、自信をもって紹介できるほどの情報は持ち合わせておりません。しかし私自身が近年お墓を2基建立した経験はありますので、その話をしておきます。それは山寺の永代供養墓と生類供養塔です。幼なじみが墓石店「あつたく」を開業していたので、その彼に任せました。結果、大変満足しています。私の墓石に関する様々な知識は彼から教わったものです。長年大手の墓石会社で経験を積み、現場を全て仕切るまでになっていた彼の口癖は、「とっしゃん、墓は基礎が一番大事やで」「ここをいいかげんにやったら、後で大後悔することになる」です。いわば石屋として独立した彼の信念であり哲学でした。そんな彼の口癖は今ではすっかり私の哲学でもあります。

光明寺永代供養墓.jpg

山寺の永代供養墓は納骨室(納骨堂)の上に観音菩薩が据えてあります。当然全体の重量は大変なものです。基礎工事は充分すぎるほど留意して建立しました。およそこの世に「永遠」なんてものはないのですが、それでも、あえて永代供養とうたう以上は、「可能な限り丈夫な建立でなければならない」と、まず考えました。観音菩薩の台座が実質的に納骨堂ですが、コストはかかっても総御影石づくりによる、いわば「大型のお墓」として設計してもらいました。骨壺納骨を前提にしていますので、建設費のわりには収納できる数は少なく、正直なところ収支を重視していたらこんなことは出来ません。納骨堂部分は鉄筋コンクリートの壁に石板を張って仕上げれば、見た目はほとんど変わらずにコストダウンが可能です。しかし100年200年先を見据えると採用できません。それと、総御影石づくりにこだわるにしても、シンプルな納骨堂(箱形の御堂風)を建てた方が収納数や建設費が有利になるのは解っていますが、私はあえてこの形を選択しました。この供養墓もいつかは古びてくるでしょうが、仏さんが上にのっていますから、100年200年先でも粗末にされることはないでしょう。私が逝ってもここに眠る仏さんはきっと大丈夫です。そう考えて観音菩薩なのです。

彼岸会開催される

2010年03月22日

彼岸会お説教.jpg

山寺は昨日(3/21・春分の日)彼岸会でした。前日は午後からまとまった雨だったので心配しましたが、当日は朝から晴れてくれました。境内のソメイヨシノは、よく見るとつぼみが一段と膨らみ一部開花も始まっています。「今日から一斉に咲くのかも?」と期待しましたが、どっこい日中は北西の風が強くなりとても肌寒いのです。本堂ではホットカーペットとストーブの出番です。結局、本格開花はちょっと足踏み状態の一日となりました。本日(22日)は朝から見事な快晴です。風も無くて実に穏やかです。これなら桜も元気が出て一挙に開いてくれるかも知れません。

さて彼岸会は平安初期に始まったといわれる仏事で、今、生かされていることを喜び、ご先祖や全てのものに感謝する行事です。この時期になると全国の寺院では盛んに彼岸法要が催されます。此岸(しがん)とよばれるこの世から彼の岸(彼岸:ひがん)である極楽浄土に想いをはせる法要であり、お浄土におられる阿弥陀仏やご先祖そして亡くなられた大切な人に対して想いをはせることにもつながる行事です。

山寺の彼岸会は例によって木魚を叩きながら読む普通の(?)お経と時間帯で使い分ける歌みたいなお経(礼賛偈)です。今回は午後からの法要なので「日没礼賛偈」を唄わせて頂きました。タイトルの通り日が沈む前に読誦するお経です。夕日が真西に沈んで行くこの時期ですから、なおさら日没礼賛偈は意義深く感じられます。永代供養墓と生類供養塔の彼岸供養も併せて行いました。勤行の後は本山派遣の説教師による法話が行われます。今回の説教師は北九州市小倉南区葛原元町・称名院の神田憲孝師です。聞けばまだ32才だそうです。若いですね。うらやましい。見るからにオバサマうけしそうな(?)お坊さんであります。どこのお寺も似たようなものでしょうが、山寺光明寺の法要も参加されている面々はご婦人ばかりです。婦人会の集会みたいです。それで、今回のように説教師が若くて、ちょいと良い男だったりすると、大変喜んでいただけるのであります。「いやー若くていいねー、話も解りやすくてよかったー、実によかったー」と皆さん絶賛です。私のお経なんてどうでも良いのであります。少々ひがんでしまいます。次の行事は4月29日の大日祭です。それまでしばらく山寺は静かになります。

大イチョウの影.jpg

さて話は変わりますが、山寺は彼岸の頃に良いお天気に恵まれると、興味深い自然現象を観察することが出来ます。それは太陽の光と影が織りなす少々ドラマチックな一日の終わりです。日没が近づくと、ご本尊に向かって大銀杏の影が見事に伸びて行き、そのまま夕暮れが訪れるのです。昨日も目にすることが出来ました。この件の詳細については、当サイト内にある「光明寺の大銀杏」のコーナーにも記載しております。

