こだわり住職のよもやま話

2010年2月

西山の木魚とカイシャクは曲芸です

2010年02月28日

カイシャク.jpg

多くの宗派では経典の読誦の際に木魚を使います。西山浄土宗もそうですが、これが少々変わっています。阿弥陀経をへんてこな発音で読誦する話を(1/19西山の阿弥陀経は魔球かも)既に書きましたが、私にしてみれば木魚の叩き方も変わってます。西山は間打ち(まうち)と呼ばれる独特のタイミングで叩くのです。普通の打ち方は発声と同時に叩きます。「いち・にい・さん・し・・・」と口に出しながら、右手でその声に合わせてテーブルを叩いてみて下さい。これが普通の木魚の叩き方です。この叩き方であれば、かなり早いタイミングでも正確に出来るはずです。我々は「頭打ち」と呼びます。ところが西山は読経の発声の間に打ちなさいといいます。試しに「いち・にい・さん・し・・・」と60まで口に出して、その数えている声と声の間に右手でテーブルを正確に叩くようにしてみて下さい。制限時間は30秒です。このスピードで最後まできちんと出来た人は素晴らしい。すぐに西山流の木魚が叩けるかもしれません。普通はずいぶん難しいはずです。最初は出来ていても、いつの間にか自分が数えている声と右手が同じタイミングになってしまいます。要するに普通のたたき方(頭打ち)です。そうなったら西山の坊さんとしては修行不足です。(こんなこと書くと、自分で自分の首を絞めることになるなー)阿弥陀経の例を上げると。如○是○我○聞○一○時○佛○在○舎○衛○國・・・です。○が木魚を叩くタイミングです。でも、ドラムを叩ける人なら出来るかもしれません。西山がやっている間打ちは、いわばドラムを叩く時などに多用される裏打ちによく似ています。

なぜこんな難しいことをするかというと、要するに「格好をつけているからなんです」なんてのは嘘ですが、実はお経を読誦する声と同じタイミングで木魚を叩くと、声が消されてしまうからだそうです。いわれてみたら「なるほどねー」です。確かに正しい考え方です。でも言うは易しするは難しです。私も苦労しました。前記の制限時間が60秒なら出来るでしょう。でも西山はこの間打ちをテンポよく叩いて阿弥陀経などを早読みしなければなりません。そのあたりの事情は(1/19西山の阿弥陀経は魔球かも)で書いた通りです。こうなるとかなり熟練しないと無理です。早くなればなるほど難しくなって、発音と木魚の音が重なる普通の打ち方になりがちです。一度そうなると元に戻すのは難しくて冷や汗をかきます。読経中の木魚はあくまでも一定のテンポで叩き続けるのが本来原則です。それで声を出すタイミングを微妙にずらして修正するのですが、自分で発声しながら叩いているとこれが難しいのです。 私も未だにあまり早くすると頭打ちになるので要注意です。西山のへんてこな木魚(間打ち)は、どんどん早くして行くとやがて間打ちと頭打ちの区別がつかなくなります。だから木魚での読経にはスピードの限界があります。それで木魚をひとつ飛ばしやふたつ飛ばしで叩かれる方もおられます。そうすれば早読みが出来るからです。

通常西山ではお経を早く読誦するために、木魚のかわりにカイシャク(音木ともいう)という鳴り物を使用します。時代劇で「火の用心、カチカチ」とやっている木製のあの道具です。紫檀や黒檀などの堅い木材で作った一組の短い角材、ようするに拍子木です。これをリズミカルに叩きながらお経を読誦します。本山の朝のおつとめでは毎回途中でこのカイシャクによる早読みがあります。私は加行を受ける前年から本山の検定講習会に参加していたのですが、その際には毎朝本堂のおつとめに出席することになり、ここで本山式の早読みを経験しました。お経本を凝視して必死について行こうとするのですが、当初はどこを読んでいるのか解らなることが度々でした。その異常な(?)早さに発声が間に合いません。今思えばまだ大して修行もしていませんので当然でした。お経を暗記していないので、経本のふりがなを見ながらの発声ですが、まったく話になりませんでした。自分の力の無さを思い知らされた苦い思い出です。この拍子木(カイシャク)のリズミカルな叩き方を、我々は通称「曲打ち」と言います。要するに曲芸打ちです。一定に叩くやり方もありますが、それでは少々おもしろくありません。リズム感が出ないからです。だから腕に自信のあるお坊さんは曲打ちといわれる特殊な(格好いい?)打ち方をします。しかし、これが大変難しいのです。個人的には木魚以上に難しいと申し上げておきます。

本山を訪ねて先亡のご供養などを(これを回向という)お願いすると、ご家庭での法事と同じようにお経一式が読誦して頂けます。読経の終わりが近づくと施主の焼香となります。その際には、カイシャクが叩かれて焼香用のお経が読誦されます。広い御影堂でカーンカーンと乾いた音が響きます。大法要となるとカイシャクを叩く人はソロ奏者ですから、ある意味大変名誉なことです。ずらりとお坊さんが並んでいる中、少々目立つ位置に出てきて立ったまま美しい姿勢で叩きます。当然選ばれたお上手な方が叩くのですから、御影堂に響き渡るその音は参拝の皆さんに強い印象を残します。私もこの猿まねがしたくて練習しました。難しかったなー。法事などで般若心経を読む時と焼香の読経で、この曲打ちをするようになって2年あまりですが、まだまだ修行は足りてません。それにしても西山の坊さんがやってることは敷居が高い。私にとってはいずれも3,000メートル級の冬山です。何度遭難しかけたことでしょう。

慶宣がやってきた

2010年02月24日

唐戸市場と背後の関門橋.jpg

同行人の中北慶宣君が2月21日に山口へやってきました。学生時代の先輩の結婚式が長崎であったので、聞けば夜行バスで当日長崎入りし披露宴に出席したといいます。「そりゃご苦労さんだったねー」である。披露宴終了後に長崎駅から特急かもめで博多まで行き、そこからは新幹線で厚狭駅までやってきました。長崎を午後5時25分発に乗車したのですが、博多までは2時間近くかかります。博多からは新幹線に乗ると40分位で厚狭に到着しますが、厚狭駅は光が停車しません。こだまに乗車するとなると少々接続が悪くなるので、結局博多到着から厚狭の間で1時間を要します。厚狭に到着したのは8時半前です。本人曰く「こんなに時間がかかるとは思いませんでした」である。事前に調べていたらそんな発言も出ないでしょうが、これも性格です。全然考えていないのです。いかにも慶宣らしいのであります。さて、そんななんだかんだで無事厚狭までやってきたので、車で美祢まで戻りホテルにとりあえずチェックインしたのは9時を回っていました。その後、披露宴でご馳走をしっかり頂いているだろうから、市内唯一の24時間営業のファミレスで質素な(?)夕食を済ませて、再びホテルに送り届けました。「明日は8時半に迎えにくるから、ロビーで待ってて」そう言うと、私は目と鼻の先にある自宅アパートへ帰ることにしました。ところが、自宅のお土産として長崎名物角煮まんじゅんを買ったので保管をどうしようかと言います。なんと冷凍まんじゅうを買っているのです。明日遅くでないと帰宅しないのに冷凍食品だという。これである。しかたないので、自宅冷蔵庫の冷凍室で保管することになりました。これが後々めんどうなことになるとは、その時は思いもしなかったのであります。

