こだわり住職のよもやま話

2010年3月14日

光明寺焼失の詳細

2010年03月14日

厚氏旧墓所(厚狭川改作箇所.jpg

坊さんになりたての頃、私は檀家の湯本 稔さんから貴重な本を頂きました。2002年秋に出版された「長門地頭秘史」(著者・大嶋敦子・伊藤太文)というタイトルの書籍で、長門国厚保村(ながとのくに・あつむら)の地頭、厚氏の歴史が詳しく紹介されています。 山寺の歴史を調べる資料として大変参考になりました。江戸初頭に光明寺と合併した曼陀羅寺(万陀羅寺)は厚氏の菩提寺でした。ですから地頭厚氏の歴史を詳細に調べると、おのずと光明寺の歴史にも触れることになります。

光明寺の縁起を防長寺社由来等で調べると、真言時代の旧光明寺が焼け落ちたのは「大永の兵火」とあります。そして、これを嘆いた里人たちは跡地に三間四方の草庵を結び、難を逃れた大日如来像を安置していたのだといいます。しかし著者の長期に渡る詳細な調査により、これは「応永の兵火」の誤りであることが指摘されています。私も疑問に感じていたので大変ありがたかった。この本に目を通すと厚氏の450年に渡る死闘の歴史を詳しく知ることが出来ます。鎌倉下向武士として着任以来、歴史の波に翻弄されながらもしぶとく生き残り、毛利の時代に厳しいリストラが始まると、在郷武士を経て帰農していった歴史が明らかにされています。今残しておかなければ、日の目を見ることは無くなるかもしれない貴重な郷土史です。

旧光明寺が戦火に巻き込まれる原因となった「応永の乱」は、室町時代の応永6年(1399年)周防・長門(現在の山口県)を本拠地としていた守護大名の大内義弘が起こした反乱です。大内氏の分国であった和泉国(いずみのくに)の堺(現在の大阪府堺市)に砦を築き、幕府軍と激しく戦って敗れました。室町幕府は守護大名の連合政権であったので、将軍の権力は弱体でした。3代将軍・足利義満は将軍権力を強化するため、有力守護大名の弱体化を図ります。義満にとって最も都合が良かったのは、守護大名を争わせて滅亡や衰退に追い込むことでした。

康歴元年(1379年)細川氏と斬波氏の対立を利用して細川頼之を失脚させた「康歴の政変」。康応元年(1389年)土岐康行(とき・やすゆき)を挑発して挙兵に追い込み討ち取った「土岐康行の乱」。明徳元年(1390年)義満は11カ国の守護となり大勢力であった山名氏の分裂を画策し、一族の氏清と満幸に山名時熙と氏幸兄弟の討伐を命じて没落させます。そして明徳2年(1391年)さらには氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込みこれを滅ぼしました。結局山名氏は3カ国を残すのみとなってしまう「明徳の乱」。いずれも有力守護大名の弱体化を狙らう、将軍・足利義満の意図が透けて見える事件です。

応永の乱を起こした大内義弘は、本拠地の周防・長門に加えて、分国和泉・紀伊・石見・豊前の6か国を守護する有力守護大名でした。この頃、大内氏は地の理を生かして朝鮮半島と独自の交易を行い、膨大な冨を蓄えていました。将軍・足利義満はそんな大内氏を警戒しはじめます。義弘の慢心もあって両者の関係は徐々に悪化して行き、結果的に大内義弘は幕府の挑発により反乱に追い込まれ討死したのです。いわば将軍・義満にはめられたのです。しかし、室町幕府の権力はその後も決して盤石とはいえず、各地で謀略・策略が乱れ飛び戦火が絶えない時代でした。応仁元年(1467年)8代将軍・足利義政のときに起こった「応仁の乱」で、将軍の権威は失墜します。これをきっかけに、後に戦国時代と呼ばれる戦乱の世へ突入することになったのです。

さて、光明寺が焼失した「応永の兵火」とは、大内義弘死後に起こった大内盛身と大内弘茂による家督相続争いのことで、いわば大内家の内戦です。応永の乱を起こした兄・義弘が幕府軍と戦って敗死した後、本拠地を守っていたのは大内盛見でした。一方、兄と共に応永の乱に参加していた大内弘茂(盛見の弟)は、兄の敗死により幕府に降伏します。そして将軍・足利義満に臣従することでその後ろ盾を得て、大内氏の家督を継ごうとしました。将軍・足利義満は大内氏に対する処罰として、分国泉・紀伊・石見・豊前を没収し、弘茂の家督相続と周防・長門の所領を安堵しました。ところが本国の留守を守っていた大内盛見(弘茂の兄)は所領没収に従わず反抗したため、義満は弘茂に盛見の討伐を命じます。これにより大内家臣は二分され、昨日までの友軍と敵対することになりました。弘茂は幕府の援軍を率いて防長に帰り、盛見は豊前・豊後に逃れました。応永8年12月(1401年)盛見はひそかに海を渡り、長府(下関市)の弘茂軍を奇襲して破り、盛山城で弘茂を討ち取ります。さらに弘茂の後を継いだ大内道通も滅ぼして、大内氏の家督を手中に収めたのです。このため、応永10年(1403年)幕府はやむなくその家督相続を追認し、盛見に周防・長門の守護職を与えています。以後は幕命により、九州探題渋川満直を援助して九州の騒乱を平定し、後に筑前・豊前の守護にも任じられます。

草場山と光明寺.jpg

応永の乱の翌々年、下関長府で弘茂を討ち取った盛見は、つづいて弘茂方の豪族を攻めました。応永9年7月(1402年)大内盛見は杉重綱を出撃させ、厚狭の箱田氏、豊浦郡の橘氏流豊田氏、さらには美東町(美祢市へ合併)の青景氏等を攻め、弘茂方であった厚保村の地頭厚氏も、盛見軍に攻められるところとなります。光明寺の背後は草場山への険しい稜線が続く天然の要害で、光明寺そばの城山には砦が築かれていました。厚氏の軍勢はこの砦や山中などにたてこもり抵抗したのです。この戦いで厚氏の軍勢は盛見軍に焼き討ちにされ、この時、光明寺の伽藍も焼失しました。

厚氏は大内盛見に下ることとなり、厚保村の地頭は大嶺地頭由利氏が兼務するようになります。厚氏はこれよりしばらく冬の時代を送りました。その後、応仁の乱(1467年)が起こると、厚氏は西軍(山名方)大将であった大内政弘の軍勢として活躍し、文明4年(1472年)には厚安芸守が長門小守護代に任じられています。

一方、大内氏の内戦で焼失した光明寺のその後は、跡地に建てられた草庵に、焼け残ったご本尊大日如来が安置され、地元の人々がひっそりと守っていたといいます。寺伝によると、光明寺が復活するのは、天正8年(1580年/天正16年説もあり)謙空南恵上人により旧光明寺跡地に浄土教寺院が開基されてからになります。明暦年間には、かつて当郷の地頭であった厚氏の菩提寺(曼陀羅寺)を、玉空傳瑞上人がこの地に引寺しています。この縁起により光明寺は山号を曼陀羅山と称するようになります。その後、毛利藩により曼陀羅寺の旧墓地があった尾根を掘り割いて厚狭川を直進させる大規模な工事が行われ、貞享元年に完了します。この時、厚氏の墓石群の一部は光明寺へ移されています。

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