快友寺に出仕しました

2010年03月20日

先日(3/16)、下関市菊川町吉賀にある快友寺の彼岸会に出仕しました。快友寺では彼岸法要の際に施餓鬼供養(春施餓鬼)が行われますので、坊さんが集い施餓鬼経が読経されます。快友寺は大寺で本堂が実に大きく組内最大です。寺法要となると広い本堂に住職一人ではとても格好がつきません。それで常日頃から複数の僧侶で法要を開催します。私も年に4回は快友寺に出仕します。快友寺は毛利長府藩の重臣・桂広繁の所領にあった邸宅の場所に、広繁没後に建てられた桂家の菩提寺です。

快友寺楼門.jpg

境内の経蔵には江戸期の一切経(明版)がありますが、今日明版はとてもめずらしいものです。回転式の棚に収納してあり、県の文化財に指定されています。今でこそ我々各末寺は本山に直接所属する組織形態ですが、かつてはそうではありませんでした。西山派においては快友寺がこの地方での有力な本寺で、山寺光明寺も含め周囲の西山派寺院の多くはこの快友寺末であったようです。その昔、快友寺が西山派になったことで周囲に西山派のお寺が出来て行ったようです。真言古寺であった山寺光明寺も、陀羅寺を引寺した明暦年間(1655年頃)には、快友寺の影響ですでに西山派であったと思われます。なお、曼陀羅寺最後の僧侶であった利殘上人は万治2年(1659年)光明寺で遷化し、位牌とお墓は光明寺に残っています。

快友寺経蔵.jpg

さて、快友寺での施餓鬼供養ですが、年4回行われています。快友寺ほどの大寺となると、大量の施餓鬼塔婆や永代祠堂塔婆が上がるので大変です。施餓鬼法要が長時間になってしまい収集がつかなくなる可能性があります。それで年四回実施するのです。もちろん大多数の檀家さんは、お盆前の夏に先祖供養の施餓鬼塔婆を建立するのではありますが、永代祠堂などはできるだけ分散して頂くシステムです。それでも、夏の施餓鬼は他寺の施餓鬼会より明らかに長時間になります。住職は大変ですし出仕している我々も大変です。最初はみんな元気ですが、やがて疲れてきて読経の勢いも鈍りがちです。だから出来るだけ大勢で臨まないとのりきれません。組内の坊さんは全員集合で老僧も駆り出されます。その点、山寺は夏の1回でも大したことないわけですから、私は楽してるのかもしれません。

施餓鬼供養は出来るだけ多くのお坊さんを集めて読経するのが良いとされるので、組内の寺が協力しあって互いにそれぞれの施餓鬼会へ応援に駆けつけます。盆施餓鬼となると各寺が順番に行います。山寺がトップバッターで8月3日です。光明寺も7か寺に出仕して頂くので、私は後にその7か寺の施餓鬼会へ出向きます。光明寺の施餓鬼会が終了すると、後片付けもそこそこに以降は連日どこかの寺の施餓鬼会で読経しているか、檀家のお参り(盆前のおつとめ)をしているかになります。この間に葬儀が入ると、予定がすっかり狂って大変困るので毎年心配します。唯一の救いは施餓鬼会では正座はしなくて良いので(イスを使用します)助かります。しかし、それでもひたすら声を出し続けなければならず、お盆直前の暑さで弱っている身体にはとてもこたえます。いつもはのんびりしている山寺の住職も、この時期だけは非常にハードな日々を送っています。毎年「寿命を縮めているんじゃないだろうか」と本気で思います。

大内氏滅亡と厚氏の帰農

2010年03月16日

「応永の乱」で大内義弘が敗死したため、家督相続を巡る大内氏の内戦が勃発し、この争いによる戦火で光明寺が焼失したいきさつは、前回書いたとおりです。この時、大内氏は一時没落しかけましたが、内戦に勝利した大内盛見が幕府に家督の相続を追認させ、大内氏を再び繁栄させる礎を築きました。盛見死後も大内氏は家督を巡る内紛が繰り返されますが、持世・教弘・政弘・義興と、いずれも大内氏の勢力を維持し続け、享禄元年(1528年)義興が死去し大内義隆の代になると、周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前の7か国を領有する、名実共に西国一の戦国大名となります。

義隆は細川氏との戦いに勝利し、明との交易を独占して巨大な冨を手にしていました。まさに大内氏の全盛期を迎えたのです。そして、義隆が学問・芸術に熱心で、キリスト教の布教(フランシスコ・ザビエルの布教)を許し、公家や宣教師を積極的に保護したことから、本拠地領内には独特の文化が生まれました。その潤沢な蓄財により栄華を極め、後に大内文化と呼ばれる一時代を築いたのです。今日、山口市が「西の京・山口」と呼ばれる所以です。しかし、大内氏の衰退が始まるのも義隆の時代でした。

I大内義隆墓所.jpg
転機は天文10年(1541年)出雲遠征での大敗でした。この遠征の失敗で養子の大内晴時を失った義隆は、出雲遠征を主導した武功派の家臣・陶隆房らを国政の中枢から遠ざけ、政務を文治派の相良武任に一任して政務から遠ざかります。義隆は学芸・茶会などに没頭して公家のような生活を送るようになり、やがて国内治政さえ顧みなくなりました。このため、大内家の主導権を巡って陶隆房ら武巧派は、文治派の相良武任を敵対視するようになり、主君・大内義隆との関係も悪化します。