さて、翌日は忙しかった。迎えに行くと荷物をとりあえず宅配便で自宅へ発送しておきたいと言うので、クロネコヤマトの営業所へホテルから直行しました。この時、例の角煮まんじゅうをクール宅急便で送るようにすればよかったのですが、うっかり私は忘れていました。本人もまったくそんなことは考えておらず、我々はここでまず最初のミスを犯すのである。その日は終日山口観光であるが、さてどうしたものかと思案した結果、とりあえず山寺を見せてやることにしました。自宅から17㎞位離れている我が光明寺を見て、さすがに慶宣は驚いたようである。「今時こんな寺が残っているなんて」と、口にこそ出さなかったが内心は思ったはずである。ところで我々は西山の現役僧呂です。若いが慶宣もすでに住職です。はるばる光明寺まで来たのですから、本堂で朝のおつとめをすることにしました。本山で毎朝行われている読経一式です。慶宣は大学を卒業した後、師匠(父親)の意向で(たぶん)本山の随身(住み込み坊主修行)生活を一年間過ごしているので、とりわけ朝のおつとめは熟練しています。私が朝のおつとめを他人と一緒に行うのは、本山での講習会に参加していた時以来です。私は随身をしていませんので、本山式の朝の読経に関しては絶対的な経験数が慶宣に負けているかもしれません。しかし、私は本山のおつとめを録音して持ち帰り、何度も聞いて孤独な練習を続けました。だから多少は自信があります。随身後の慶宣と初めて一緒に朝のおつとめをしたのですが、慶宣はさすがに随身しただけのことはありました。実に気持ちよく一緒に読経できるのです。発声のタイミングなどもバッチリ合って実にいいお経になりました。大変満足できた朝のおつとめでした。

山寺で朝のおつとめ後は寺のすぐ近くにある美祢西インターから中国道で下関へ向かいました。山寺から下関の中心街までは35㎞位はありますが、高速を利用すれば実に近いものです。20分弱で下関インターへ達します。そこから5~6分で現在下関観光の目玉施設となっている市立水族館「海響館」へ行けるので、まずここに入館しました。下関は捕鯨基地としてかってた栄えた街です。それでこちらの水族館には巨大なシロナガスクジラの骨格標本があります。少々地味かもしれませんがマンボウの泳ぐ姿が間近に見られるのは貴重かもしれません。それと下関の水族館ですから展示されているふぐの種類の多さは間違いなく日本一でしょう。イルカのショーは私が子供の頃からありました。幼い頃に両親に連れられて、現在とは違う場所にあった旧水族館へ行ったときの懐かしい記憶があります。巨大な魚が泳ぐ大水槽の前に張り付いていつまでも動こうとせず、親を困らせたものです。その頃から魚の泳ぐ姿を眺めるのが大変好きだったのです。

下関市立水族館「海響館」.jpg

移転して新しくなった現在の水族館の周辺、唐戸地区は、近年再開発が行われて実にオシャレで小綺麗な場所です。目の前は早鞆の瀬戸と呼ばれる急流で知られる関門海峡です。対岸は北九州市で、東方向に目を向けると巨大な関門橋を見上げることができます。水族館の東隣には一般向け(観光客向け)の唐戸市場があります。昔はこの市場にふぐが水揚げされていたのですが、手狭になったので、ふぐの市場は彦島の南風泊(はえどまり )市場に移転しました。今では完全に観光客向けの市場に衣替えしています。この市場をのぞくと、慶宣が一番期待している例の「ふぐ」がこれでもかと言わんばかりに陳列してあります。ふぐ卸業者の直営店がずらりと並び、観光客がお持ち帰りや地方発送できるように、高級トラふぐの刺身やちり鍋セットなどが大量に並べてあるのです。土日や祭日ともなると市場内の空きスペースに会議テーブルとイスが並べられて、観光客は市場の直営店で買ったふぐ刺やふぐ汁、そしてふぐのにぎり寿司などをその場で食すことが出来ます。この食べ歩きが一番通好みでおすすめなのですが、この日は月曜なのでテーブル席での粋な食べ方は出来ませんでした。本当は慶宣にこれを経験させてやりたかったのですが残念でした。市場と水族館の間には飲食店やおみやげ店が集まった建物があり、観光客は通常こちらでふぐ料理を楽しみます。それで、仕方なくそれらの飲食店の一軒で早めの昼食をとりました。ついに慶宣お楽しみの本場下関のふぐコースです。地元の人間にしてみれば、ここにある飲食店は決して安いとはいえませんが、それでも本格的な料理屋で頂くよりはお手軽ですしその分安価です。味だってほとんど変わりません。仕入れ先は高い料理屋と一緒なのですから。

唐戸市場直売店.jpg

早めの昼食の後は、全国に流通するトラふぐの8割強を取り扱う彦島の南風泊(はえどまり)市場まで行き、市場の前にずらりと並んだいけすに大量のトラふぐが泳いでいるのを慶宣に見せました。「ほら、ここに泳いでいるのがセリで一匹1万円はするトラふぐだぞ、これだけ大量に泳いでいるんだから全部勘定したらいったいいくらになると思う?」などと、いかにも貧乏人くさい話をしてそこを後にしました。

再び高速で美祢まで帰ります。今度は美祢市唯一の観光資源ともいえる日本一のカルスト台地、秋吉台(あきよしだい)へ向かうことにしました。その際に、食いしん坊の慶宣のリクエストで王司パーキングエリアに立ち寄って、ふく天うどん(ふぐの天ぷら入りうどん)を食べることをもくろんでいたのですが、立ち寄ると改装工事中でなんと食事が出来ません。またまた失敗である。仕方なく一路秋吉台を目指しました。秋吉台の地下にある秋芳洞(あきよしどう)は一般公開されている鍾乳洞としては、これまた日本一の規模を誇ります。下流の入口から上流の出口まで1時間弱の地底探検の旅となります。地元の人間は当然一度は訪れている場所ではありますが、逆に何度も行くところでは無い場所ともいえます。私も洞内に入るのは何十年ぶりでしょうか。たぶん大学卒業直後に、同級生が遊びにきたとき以来だと思います。 友人や親戚、会社の関係者や取引先への接待などでけっこう案内したことがあるのですが、まず車で行くことになるので下流の入口で見送って、自分は上流の出口側へ車を回して出てくるのを待つことが常でした。個人で訪れて下流の入口から入場し上流の出口側から出ると、再び車を止めた下流へ戻るのはめんどうです。タクシーで戻りたくなります。だから個人の場合は鍾乳洞内を最上流まで行ったら引き返すのが一般的なのですが、これがけっこう時間がかかります。今回は慶宣一人に上流の出口まで歩かせるわけにも行きませんので、下流の入口から一番奥まで行き引き返しました。さすがに少々疲れました。