天文20年8月28日-9月1日(1551年)大寧寺の変(たいねいじのへん)が起こります。陶隆房ら武巧派の謀反により大内義隆は追い詰められ、長門深川の大寧寺(長門市)で自害しました。この政変により大内氏は急速に衰退し始めます。大内義隆の死後、陶隆房は強引な擁立で大内義長に家督を継がせ、陶隆房の(このとき陶晴賢に改名)かいらい政権として大内家は存続しました。しかしこれに不満を持つ者は多く、まもなく反乱が起こります。これに乗じて安芸国の最大勢力であった毛利元就が、陶隆房(陶晴賢)を討ち取ると、大内家はもはや統制のとれない状態となります。毛利氏の侵攻を受けても内紛はおさまらず、戦力は崩壊して行きました。弘治3年(1557年)大内義長は毛利の軍勢により長門勝山城(下関市)に追い詰められ、長府の長福寺(功山寺)に移った後に自害します。栄華を誇った西国一の戦国大名・大内氏はここに滅亡しました。

長門大寧寺.jpg

大内氏を滅ぼしその所領を手中にした毛利元就は、中国地方最大の戦国大名となります。しかし関ヶ原の戦いにより毛利氏の勢力は一挙に失われました。西軍の総大将に担ぎ上げられていた毛利輝元(元就の孫)は、東軍の徳川家康と所領安堵の密約を結び、結局、西軍を敗北に導きました。しかし、後にこれを反故にした家康により所領を周防・長門の2ヶ国のみに減封され、毛利氏(長州藩)は外様大名として幕末まで悲哀を味わうことになります。

大内氏にとってかわった毛利氏は、当初は領民掌握の為に旧大内家臣を重用しました。しかし、まもなく旧大内家臣は冷遇されるようになります。所領をわずか2か国に減じられ、幕府の諸策により毛利氏(長州藩)の財政事情は非常に苦しかったのです。そのしわ寄せは旧大内家臣に対して真っ先に振り向けられました。毛利藩の厳しいリストラによって、外様家臣であった厚氏は在郷武士へと転身し、まもなく帰農しました。

一族の菩提寺であった曼陀羅寺も往時の勢いをすっかり失い、明暦年間には光明寺に合併吸収されました。その後、曼陀羅寺にあった厚氏の墓所は厚狭川の大規模な川改作の際に移転撤去されました。真言寺院であった曼陀羅寺最後の住職、利殘和尚は万治2年(1659年)12月20日に光明寺で遷化しています。上人の位牌には「翁空上人利殘和尚・曼陀羅寺住」と彫られており、お墓は光明寺歴代住職と並んで現存しています。

さて、毛利家では年頭の会において家臣より、「今年は倒幕の機は如何に?」と藩主に伺いを立て、それに対して藩主が「時期尚早である」と答えるのが毎年の習わしだったといわれていますが、まさに幕府に対する積年の思いが伝わってくる話です。長州藩士たちの蓄積した怨念がやがて彼らを倒幕へと走らせ、明治維新を成就させるエネルギーになったのかもしれません。

光明寺焼失の詳細

2010年03月14日

厚氏旧墓所(厚狭川改作箇所.jpg

坊さんになりたての頃、私は檀家の湯本 稔さんから貴重な本を頂きました。2002年秋に出版された「長門地頭秘史」(著者・大嶋敦子・伊藤太文)というタイトルの書籍で、長門国厚保村(ながとのくに・あつむら)の地頭、厚氏の歴史が詳しく紹介されています。 山寺の歴史を調べる資料として大変参考になりました。江戸初頭に光明寺と合併した曼陀羅寺(万陀羅寺)は厚氏の菩提寺でした。ですから地頭厚氏の歴史を詳細に調べると、おのずと光明寺の歴史にも触れることになります。

光明寺の縁起を防長寺社由来等で調べると、真言時代の旧光明寺が焼け落ちたのは「大永の兵火」とあります。そして、これを嘆いた里人たちは跡地に三間四方の草庵を結び、難を逃れた大日如来像を安置していたのだといいます。しかし著者の長期に渡る詳細な調査により、これは「応永の兵火」の誤りであることが指摘されています。私も疑問に感じていたので大変ありがたかった。この本に目を通すと厚氏の450年に渡る死闘の歴史を詳しく知ることが出来ます。鎌倉下向武士として着任以来、歴史の波に翻弄されながらもしぶとく生き残り、毛利の時代に厳しいリストラが始まると、在郷武士を経て帰農していった歴史が明らかにされています。今残しておかなければ、日の目を見ることは無くなるかもしれない貴重な郷土史です。

旧光明寺が戦火に巻き込まれる原因となった「応永の乱」は、室町時代の応永6年(1399年)周防・長門(現在の山口県)を本拠地としていた守護大名の大内義弘が起こした反乱です。大内氏の分国であった和泉国(いずみのくに)の堺(現在の大阪府堺市)に砦を築き、幕府軍と激しく戦って敗れました。室町幕府は守護大名の連合政権であったので、将軍の権力は弱体でした。3代将軍・足利義満は将軍権力を強化するため、有力守護大名の弱体化を図ります。義満にとって最も都合が良かったのは、守護大名を争わせて滅亡や衰退に追い込むことでした。