秋芳洞観光の後は、秋吉台の広大なカルスト台地を南北に縦断する県道(昔は有料道路だった)を北上し、そのままついでに萩市まで足を伸ばしました。秋吉台からだと約32㎞です。山口県は見事な田舎ですが、歴史的な背景もあって総理大臣を数多く輩出しています。だからその恩恵でしょうか、昔から道路が異常に良いのです。信号機なんてわずかで渋滞知らずの立派な道路が縦横無尽に県内を走っています。だから車での移動は効率が良いのです。萩は長州藩の城下町でした。ですから今でも土塀が連なる武家屋敷跡が数多く残っており、なかなか風情のある街です。特別な見所があるかと聞かれると少々困りますが、歴史好きの人がのんびりと見て回るには良いところです。萩に慶宣を連れて行ったのは、実は毛利家の菩提寺であった古いお寺を見せたかったのです。大照院という臨済宗南禅寺派のお寺です。萩藩主の菩提寺はもう一カ所あります。めずらしい黄檗宗の東光寺ですが、市内中心部に近くて観光客が訪れるには都合がよいのでこちらの方が少々有名です。大照院はちょっと隠れた形になっていて意外と知られていない寺です。観光バスだと立ち寄りにくい場所にあるので、そうなってしまうのでしょう。

さて、お殿様の菩提寺というものは普通の寺とは決定的に違うところがあります。それは一般的に書院といわれる建物、要するにお殿様がお寺で葬儀や法要等を行う際に、殿様自身や法要に参列した大勢の人々が休憩したり飲食を行う場所が立派なのです。もちろんお殿様の菩提寺ですから本堂も立派ですが、本来付随の施設である庫裏(庫裏における応接室が書院である)が思いっきり広く、場合によっては本堂よりも大きくなるのが特徴です。大照院もごたぶんにもれず書院が実に広いのです。前述のとおり現状では観光客が大挙するような寺ではありませんので、実に静かな場所で穴場です。建物は山寺光明寺とほぼ同じ江戸中期に再建されたもので実に古めかしいものです。まさに当時のままの姿で残っています。裏庭に回り本堂の背後を観察すると雨漏りしないだろうかと心配になるほどです。しかしその格式の高さや各部の作りの丁寧さは流石に萩藩主の菩提寺です。建てられてからの年数だけなら山寺光明寺も大して変わりませんが、まさに月とスッポンです。実に格調高く見事なお寺です。しかしこれだけのものを維持管理していくとなると、寺の財源だけでは不可能なことも明らかです。大照院の楼門(二階建ての立派な寺の門)は国指定の重文です。昨年修復工事が行われ実にきれいになっています。修復前の状態を知っていますので「税金でこんなに立派にしてもらえるんだー」などと、山寺の坊さんは少々びがんでしまいます。

大照院墓所.jpg

境内の南端には歴代萩藩主の墓所があります。東光寺とこの大照院に分けられて萩藩主のお墓が建立されているのですが、こちらの方が多くなります。(実質上の初代藩主である輝元の墓所だけは、明治初頭に廃院になった天樹院跡にあります)お殿様のお墓があるのですから家臣のお墓も多数集まっています。手つかずの森に囲まれたその墓所は往時の姿を今も保っており、周囲の景観も含めて実に貴重なものです。国指定の史跡なのも当然でしょう。毛利家の菩提寺としては長府藩(萩藩の支藩)の菩提寺であった巧山寺が、この大照院や東光寺よりも観光寺としては賑やかで有名かもしれません。しかし、藩主の墓所としてはこちらの方がスケールも大きい(本藩だから)し、状態も見事に古いままで残っています。明らかにこちらに軍配が上がると思います。これを慶宣に見せたかった。ところが、残念なことにその日はもう拝観受付が終了だったのです。立派な楼門をしげしげと眺め、古めかしい庫裏の正面玄関前から土塀ごしに本堂の屋根を眺めることしか出来ませんでした。毛利家の墓所へ続く入口は一応柵が閉じられていました。入れないことはありませんが、無視するわけにも行きませんのであきらめました。まだ4時過ぎだったのに入山終了がちょっと早すぎるんじゃありませんか?

萩まで足を伸ばしたのですが慶宣の帰りのことも考えなくてはならないので、その後は新山口駅へ向かうことにしました。慶宣は新幹線に乗る前にもう少しおみやげを買うといいます。それで、新幹線口の物産店街で山口のお土産として全国に誇れる(であろう)商品を推奨しました。慶宣は名古屋人ですが、名古屋名物というと「ういろう」というのがあります。しかしこと山口県民にとって「ういろう」といえは、昔から「豆子郎」という名前の山口のういろうの方が絶対に美味しいと考えています。それで、あえてそれを勧めました。次に勧めたのは「焼きぬきカマボコ」です。防府の老舗かまぼこ店が発祥といわれる「焼きぬきカマゴコ」は、現在は長門市の仙崎で盛んに生産されています。一般的な蒸しカマボコと違ってプリプリの食感が身上です。お勧めの食べ方は板わさです。板から外したカマボコに一本の切れ目を入れ、そこに大葉(青しそ)とわさびをはさみ込みます。それを1㎝くらいの厚みに切って醤油でいただくのが最高だと思います。私はまったく飲みませんが(飲めないわけではないのでお付き合いは出来る)左党の方には最適な肴です。山口県では飲み屋でこれがよく出てきます。カマボコは宮内庁御用達として一番の老舗である「白銀」を勧めました。杉本利兵衛本店という名店から出ている商品で、食通の間ではマストアイテムです。そして、とどめはふぐで有名な山口ですからふぐ刺と行きたいところです。しかしあまりにも高過ぎるので、ふぐ茶漬けを買って帰るのがお手軽で実用的だと考えて勧めました。

買い物が済み新幹線の発車時刻まで少し時間があったので、我々は夕食をとることにしました。その時、慶宣が突然思い出したように言うのです。「あー角煮まんじゅうどうしよう」「しまったー」です。私はすっかり忘れていました。結局翌日クール宅急便で送ることになりました。下関では通好みの食べ歩きである、唐戸市場のテーブルでふぐをがっつくというもくろみは果たせず、ふぐ天うどんは食べられずじまい。大照院ではタッチの差で入山出来ませんでした。とどめは角煮まんじゅう事件である。やれやれさんざんな一日でありました。しかし久しぶりに慶宣と読経した礼賛偈は実に気持ちよかった。ありがとう慶宣。もしもまた山口へ来る機会があったなら、次はしっかり時刻表を調べてから来るようにしましょうね。