康歴元年(1379年)細川氏と斬波氏の対立を利用して細川頼之を失脚させた「康歴の政変」。康応元年(1389年)土岐康行(とき・やすゆき)を挑発して挙兵に追い込み討ち取った「土岐康行の乱」。明徳元年(1390年)義満は11カ国の守護となり大勢力であった山名氏の分裂を画策し、一族の氏清と満幸に山名時熙と氏幸兄弟の討伐を命じて没落させます。そして明徳2年(1391年)さらには氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込みこれを滅ぼしました。結局山名氏は3カ国を残すのみとなってしまう「明徳の乱」。いずれも有力守護大名の弱体化を狙らう、将軍・足利義満の意図が透けて見える事件です。

応永の乱を起こした大内義弘は、本拠地の周防・長門に加えて、分国和泉・紀伊・石見・豊前の6か国を守護する有力守護大名でした。この頃、大内氏は地の理を生かして朝鮮半島と独自の交易を行い、膨大な冨を蓄えていました。将軍・足利義満はそんな大内氏を警戒しはじめます。義弘の慢心もあって両者の関係は徐々に悪化して行き、結果的に大内義弘は幕府の挑発により反乱に追い込まれ討死したのです。いわば将軍・義満にはめられたのです。しかし、室町幕府の権力はその後も決して盤石とはいえず、各地で謀略・策略が乱れ飛び戦火が絶えない時代でした。応仁元年(1467年)8代将軍・足利義政のときに起こった「応仁の乱」で、将軍の権威は失墜します。これをきっかけに、後に戦国時代と呼ばれる戦乱の世へ突入することになったのです。

さて、光明寺が焼失した「応永の兵火」とは、大内義弘死後に起こった大内盛身と大内弘茂による家督相続争いのことで、いわば大内家の内戦です。応永の乱を起こした兄・義弘が幕府軍と戦って敗死した後、本拠地を守っていたのは大内盛見でした。一方、兄と共に応永の乱に参加していた大内弘茂(盛見の弟)は、兄の敗死により幕府に降伏します。そして将軍・足利義満に臣従することでその後ろ盾を得て、大内氏の家督を継ごうとしました。将軍・足利義満は大内氏に対する処罰として、分国泉・紀伊・石見・豊前を没収し、弘茂の家督相続と周防・長門の所領を安堵しました。ところが本国の留守を守っていた大内盛見(弘茂の兄)は所領没収に従わず反抗したため、義満は弘茂に盛見の討伐を命じます。これにより大内家臣は二分され、昨日までの友軍と敵対することになりました。弘茂は幕府の援軍を率いて防長に帰り、盛見は豊前・豊後に逃れました。応永8年12月(1401年)盛見はひそかに海を渡り、長府(下関市)の弘茂軍を奇襲して破り、盛山城で弘茂を討ち取ります。さらに弘茂の後を継いだ大内道通も滅ぼして、大内氏の家督を手中に収めたのです。このため、応永10年(1403年)幕府はやむなくその家督相続を追認し、盛見に周防・長門の守護職を与えています。以後は幕命により、九州探題渋川満直を援助して九州の騒乱を平定し、後に筑前・豊前の守護にも任じられます。

草場山と光明寺.jpg

応永の乱の翌々年、下関長府で弘茂を討ち取った盛見は、つづいて弘茂方の豪族を攻めました。応永9年7月(1402年)大内盛見は杉重綱を出撃させ、厚狭の箱田氏、豊浦郡の橘氏流豊田氏、さらには美東町(美祢市へ合併)の青景氏等を攻め、弘茂方であった厚保村の地頭厚氏も、盛見軍に攻められるところとなります。光明寺の背後は草場山への険しい稜線が続く天然の要害で、光明寺そばの城山には砦が築かれていました。厚氏の軍勢はこの砦や山中などにたてこもり抵抗したのです。この戦いで厚氏の軍勢は盛見軍に焼き討ちにされ、この時、光明寺の伽藍も焼失しました。

厚氏は大内盛見に下ることとなり、厚保村の地頭は大嶺地頭由利氏が兼務するようになります。厚氏はこれよりしばらく冬の時代を送りました。その後、応仁の乱(1467年)が起こると、厚氏は西軍(山名方)大将であった大内政弘の軍勢として活躍し、文明4年(1472年)には厚安芸守が長門小守護代に任じられています。

一方、大内氏の内戦で焼失した光明寺のその後は、跡地に建てられた草庵に、焼け残ったご本尊大日如来が安置され、地元の人々がひっそりと守っていたといいます。寺伝によると、光明寺が復活するのは、天正8年(1580年/天正16年説もあり)謙空南恵上人により旧光明寺跡地に浄土教寺院が開基されてからになります。明暦年間には、かつて当郷の地頭であった厚氏の菩提寺(曼陀羅寺)を、玉空傳瑞上人がこの地に引寺しています。この縁起により光明寺は山号を曼陀羅山と称するようになります。その後、毛利藩により曼陀羅寺の旧墓地があった尾根を掘り割いて厚狭川を直進させる大規模な工事が行われ、貞享元年に完了します。この時、厚氏の墓石群の一部は光明寺へ移されています。