本当の他力本願

2010年02月21日

雪の光明寺境内.jpg

我々日本人は、ほとんど意識することなく仏教用語をよく使っています。他力本願という言葉も仏教からきた言葉です。浄土教にとっては特に重要な言葉でが、我々は日々の生活の中で、この言葉をたいてい良い意味には使いません。私もそうでした。他人の力をあてにして自分は努力しない行動、いわば人として少々恥ずべき行動を、自嘲や非難する言葉として使用していました。しかし、仏にしてみればそれは大間違いです。仏教のいう他力とは阿弥陀さんの救済力のことです。本願とは、我々のように煩悩から離れることのできない哀れな衆生だからこそ、「南無阿弥陀仏」と称えたならば必ずや極楽にすくい取ってやろうという、そんな仏の強い願いをさす言葉です。だから、我々が自分のいい加減な行動を弁解するためや、人任せの行動を非難するために用いるのは本来の意味とは違います。

しかし我々は凡夫です。この世に生きている以上は「自分はまじめに生きてる」「あいつはろくなヤツじゃない」「あいつは立派だ」「おれはつまらん人間だ」などと、いろいろ比較して他人を見下したり卑下するものです。そういう時に、この他力本願という言葉を使いたくなるものです。「方丈さん、悪いヤツはやっばり悪いし、自分は善人とはいわないけどそれほど悪人とは思わんのだけど」と、いわれることがあります。確かにそうですね。娑婆の世界ではそう考えるものですし、それで良いのです。そのために阿弥陀さんがおられるのだし、本当の「他力本願」があるのですから。だからそれがダメだといはいいません。ただ他人のことをいう前にまずこの自分はどうなのか?を忘れないことです。回りのことは本来関係ないのです。肝心なのは周囲や他人との比較に自分の心が囚われる(執着する)あまり、「結局自分の人生を不幸なことにしてはいませんか?」です。だから自分の為にちょっと立ち止まって、自分自身のことを冷静に考えてみれば良いのです。

確かに世の中には良い人もいれば悪いヤツもいます。しかしそれは我々娑婆の世界に生きる人間の価値観であり、順位づけでしかありません。仏の立場から見ればどいつもこいつもみな一緒です。いずれも悪人であり哀れな存在なのです。西山上人が鎮勧用心で述べられた「いたずらに機の善悪を論じて仏の強縁をわするることなかれ」は、実に深い示唆であります。娑婆の世界の価値観で、あえてこの「他力本願」をとらえるとするならば、他力とは私を助けて下さる周囲の人々の力のことです。本願とは私をなんとかしてやりたいと思う人々の願いを指し示す言葉となるでしょう。親兄弟や家族、職場の同僚や友人、場合によってはまったく赤の他人の場合もあるでしょう。あなたの知らないところで、あなたの為になることをと一生懸命やってる人だっているのです。だから娑婆に生きる我々凡夫にとって現実的な「他力本願」とは、「この私を支えて下さる人々のお力で」と、とらえてみようではありませんか。仏教のいう「お陰様で」という言葉と、非常に近い関係の言葉なのだと知って頂きたいのです。

我々は今後も「他力本願」という言葉を、やっぱり本来の意味とは違う娑婆世界での価値観で使うことでしょう。私も多分そうだと思います。でも本当の意味も意識しておいた上で使って行きたいものです。そういうことが、今生きているこの世界でもちょっとは救われることになるかもしれません。

藤井家の荘厳

2010年02月18日

ショウゴ.jpg

現在責任総代のお一人、藤井 昭さんのお宅で昨年秋におばあちゃんの17回忌法要を務めさせて頂きました。その法要を行うにあたり、きく代さん(奥さん)から事前に「これに間に合うようにお仏壇を新調しようかと思うのだけど」と相談がありました。仏壇屋さんが聞いたら喜んで飛んでくるような話です。でも藤井家のお仏壇はまだそんなに古いわけでもないし特に傷んでもいません。唐木ですから大きな傷でもつけない限り全然問題ありません。「もったいないから仏壇本体の更新ではなく、仏具や荘厳(飾り付け)の更新や追加をすればいいんじゃないですか?」とお答えしました。そもそも「仏壇を更新しようかな」と言われているのですから、それなりの予算は考えておられるはずです。「仏具を良いものに更新されれば藤井家末代の物になりますよ」とお勧めしました。藤井家のお仏壇はおばあちゃんの代に仏壇本体が更新されているようです。仏具は仏壇を購入した時に更新される事が多いのですが、藤井家では本体だけが更新されているようで、少々不都合がありました。それで、具足(香炉・燭台・花瓶など)と読経に使用する道具(鐘・木魚など)の更新を優先して頂いたのです。仏壇内部をより華やかに荘厳するために、気の利いた瓔珞(仏壇の内部にぶら下げる飾り)と常華(金塗りの蓮華)を追加し、宗紋が刺繍された打敷(仏壇内部に掛ける金襴の敷物)も追加することにしました。経机は少々傷んでいましたのでこの際気の利いたものに更新することにしました。仏壇本体は悪い物じゃないのですから、こうすれば実に立派な荘厳です。

さっそく住谷仏壇の千々松さんに、「絶対に仏壇本体を勧めたらあきませんよ」と重々念押し(営業妨害かも?)した上で、私が独断と偏見で勝手に選んだ(自分が払うわけじゃないから遠慮しなかった)商品を携えて藤井家を訪問してもらいました。私がおすすめした具足は立派なものです。これなら末代まで使えるでしょう。こういう良いものなら年月がたてばますます風格が出るというものです。古くなって表面が傷んでも塗り替えれば良いのです。それだけの値打ちがあるのですから。読経用の鳴り物も私の方針(?)で、鐘(リン)を本格的なものにしてもらいました。お寺の大きな鐘(キンス)と同じ様式です。一般家庭用としてはかなり大き目です。正式な台に乗っかっていますので、叩きやすく実にいい音で鳴ります。ただし、正直なところじゃまになるとは思います。しかし、こういうしっかりした鐘(ほんとどキンスと呼べるしろもの)が仏壇の前に置かれていると、訪れた人はそれを目にしただけでその家の仏様への姿勢に敬意を表することになるでしょう。豪華な仏壇(それ自体は悪いことではないのですが)よりも、こんな所にこだわった荘厳のお仏壇が私は好きなのです。以前(12/7見栄の仏壇と篤信の仏壇)という話を書きましたが、まさにその方針で荘厳して頂くことをお勧めしました。ありがたいことに、藤井家では私が選んだ物をそのまま購入して下さいました。おかげさまで、年回忌法要の際には実に気持ちよく歌わせて(礼賛偈)頂きました。ありがとうございました。