思いがけない大雪です

2010年03月11日

旧本堂雪景色2.jpg

昨日は(3/10)早朝にカーテンを開けると外は一面真っ白でした。来週はもう彼岸の入りだというのに、全国的に大雪です。美祢市もこの時期としては、近年記憶にない大雪になりました。市の中心部でも20㎝は楽に積もっています。そろそろスタッドレスタイヤを外そうかと迷っていた矢先にこの出来事です。毎年本格的な春が訪れる前に思いがけない積雪があるものですが、今年はすごかった。こんな日は自宅から出ないのが正解だと思いましたが、鎌倉・鶴岡八幡宮の大銀杏が雪まじりの強風で倒れたと報道されていたので、山寺がどうなっているか心配になりました。それで意を決して確認に行きました。

自宅を出ると水分を含んだ重い雪の影響で、樹木が折れたり傾いたりしているのが目につきます。通信ケーブル(有線TVのケーブルかも)が切断されて垂れ下がっている所もあります。山寺へ向かう県道33号線は竹が倒れて道路へはみ出した箇所が多数ありました。見通しの悪い所に限って突然ですから何度もドッキリさせられました。たどり着くと一番心配だった大銀杏とシダレ桜は無事でした。しかし背後の大日堂へ上ってみると楠がけっこうやられています。冬でも葉が茂っているので、降り積もった雪で折れた枝が大日堂広場に多数落下していました。それと霊園の背後にある杉が雪の重みで見事に折れ曲がっていたのには驚きました。雪の力はバカにできません。

雪の光明寺(杉林).jpg

無理して山寺までやって来たので、車内に置きっぱなしのデジカメで記念写真(?)を何枚か取りました。雪の日の景色は風情があっていいものですが撮影は大変です。カメラがすぐに濡れてしまいますしレンズに雪が付着すると像が乱れて鮮明な画像になりません。傘を片手に実に難儀な撮影でしたが思いがけない収穫もありました。ご覧の通り深紅の花びらが燃えていました。椿の季節に雪が降ると実に印象的な景色が出現するものですね。今日は朝から快晴です。これなら主要道路の雪はすぐに溶けるでしょうが、脇道だと少々怪しくなります。本日予定に入っていたご法事は明日に延期となりました。さすがにこの状態では、ご親戚が集まるのは大変でしょうからね。 まもなく本山で加行(法脈相承)が始まります。今年も同行人会が開かれるので、私は本山へ行くことになります。それにしても、法脈相承の期間中にこんな大雪になったら加行人は大変です。もうこれで終わりになって欲しいですね。

雪の光明寺(椿).jpg

西山で用いる二つの紋

2010年03月09日

久我竜胆車.jpg

上記画像の高解像版はこちら

https://koumyou-ji.or.jp/files/uploads/kogarin-HD.jpg

西山浄土宗の宗紋は竜胆車(りんどうぐるま)です。久我竜胆(こがりんどう)とも呼ばれ、流祖西山上人の出自からこの紋が使用されています。上人の父、源親季(みなもとのちかすえ)は、源通親(みなもとのみちちか)別名久我通親(こがみちちか)の一門に属する貴族でした。通親は62代村上天皇の皇子を祖とする村上源氏のいわば本家で、西山上人は幼少期に一門の長である通親の猶子(養子)となっています。それで、西山は久我家の紋所である竜胆車なのです。西山浄土宗とは非常に近い関係にある浄土宗西山禅林寺派も宗紋として使用しています。また曹洞宗でもこの竜胆車(永平寺)と五七桐(總持寺)を両山紋として使用しています。曹洞宗の宗祖道元禅師は通親の嫡流(実子)であったといわれており(異説もあります)、西山上人とはいわば義兄弟です。だから同じ紋になっているのでしょう。源というのは天皇の子で下に下った人につけられた氏・姓の一つです。皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りることを、賜姓降下(しせいこうか)といい、そのような皇族を俗に賜姓皇族ともいいます。ちなみに平家もおなじく賜姓降下の一門です。

ところで一言に源氏といっても複数の天皇の時代の源氏があるので話はややこしくなります。源氏として代表的なものを上げると、例えば嵯峨源氏、醍醐源氏、宇多源氏、村上源氏、清和源氏などがあります。○○源氏の○○が天皇の名です。一般的に源氏は笹竜胆(ささりんどう)といわれていますが、これは必ずしも正確ではありません。源氏の家紋としてよく知られている笹竜胆は、56代清和天皇の皇子を祖とする清和源氏の一門であった源義経が用いていた(異説あり)とされており、それで源氏一門の代表的な紋としてよく知られるようになりました。久我家の竜胆車もそうであるように、竜胆(りんどう)と笹の葉(本当は笹ではなく竜胆の葉です)をモチーフにした家紋はまさに源氏ですが、実際には源氏一門で使われている家紋はさまざまで、竜胆ではない紋を使用する家もあります。