ご当主の昭さんはとても温厚な人です。一方奥さんは明るくてチャキチャキな方ですから、実にうまいことバランスの取れているご夫婦です。藤井家の荘厳が更新されてしばらくすると、きく代さんが「方丈さん聞いてくれる?主人が時々この鐘を叩いて拝むようになったのよ、おかしいでしょう?以前はそんなこと全然なかったのにねー」なんて、笑いながら話して下さいました。「しめしめ思惑通り」であります。とにかく仏壇を豪華なものに変えれば良いってものではありません。しかしある程度こだわるのも悪くないと思います。人は具足や仏具だけでも、それなりのものにすれば気になり出して大切にするようになりますからね。まして全体の調和も考えて過不足なくきっちり荘厳されたお仏壇は、眺めているだけでもとても気持ちのいいものです。結局それが先祖や仏を大事にすることに繋がります。仏壇屋にとっては仏壇本体が売れた方が金額が張るので嬉しいとは思いますが、こういうのが賢いお金の使い方だと思います。揃っている家は限られる、ふせ鐘(ショウゴ)もこの機会に購入して下さったので、これで檀家さんの仏壇としては完璧です。私は今後こちらで法要を行う際には、仏具をあれこれ持参しなくて済みます。あー実にありがたい。「南無きく代菩薩様」であります。(決定権は奥さんが握っているお宅ですから、その奥さんが一番ありがたいのである。昭さんすみません)

発願文の心で生きる

2010年02月14日

発願文.jpg

元旦に掲載した『総本山光明寺のおつとめについて』で、「香偈・三宝礼・四奉請」という三つのお経(偈)が、メインの経典に入る前に読誦する三点セットのお経(詩偈)だとご紹介しましたが、これに対して、終わりに読誦する三点セットのお経が「四弘誓願・三称礼・送仏偈」というお経です。

四弘誓願は日常の仏道修行の基本となる菩薩道の誓いを示す詩偈で、宗派を超えて用いられています。三称礼では六字名号(南無阿弥陀仏)を称えながら礼拝を行います。おつとめの冒頭に「三宝礼」で三度の礼拝を行いますが、それに対する結びの礼拝がこれです。送佛偈は法要開始時の「四奉請」に対して結びの句として用います。四奉請で招へいした仏を見送るお経(詩偈)です。ところで、我々の宗派では、この結びの三点セットの前に「発願文」というお経(偈文)を常用しております。発願文は臨終の時の心の用心を示し、往生のありようを示唆する偈文です。この偈文が個人的に大変重要だと考えています。それで、本日はこの発願文について書いてみます。あくまでも私見ですが、そのつもりで読んで頂けたら幸いです。本題に入る前にまずは発願文の現代語訳を掲載します。

発願文(現代語訳)
仏道の友よ、命の終わる時がきたならば、つぎのことを願おうではないか。心うろたえることなく、心の錯乱することなく、心を失うことなく、心身に苦しみ傷むことなく、心身は安らかにして、心は安定の状態に入り、目の前に仏・菩薩らのお迎えを頂きたい。そして阿弥陀仏の救いの願いに乗って勧経に説いている上品上生の往生人のように生まれさせて欲しいと。無論、かの国に生まれ至ったならば、そこで得た偉大な能力をもってこの世の苦しむ人々に救いの手をさしのべようと思っています。このわたしたちの願いは、宇宙の空間が限りなく広がっているように尽きることはありません。このように発願いたしました。心より阿弥陀仏に帰命いたします。

前半はまさに臨終の際の心の用心そのものです。人間にとって「死」は永遠の苦です。だから仏教の説く八大苦の一つになっています。しかし現代人は意外と平気かもしれません。なぜでしょう?きっと自分の死を想像することが難しいからです。今日核家族化が進み、人の死に直面する機会は限られるようになりました。命の炎が燃え尽きる瞬間を見届けることはまれです。結果、死の現場に直面する機会が限られるようになった現代人は、「死」に対する恐怖心がずいぶん薄れています。そもそも死後の世界を見たことがある人はいませんし、自分の命がいつ終わるのかも解りません。今日かもしれませんし何十年も先かもしれません。だから、「死」の苦しみを大して気にすることもなく生きて行けるのでしょう。でも、みなさんが、もしも余命数ヶ月だと宣告されたらどうなると思いますか?流石に恐怖を覚えるのではないでしょうか。死と直面するのは恐ろしいことです。しかし、もしもの話ではまだまだ手ぬるいのです。実際に死と直面した人にしかその恐怖は理解できないでしょう。本当に自分の命の終わりが決められてしまったら。その時、人はもがき苦しむことでしょう。個人差はあるでしょうが、平常心でいることは極めて困難です。場合によっては発狂しそうになるかもしれません。だからこそ「一度きりのこの命を大切に生きようではないか」と、発願文は臨終を迎える心がけをまず語るのでしょう。その偈文を口にするということは常日頃から自分に言い聞かせることなのだと思います。

さて、発願文の前半部分はこれくらいにします。実は後半に遠回しな表現ではありすが、非常に重要な浄土教の思想がこめられていると私は解釈しています。浄土教では、「人が亡くなると阿弥陀仏が迎えに来て下さり、極楽世界へ連れて行って下さるから大丈夫ですよ」と説きます。そして、「だからこそ今頂いているこの命を大切にしてしっかり生きてまいりましょう」と説きます。浄土教は阿弥陀仏がいらっしゃる極楽世界に生まれること(往生)を、いわば目標にしています。それを前提にして発願文の後半部分を読むと、私にとっては意外というか少々解りにくいことが書かれていました。曰く、「かの国に生まれ至ったならば、そこで得た偉大な能力をもってこの世の苦しむ人々に、救いの手をさしのべようと思っています」とあります。「かの国」とはもちろん極楽世界のことですね。そこに生まれたら(往生したら)、そこで得た偉大な力(仏の救済力)で、この世の苦しむ人々に救いの手をさしのべようといいます。ここで私は少々悩みました。「これは、どういうことを言っているんだろう?」です。人は極楽世界に往生することで、欲からようやく離れられ悟りに達することが出来ます。すなわち仏になれるのです。素晴らしいことです。ある意味最終的なゴールであり、それで良いじゃないですか。ところが発願文は仏になったらなったで、今度は「この世で苦しむ人々に救いの手をさしのべるようにしようではないか」といいます。しかし、「この世の苦しむ人々に救いの手をさしのべるには、極楽世界にいては無理でしょうから、それだとこの世に再び返らなくちゃいけないのでは?」と、私は思ったのです。本来、極楽で仏となった人間は、永遠の命を授かりもう二度と死ぬことは無いはずです。六道輪廻の世界から離れ極楽へ生まれることが「解脱」であり「悟りの世界」へ入ることです。そうだとすると、せっかく極楽に往生して仏になれたのに、あえてこの世に帰ろうといっていることになります。永遠に死なないはずの(転生しないはずの)仏が、再びこの世に生まれることを目指すことになるのです。解りにくい話です。ひよっとすると例の「方便」(2/3嘘も方便)というやつかもしれません。その思いが胸の中にくすぶっていました。その後「二種回向」という言葉を知り、私のもやもやは徐々に晴れてい行きました。

大乗仏教では、娑婆の世界に生きる我々凡夫は、本当の善行(正しい修行)を積む事は出来ないと考えています。だから悟りに達することは出来ないのです。本来我々凡夫が功徳を積むことは非常に困難なのです。特に浄土真宗さんにおいては、この考え方が徹底しています。しかし、このことをあまりにも強調すると、「功徳を積む行為なんて不要じゃないか、そしたら仏さんを拝む行為やお寺に参ることも不要では?」と曲解されかねませんので痛し痒しです。とても重要なのですが実に難しい。私たちを浄土に生まれさせるほどの功徳を授けて下さるのは阿弥陀仏だけなのです。我々が極楽に往生出来るのは、阿弥陀仏が我々に成り代わって功徳を積まれ(我々凡夫には出来ないのだから)、それを私たちに回し向けて下さる(これを回向という)からだといいます。我々凡夫は阿弥陀仏から回向されることによって、極楽(お浄土)に生まれ変わり悟りを得る事が出来るのです。

その阿弥陀仏の回向には二種類の回向(二種回向)があります。それが「往相回向(おうそうえこう)・還相回向(げんそうえこう)」です。「往相回向」とは「往生浄土の相状」の略で、自分の善行功徳を他のものにめぐらして、他のものの功徳として、共に浄土に往生しようとの願いをもととして説かれるといいます。「還相回向」とは「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生したものを、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いをいいます。この利他のはたらきを、浄土真宗においてはもう一歩踏み込んで、浄土への往生(往相)も阿弥陀仏の本願力によるのであって、阿弥陀仏がたてて完成した万徳具備の名号(南無阿弥陀仏)のはたらきによるとし、名号を回向されるといいます。よって往相・還相ともに阿弥陀仏の本願力として、仏の側から衆生に功徳が回向されるものとし、これを「他力回向」といっています。我々西山派においても基本的な考え方はほぼ同じです。もう少し解りやすい表現をすると、往相回向は我々凡夫が阿弥陀仏の本願力によって救われて極楽へ往き仏となることです。還相回向は、極楽へ往き仏となった私たちが阿弥陀仏の大いなる願いに導びかれて、ふたたびこの世界に戻って来て人々を救済する(いわば阿弥陀仏のお手伝いをする)ということです。実にややこしい考え方ですが、浄土教にとっては大変重要な思想です。発願文の後半部分では、この二種回向の思想が述べられているのだと考えています。

さて、発願文を私なりに追求すると、結局それは菩薩道に落ち着きます。例えば、世間には人々のために生きている素晴らしい人がおられます。そういう人を世の人々は「菩薩のような人だ」と呼んだりします。そうい人は世のため人のための生き方、すなわち菩薩道の実践者です。たぶんそういう人は極楽界からこの世界へ生まれ変わって来たにちがいありません。きっと還相回向の人なのです。この考え方を我々にも適用してみましょう。貴方もこの私さえも、ひょっとすると極楽からこの世界に戻ってきた人間なのかもしれません。残念ながら娑婆の世界に戻った際に、自分の前世が極楽界の住人であったことは忘れているのです。人は娑婆に生まれると欲から離れられなくります。それで、我々はこの世に命を受けてより、常に諸々の悪を作り罪を重ねて生きるしかない罪深い存在なのです。しかしなぜか時々いいこともします。人の為に損得抜きの行動をしていませんか。そうでしょう?なぜでしょうね。それは我々凡夫でも「還相回向の人なのかもしれないからだ」と私は考えました。忘れてはいるけど心の底のどこかに仏性があるからなのだと思うのです。

二種回向のことが解って来ると、お念仏の教えを頂いた私たちは、弥陀の本願力によってこの世とあの世(極楽)を行ったり来たりしている可能性が見えて来ます。そう考えると「今頂いているこの命を大切にして、この世で苦しむ人のために使わなくちゃ」と思うのです。だから菩薩道なのです。大乗仏教あるいは日本仏教が一番大切にしている利他行の実践です。自分だけでなく他の幸福を願う生き方です。発願文は「臨終の時には阿弥陀さんが迎えに来てくださるから、それまではしっかり菩薩の生き方をしましょうね」と教えているのだと受け取っています。

ところで昨日は柳井家で政人さんの三回忌法要を勤めさせて頂きました。2年前の満中陰法要ではとりわけ記憶に残る経験をしております。法要の際に私は発願文について少々講釈をたれさせて頂いたのですが、当然、前記の二種廻向についてもお話をさせて頂きました。私の下手くそな法話ですから、皆さんにどの程度理解して頂けたかは解りませんが、ご親族の中に、とりわけ私の話に深くうなずかれるご夫婦がおられました。食事の際にそのご主人と親しくお話をさせて頂いたのですが、こう切り出されました。「実は私はもうこの世には、いなかったかもしれん人間なのです。数年前にガンで余命数ヶ月だと宣告されました。それが奇跡が起こりまして、ほぼ全快に近い状態にまで回復し、こうして今も命を頂いております。もちろんまだ油断はできませんが、残りの人生はいわば2度目の命です。方丈さんの本日の発願文のお話は、死を一度覚悟した私にとっては身につまされる言葉でした。今日のご法話は私の心に深くしみました。まさに今後の人生の指針となるお話でした。仏さまから頂いたこの命です、私なりに精一杯大切にして生きて行きたいと思っております」そう話されたのです。

ご親族の中に、そのような体験をされている方がおられたとは。本当に驚きました。そのご主人は警察官であったそうです。失礼ながら警察と聞くと、昨今不祥事が表に出てくることが多くなりましたから、少々良い印象を持たない方もおられるかもしれませんね。そもそも強大な権力の座に安住している人間は、よほど己を常に厳しく律していないと堕落しやすいものです。しかし、そのご主人はまさに菩薩の相を持たれていました。この方が警察官であったとは。むしろ意外に感じました。そして、そのご主人と、翌年の一周忌でお話した際には少々不安な言葉を賜りました。「最近検査データーが少々悪化しておりまして再発の可能性が高いのです」といわれます。「この次はお会いできるかどうかわかりませんが私なりに精一杯生き抜いてみようと思っています」と話されていたのです。そのことがとても気になっていました。それで、昨日は柳井家を訪れた際に、真っ先にそのご主人の顔を探しました。幸いなことにいらっしゃいました。無事再会することが出来たのです。お話を聞くとやはり再発があったそうです。しかし、それも見事に克服されて現在体調も良いとのことでした。本当によかった。

悟りと諦めはお友達?