西山浄土宗の宗紋は前記の竜胆車ですが、我々にはもう一つ重要な紋があります。それは法然上人の生家、漆間家由来の杏葉(ぎょうよう)紋です。杏(あんず)の葉と表記するので、植物の杏に由来した紋として受け取られがちですが、正しくは唐から伝来した馬の鞍(くら)の装飾馬具のことであり、器材を由来とした紋です。平安時代より晴の儀式の行幸などで馬につけられる豪華な鞍、唐鞍(からくら)に用いられている革製や金属製の飾りの一つが杏葉です。当初は鞍の付属品として用いられ、やがて牛車の装飾などを経て家紋に転用されたといいます。下の紋が現在西山浄土宗の総本山光明寺で使用されている漆間家由来の杏葉紋(寺紋)です。本山宗務所の玄関幕に使用されている紋を私がPCで描いてみました。我々にとってこの紋は特別です。宗祖法然上人由来の紋所ですから、いわば水戸黄門の印籠みたいなものです。

西山浄土宗杏葉.jpg

上記画像の高解像版はこちら

https://koumyou-ji.or.jp/files/uploads/gyoyo-HD.jpg

ところで、京都紋章工芸共同組合から出版されている「改訂版・平安紋鑑」を調べると、総本山光明寺の紋とされる「杏葉」が掲載されています。しかし、その紋をよーく眺めて見ると、本山宗務所の玄関幕に染め抜いてあるものとは、花の部分のおしべの本数が異なっています。玄関幕は9本ですが平安紋鑑は7本です。さらに、平安紋鑑ではおしべの軸が末広がりに少々カーブを描いている点も異なります。本山御用達の衣屋さんが使用している杏葉や、本山のホームページ上に掲載されている杏葉も、よく観察するといずれも少しずつ異なる部分があります。細かいことに、そこまでこだわっても仕方ないのかもしれませんが、こうなると何が本来正式なのか良く解りません。それで本山で確認してみたところ、どうやら平安紋鑑に掲載してあるデザインで、おしべが9本のものが、本山で正式と考えられている手書きの資料にかなり近いことが解ってきました。しかし、本山御用達の衣屋さんが使用している紋や、本山ホームページ上のかなり荒い画像の紋が間違いかといえば、決してそうではありません。これらはおしべが黒等の有色で描かれ、背景が扇型に白抜きになっているのですが、(注・本山ホームページの杏葉紋はこの記事を掲載した後にリニューアルされてずいぶん綺麗な画像になりました)実は本山の各所で使用されている杏葉は、この白抜きであったりそうでなかったりで様々です。だから、いずれも間違いではなく、いわば許容範囲とでもいえるのでしょう。今日ではパソコン上でサクサクと手軽に描くことが出来ます。その際に厳密なルールを設定することも可能なのですが、昔はすべて手書きだった訳ですから多少のブレは致し方ないのかもしれませんね。

本山宗務所玄関幕.jpg

西山で用いる紋についてあれこれ述べてみたので、ついでにこの紋に関連した話を書いておきます。実は組内のお寺さんで、家紋が杏葉の家があります。山寺光明寺の法類(お寺における親戚のような関係)である舜青寺さんです。庫裏の表札はやっぱり漆間です。法然上人の血筋は岡山にある誕生寺の漆間家が本家ですが、この山口にも漆間姓があったのです。漆間姓は非常にめずらしいものですから、舜青寺さんがそうであることを知ったときには、真っ先に「法然上人とつながる血筋なのかも」と考えました。私がそんなことにこだわっても仕方ないのですが、相変わらず「在家の人」ですから気になっちゃうんです。それで先代の住職にたずねたことがあるのですが、「吉村君それが良く解らんのだよー」とのことでした。「関係あるとは思われるが、今となっては調べようが無いんだ。しかし私も西山の坊さんだから、漆間の姓に誇りをもって生きて来たつもりだよ」です。実に正直な方です。普通ならよく分んなくても「そうだ」と言いたくなるケースです。先代はそういわれていましたが、私にしてみれば絶対に間違いないと思います。だって舜青寺さんのところは先代も現住職も、そして子供さんもみんな教師です。住職の息子さんは赤門の大学(解りますよね、法然上人の時代の比叡山と同じです。国内の最高学府です)に進まれています。ものすごく優秀な家系なのです。これって正に法然さんの血筋だからでしょう。私は勝手に納得しています。それに比べると我が息子の将来は不安であります。親が親だから仕方ないのですけど。こんなこと書いてるとまた笑われそうです。そうです西山上人のあの御法語「機根つたなくとも卑下するべからず・・・いたずらに機の善悪を論じて仏の強縁を忘るることなかれ」であります。反省。

本山総門.jpg

舜青寺の先代は小柄でしたが、いかにもお坊さんらしくて威厳のある方でした。外出の際には茶人帽を愛用されていました。その姿が絵になっていて、私も年を取ったらあんな風になりたいものだと思ったものです。塔婆回向の読み上げ方が格調高くて、実に雰囲気のあるご上人でした。そしてお話がお上手な方でもありました。私は先代のお説教の録音を持っています。それは遷化される2年前の夏でした。組内の施餓鬼会でご一緒したのですが、法要の途中で施餓鬼供養のいわれについて講演をされました。私を含め他の僧呂はその間休憩をさせて頂いたのです。録音したものを後から聞くと、その語り口はまるで講談師のようにメリハリがあって印象的でした。佳境に入るとちょっぴり芝居がかった話し方になってとても面白かった。すっかり引き込まれてしまいました。先代は私が坊さんになる数年前に舜青寺を再建されています。建て替え前は山寺光明寺といい勝負くらいの古いものだったそうです。驚くことに本堂の欄間は先代がご自身で彫られたものです。のんびりしていることが苦手で、仕事をしていた方が落ち着くといわれます。いかにも戦前生まれらしい御仁でした。現在舜青寺の庭にある多数の樹木は先代が常日頃からお世話されていたものです。いつ行っても手入れが行き届いていました。まるで庭師のような方でもありました。

私が初めて舜青寺を訪れたのは、僧呂を目指すことになり本山へ提出する関係書類へ法類である先代の捺印を頂きに伺った時です。初対面でしたが、先代ご夫婦は大歓迎して下さいました。署名捺印はそこそこに、コタツに入って長時間いろんな話を聞かせて下さいました。山寺光明寺と舜青寺の縁の深さなども詳しく伺いました。「よく坊さんになる決心をしてくれたねー、私は光明寺のことがとても心配だったんだよ。うちとは特別の縁がある寺だからね、よかったよかった」と大変喜んで下さったものです。きっと我が光明寺の実情をよくご存じで、ご自身も大変苦労されて舜青寺を再建された方だったからこそ、格別の感慨を抱かれたのだろうと思います。生前先代はよく口にされていました。「自分はもう思い残すことはない。住職としてやりたいことはみんなやったような気がする」です。その言葉を残して本当に突然旅立たれました。ある意味たいへん羨ましくも思えます。ご一緒できたのはわずか4年少々でしたが、私の記憶に深く残るご上人でした。

さて、現住職は実に見事な字を書かれるところは先代譲りですが、庭木の剪定などはしたこともなかったそうです。だから残された樹木の管理は大変です。「父の残した庭木の管理は大変だー」といわれます。まったくその通りでしょう。先生あまり無理しないで下さい。
 

楠はありがたい木です

2010年03月07日

大日堂広場の大クス.jpg

山寺の大日堂広場の隅には大きな楠(くすのき)があります。楠は仏教にとって太古より重要な木でした。仏像を制作する際の材料として適していたからです。その幹・根・葉を蒸留すると防虫材の原料である樟脳(しょうのう)を抽出することが出来ます。だから虫食いになりにくく耐久性が抜群です。大木になるので昔から神仏が宿る神聖な木とも考えられてきました。ですからその木を仏像にすることは意義あることなのです。山寺光明寺の大日堂に鎮座している大日如来像も楠で彫られたものです。だから今日まで虫食いになることもなく残れたのでしょう。「昔の人は利口だったなー」と思います。何百年も先のことを考えて仕事をしています。楠はつくづくありがたい木だと思います。

さてその楠ですが、木魚の材料としても多用されています。ただし木魚の場合は桑の木で作ったものが最高だといわれて来ました。本桑の良材で作られた木魚は乾いた感じで実にキレのいい音で鳴るからです。堅さとねばりのバランスが絶妙で、緻密で美しい木目は高級仏壇の材料としても重用されています。しかし良材の入手が困難になった今日、非常に高価になりました。そもそも楠のように大木にはならないですから大型の木魚を作ることは出来ません。普通はせいぜい巾30㎝位までですが、その大きさでもびっくりするようなお値段になります。300万円位は覚悟しないと調達できないでしょう。よほど財政状態の良好なお寺か、特別な寄贈とかでもない限り備えることは難しい高価な仏具です。山寺にも桑の木魚が一応あります。一般家庭用の小型のものですが、これでも今購入しようとすれば10万出しても無理でしょう。小さくてもさすがに本桑です。実に良い音で鳴ります。しかしこんな良い音を知ってしまうと普通の木魚の音が不足に感じられそうです。へたをすると求不得苦状態になりかねません。ある意味とても危険な木魚だと思います。

本桑の木魚は確かに良い音で鳴るのですが、前記のとおり今日では高価すぎてお話になりません。それで木魚は楠で作られたものが普通です。楠も選ばれた良材だとかなりいい音で鳴ります。大木になるので本堂などに据える大型の木魚を制作することも可能です。我が宗派の本山、長岡京市粟生にある総本山光明寺の御影堂(本山では本堂を御影堂と呼ぶ)には、大きな木魚があります。確認していないのですが、この木魚も楠かもしれません。加行の際には私もこの木魚を叩きました。叩くための道具(バイと呼ぶ)も木魚の大きさに比例して大きく立派なので、読経の際に叩き続けるのは腕が疲れて大変でした。普段その木魚を叩いている本山の随身生(住み込み修業中の若い僧侶)は、この重いバイで木魚をいかに早く叩くかに心血を注ぎます。常日頃から上腕筋のトレーニングに励むのが伝統です。本山の浴室にはその為のバーベルが転がっているのですが、初めて目にしたときは随分驚いたものです。本山は僧兵の養成でもやってるのかと思いましたね。(笑って下さい)

ところで、御影堂の木魚はずいぶん大きいのですが、本山にはさらに大きなものがあります。御影堂の隣にある阿弥陀堂には、我が宗門の先徳(宗門の住職)が寄贈された素晴らしい木魚が保管されています。ここまで大きいと読経の際にバンバン叩くのは難しいかもしれません。もしもこの木魚が法要で使用されることになったら、叩く人は大変なことになるでしょうね。

塔婆ってなんですか?