2010年02月12日

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真面目なお坊さんが仏道修行を積んで目指すのは「悟り」です。この悟りというものが、未だに頭の中が「在家の人」の私にはとても解りにくい課題です。悟りとは欲から離れることでしょうが、それは「あきらめる」という事にとても似ていると思うのです。「私は悟りました」と言えば格好いいですね。ところが「私は諦めました」と言うと、とてもダメな人みたいに聞こえます。そう思う私が悪いのかもしれませんが、私にしてみればどまでが諦めでどこからが悟りなのかよう解りません。「誰か教えてくれんかなー」と思ってしまいます。まるで「ニワトリは卵が先か親が先か」みたいな話で、迷路にはまってしまいそうです。

在家の人の頭で考えると、どうしても「諦める」という言葉には少々後ろ向きな印象があります。明鏡国語辞典を開くと〃あきら・める【諦める】望んだことの実現が不可能だと思って、望みを捨てる。思いを断ち切る。断念する。また、仕方のないことだと知って、その事態を甘んじて受け入れる。受容する。観念する。諦観(ていかん)する。「進学をきっぱりと─」「優勝は潔く─・めた」「かなわぬ夢だと泣く泣く─」「母の死は運命だったと─」「すべてを神のおぼしめしと─」◇「明らめる」と同語源〃とあります。それを眺めていた私は一番最後の「明らめる」と同語源という記述にはっとしました。〃あきら・める【明らめる】〔古い言い方で〕はっきりとさせる。明らかにする。「事の真相を─」 あきら・む〃です。諦めるという言葉は「明らめる」でもあったのです。こっちの「あきらめる」は少々前向きに感じられます。はっきりとさせる明らかにするのだというのですから。

そこで私は少々考えました。「何を明らかにするんだろう?」です。そして、もしかしてそれは「執着ですか?」と思いました。死にそうになるほど苦行に励んでいたお弟子さんに、お釈迦さんが「死ぬほどやっても意味ありませんよ」といわれたあの逸話(2/3嘘も方便)を思い出したのです。そのお弟子さんは悟りを得たい思いが強すぎて、「執着」に捕らわれている自分に気づいていませんでした。だからお釈迦さんは「死ぬほどやっても意味ありませんよ」と言われたのですが、それはいわば「明らめなさい」と諭されたのだと思います。そう考えると「あきめる」という言葉も、けっこういい言葉に聞こえてきます。真実を明らかにするのですから、めちゃ格好いい言葉じゃないですか。明らめるとは意味のない努力、すなわち「執着」から離れることになります。だから「あきらめる」という言葉は「諦める」ではなく、「明らめる」として聞くようにしようかなと思います。そう考える事にしていれば「あきらめました」と口にしても、それを手放すことは無いってことです。執着するのではなく淡々と続ければいいのです。「私は執着から解放され、今後はのびのびと精進を続けて行くことにしました」の意で、この言葉を使ったみたいものです。

私にもできるかも

2010年02月11日

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仏教では「欲を捨てなさい」とよくいいます。欲(執着)は自分を苦しめるだけですから、それを無くすことができたら「楽になれますよ救われますよ」と教えます。でも、我々は完全に欲を断つことはできませんよね。「娑婆の世界とは己の思うようにはいかない世界だ」と、『12/20ギター三昧の顛末』の結びにも書きましたが、この世(娑婆世界)に生きている限り、我々は「ああしたい、こうなりたい、あれが欲しい」から離れることは出来ないものです。だから凡夫というのです。この私も絶対に出来ないのです。欲から離れられたらお釈迦さんです。それで、大乗仏教では「少欲知足」という考え方を説きます。

大乗仏教の「小欲知足」は、欲を少なくして(全部捨てろではない)足りる(これくらいでも足りてるな)を知ろうです。ちょっと欲を少なくすることが出来たら、「あなたは執着から解放されて幸せに生きられますよ」と教えてくれています。人は「あーまだ足りない」「もっと欲しい」を続けていたら、永遠に不幸(苦)から解放されません。しかし「これくらいで足りてるなー」「今くらいでもいいんじゃないか?」と思えるようになったら、その時点で苦から解放され幸せになれます。だから大乗仏教は「そう考えるようにしてみませんか?」と説くのです。それで私も、それだったら「もしかしたら出来るかも?」と思ったりするわけです。実際にはこれでもけっこう大変なんですけどね。でも、まず「出来るかも?」と思うことがポイントです。くどいですが完全に欲から離れることができたら、それは仏になったことになります。生き仏です。我々凡人は亡くなった時にしか出来ません。これが仏教のいう「涅槃」であり、だから亡くなっ人を「仏さん」と呼ぶわけです。娑婆に生きている以上、欲を完全に捨てることは出来っこないのです。そう言う事実を認めた上で、皆さんに少しでも幸せに生きて欲しくて、大乗は現実的な方法論として「少欲知足」をおすすめしているのです。

坊さんになってそのことを知ったので、私もちょっとその気になって「出来るかも?」と思ったりします。実際に出来る出来ないはともかく、これはとってもいいことです。私の好きな言葉に「意識が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変わると人格が変わる、人格が変わると人生が変わる」という言葉があります。「かも?」と思うのは、いわば気づき、きっかけです。ちょっと意識が変わりはじめる瞬間なんです。私にしてみれば「かも?」と思った時点で、すでに仏のおしえの功徳を頂いているのだと思います。人間、何かきっかけがないと行動を起こさないものです。真っ正面から「欲を捨てなさい」なんていわれたら、誰だって敬遠します。でも「...してみたら?」といわれて「そうかなー?」ぐらいだったら、たいして抵抗がありません。それでちょっと意識します。(すでに意識が変わりつつある)すると行動が変わるかもしれません。そしたら、もしかしたら人生が変わるかもしれんのです。だから最初の「かも?」は大切です。

大乗は少しでも多くの人に、悟りの世界行きの大きな船に乗ってもらいたいので、そういうスタンスで仏の教えを説きます。難しいことはあまり言いません。だって「全部捨てろ」では、はなっから話にならんでしょう。ところが「小欲知足」なら私でも出来るかもしれません。ほんのちょっぴりでも欲を減らすことが出来たら、もう自分は昨日の自分とは違います。少しいい人になったみたいな気がします。少し救われた気持ちになれます。お金もかかんないし、そういうことなら「やってもいいかも?」と思えたりします。これこそが大乗がまず狙っていることだと思います。仏教は葬式や法事の時だけではありません。仏の教えとは哲学であり思想でもあるのです。人生をいかに豊に生きるかをテーマにした便利なガイドブックみたいなものです。そう考えると、わけのわからんあのお経もありがたく聞こえて来るものです。

流祖西山上人は「機根つたなくとも卑下すべからず...いたずらに機の善悪を論じて仏の強縁を忘るることなかれ」と、申されました。しょせん、私は欲から離れられない凡夫(機根の劣る者)です。でも卑下することはありません。そんな私でも仏に救って頂けるのです。(仏の強縁で)そのことに感謝して、やれ出来るいや出来ないなどと言って(機の善悪を論じて)いないで、私は私なりに出来ることをすれば良いのです。ほんのちょっぴりでも欲を少なくすることが出来たら、それでいいじゃないですか。いや「してみようかな?」と思うだけでも「ちょと成長したんじゃないか?」と思うのです。そんな自分をほめてやりましょう。そうでもしないと誰もほめてはくれませんからね。

長田家伝来十一面観音秘話

2010年02月08日

光明寺の大イチョウと背後の城山.jpg

一昨年まで責任総代を務めて頂いた長田雅太(おさだまさた)さんの自宅は、光明寺のすぐ北隣です。往時には砦が築かれていたといわれる城山のすぐそばです。代々光明寺の責任総代を努めて頂いており、現在の社長で三代目です。長田さんは長田設備(水道工事店)の経営者です。それで、私はいつも「社長」と呼ばせてもらっています。平成19年の2月に、その社長のお母さんがお亡くなりになりました。ご主人の命日と同じ17日で、不思議な巡り合わせでした。お葬式は光明寺本堂で行いましたが、とても寒い日だったのをよく覚えています。お母さんが亡くなられたこともあり、長田家は仏壇を住谷仏壇で新しくされることになりました。住谷の千々松さんのお兄さんと社長は旧知の仲だったのです。古い仏壇は私の手で撥遣供養(お性根抜き)の儀式を行い、光明寺境内で焼却して丁重に供養致しました。その一連の過程がきっかけとなり、私は長田家の歴史を知ることになりました。