2010年03月05日

本山霊園.jpg

真宗王国に住んでいると塔婆(とうば)というものを目にする機会は限られます。なぜなら浄土真宗には塔婆というものがありません。私の実家も真宗ですから、子供の頃より塔婆を地元で見ることはほとんどありませんでした。私にとって塔婆とは、時代劇の墓地などに出てくる「不思議な文字(梵字)や漢字が書かれた細長い板」程度の認識でした。塔婆とは卒塔婆(ストゥーパ)のことです。古代インドの公用言語であったサンスクリット語の(stûpa)の音訳で塔婆(とうば)とも略します。あくまでも耳に聞こえる音に漢字を当てただけなので、卒塔婆の漢字自体に深い意味はありません。もとはお釈迦さんの遺骨(仏舎利)を安置するための建築物(仏塔)を意味していました。仏塔を簡略化した五輪塔(五輪卒塔婆・石塔婆)をさらに簡略化したものが今日一般的に塔婆(板塔婆)と呼ばれています。

五輪塔の話が出たので触れておきますが、江戸期になるまでお墓の多くは五輪塔(石塔婆)でした。文字が彫り込んであるケースはまれです。よほど特別の人か名家でもない限り、墓石に文字が掘られることは無かったようです。だから詳しい情報は得られません。一般庶民は自然石を積んだだけの簡素なものが多かったようで、五輪塔の形でお墓が建立できる家は限られたのです。しかし江戸時代になると角型の墓石に戒名や没年月日などを刻むことが一般的になりました。子供の場合は竹の子を縦半分に割ったような形で、水平の面にはお地蔵さんの姿を彫った墓石(地蔵墓)が建立されていました。江戸期より一般庶民でも墓石に文字を刻むようになったので、その時代の墓石を丁寧に調査すると、戒名・没年月日・俗名などを知ることが出来ます。しかし名家や位の高い人々は、この時代になっても伝統的な五輪塔型の墓石を建立しています。例えば大名の墓石などがそうです。山口県の場合は毛利家の菩提寺等を訪れると、藩主などの墓石を目にすることが出来ます。いずれも実に立派な五輪塔形式です。今日五輪塔のスタイルで供養塔などを建立する際には、これらの墓石が良いお手本になります。山寺光明寺の生類供養塔も、まさに藩主のお墓を参考にして建立したものです。サイズはともかく見た目はお殿様のお墓風になっています。

さて、江戸期になると庶民も文字を彫ったお墓を建立するようになったのですが、年回忌法要などで塔婆(板塔婆)を立てることも、先亡の追善供養(追善回向)になるとして定着します。いわば年忌法要と塔婆の建立がセットになったのです。ただし浄土真宗では追善供養(追善回向)という考え方をしません。ですから塔婆を立てるという行為もありません。それで真宗王国の美祢市では、塔婆を目にする機会が限られていたのです。しかし山口でも大きな霊園などを訪れると塔婆が供えてあるお墓を見ることが出来ます。そんな時に私は少々気になることがありました。それは塔婆板に墨で書かれている文字が、たいてい書き慣れた達筆であることです。お坊さんが書かれるのでしょうが「上手だなー」と感心してしまいます。字が下手な私は、そういう達者な筆遣いを目にすると羨ましくて、思わずしげしげと眺めてしまいます。自分が坊さんになり、あのへんてこな板に(?)墨で書くようになるなんて夢にも思っていませんでしたので、塔婆を書くことが日常的になる宗派であることを知った時にはびっくり仰天でした。「これはマズイことになったぞ」と不安になりました。

山寺光明寺では8月3日に「大施餓鬼会」が行われます。お盆を迎える準備として、檀家さんはこの施餓鬼会で先祖供養の施餓鬼塔婆を一斉に建立します。ですから住職は大量(?)の塔婆を書かねばなりません。しかし筆達者な人にとってはなんて事も無いかもしれません。大寺の住職さんから見れば大したことのない枚数です。それでも私にとっては毎年難儀なことです。なんと言っても字が下手なのですから、一枚書き上げるだけでも大変な神経を使います。紙と違って塔婆は立派な板ですからけっこう値が張ります。書き損じると「あーまた大損害だー」とボヤくことになります。「どうしてこんなに字が下手に生まれたのだろう」と嘆きながら、それでも下手は下手なりに書くしかないのです。

さて山口ではめずらしい塔婆ですが、私が年回忌法要で常用しているのは三尺塔婆です。山寺では大きくても四尺までしか使っていません。しかし所かわれば五尺や六尺の塔婆を立てる地方もあります。六尺となると約180センチです。山口では信じられない大きさです。本山の境内北側には併設の霊園があります。京都の霊園ですから、田舎の感覚からすると区画は小さく墓石自体もこじんまりとしています。ただしその墓石の後ろに並ぶ塔婆は実に立派です。墓石より背が高いのが普通です。まさに墓石の背後にそびえ立っています。これだけ立派な塔婆だと墨で書かれた文字も大変目立つことになります。「あー山口でよかった」と、少々救われた気持ちになったものです。

▲PAGETOP