長田家には社長のおじいさんが残していた先祖の記録がありました。それで、この機会にもう一度きちんと調査してみることにしました。社長本人の記憶やご兄弟の話も参考に、残っていた記録や古い仏壇にあった繰り出し位牌や墓石などを丹念に調査し、過去帳とも照合しました。その結果、長田家は約240年位前にこの地に居を構えた可能性が高いことを知りました。最初に現在の場所に来た幸助さんは、豊田町の西市にあった紅屋という大店とのつながりが深く、100回忌にはそこより特別な焼香があったことなども解りました。しかし、長田の歴史は本来そうとう古いようで、平家一門の末裔であることも解って来ました。実は山寺の檀家さんには、集落の全てが光明寺の檀家であり、氏は違っても家紋はすべて同じという地区があります。山中に入りこんだ隠れ里のような場所で、平家の落人伝説が伝わっています。長田家の家紋もその地区と同じものです。現在の場所に居を構えた幸助さんの時代は、約240年前に現本堂を傳空上人が再建し、光明寺がある意味もっとも栄えた時代です。背後の草場山へ続く長田家の山林は、光明寺の八十八霊場の森と隣接しています。その中腹には往時より長善庵と呼ばれる場所があったそうです。長田家の隠居屋敷と氏寺(?)を兼ねたような場所であったようです。そこには幸助さんから続く先祖代々のお墓がありました。長田家に残る先祖の位牌にはいずれもこの長善庵埋葬と記載されており、明治初期まで長田家代々の墓所でした。

さて、この地に移って来た当初の長田家は光明寺の檀家ではありませんでした。ところが、あることがきっかけで光明寺へ転宗していたのです。その理由ですが、お母さんが亡くなり古い仏壇を整理していた際に出てきた仏像が鍵を握っていました。葬儀のドタバタも落ち着いたある日「これは母が大切にしていた仏さんなんだが」と、社長が見せてくれたのは一体の古めかしい仏像でした。見るからに大昔のものだと感じさせる金属製の仏さまでした。長田家の先祖の調査を始めていたので、この仏さんに関しても調べてみることになりました。やがて長田家に伝わる不思議な縁起が判明することになります。

それは慶應三年卯正月二十五日のことでした。長田家のご先祖浅二郎さんが御当家の水田で、金属製の仏像を拾い上げたことから始まりました。浅二郎さんは常日頃よりとても信心深い人であったようで、お隣旧山陽町の真言寺院である松茸山正法寺や、市内唯一の真言寺院である南原寺にもよく参拝する人でした。仏像を発見した浅二郎さんは隣寺の光明寺住職にこの仏について教えを請い願ったのです。それでこの仏が十一面観音菩薩であることが判明します。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つで現世利益の仏です。六観音の一つでもあり、救済の観点から千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では、往古よりとりわけ人気が高かった観音さまです。住職の勧めもあり、以降はこのご縁を大切にして長田家でお守りすることになりました。その後自身は養子であり、実子夘吉が迎えた養子の熊二郎に世継ぎがなかなか恵まれず、そのことを大変心配していた浅二郎さんでしたが、やがてこの観音さまのおかげか待望の男子が誕生するという幸運に恵まれました。さらに長田家が浅二郎さんの代に栄えた事などもあり、浅二郎さんはますますその仏さんを大切にするようになりました。それで、浅二郎さんの代より長田家の守護佛として奉っていたのです。この一連の歴史が由来書として残っていました。

その由来書は仏像が収納されていた古い逗子の中にありました。変色した板の両面に墨でびっしりと書き込まれています。漢文や真言、僧侶が用いる略字や梵字、仏教用語が多数含まれており見事な筆使いでした。書かれた日付は明治3年6月19日です。書き誌したのは光明寺の本空上人で、上人が亡くなる三年前です。その由来書の最後には、長田家に家運長久をもたらす十一面観音菩薩のご供養を毎年6月17日に営むべしと書かれていました。一部判読不能な箇所もありましたが、なんとかこの様な由来を読み取ることが出来ました。

長田家はこの不思議なご縁により、江戸末期あるいは明治初頭には光明寺へ転宗しています。光明寺の過去帳には、真宗時代の先祖の法名が遡って書き足してありました。現当主の社長も詳しいことは知らなかったそうです。それで、さっそく観音さまの化粧直しを住谷仏壇で行い、再開眼法要を行うことになりました。以降長田家では毎年6月17日に十一面観音菩薩のご供養をしております。その際には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」通称「観音経」を読誦します。めったに読誦しないお経なのでとても緊張します。法要の冒頭では十一面観音菩薩の縁起を述べる疏(しょ)を読みますが、長田家伝統の疏として定着することを願っております。

観音経(偈文)

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音 具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願 我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没 或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住 或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方 玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去 雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦 具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰 無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間 悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念 念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼 爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生 聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者 当知是人 功徳不少佛説是普門品時衆中 八萬四千衆生 皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心

過去帳は興味深いものです

2010年02月05日

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光明寺は田舎の山寺にしては意外に長い歴史を有しています。元をたどれば背後の大日如来の縁起は天平の代(奈良期)に遡り、今現在寺がある場所は平安期より真言伽藍があった場所です。ある意味、歴史の古さだけが唯一誇れる寺とも言えます。そういう歴史があるとなると、ひよっとして大昔の過去帳が残っていないかと期待したくなるのですが、残念ながら江戸中期以降しか残っていません。たぶん焼失したのでしょう。しかし、その江戸中期以降の過去帳であっても、丁寧に調べると結構いろんな事が見えてきました。

寺の過去帳にはお坊さんの名前が沢山出て来ます。歴代の住職が記載されているのは当然ですが、お弟子さんの名も実に沢山あります。これが私には興味深かった。今でこそ我々も浄土真宗さんと同様に世襲が多くなりましたが、ほんの2~3代くらい前は、純然たる徒弟制度で歴代の住職が就任していました。(要するに血縁関係のない人が住職になる)そして、江戸期にはこの山寺にも末庵や末堂が多数あり、その関係で弟子が沢山いたことが解ります。今でも一部は観音堂や阿弥陀堂として残っています。それらの庵主や堂守であったお坊さんが亡くなると、光明寺の過去帳に住職の弟子として記載されているのです。過去の栄光を垣間見るようで、現状を考えると少々不思議な感覚でした。女性のお坊さんも意外に多かったことが解ります。仏門に生きた尼僧の記載が多数あり、その墓が光明寺に残っています。遠く九州豊前のお坊さんが光明寺で隠居生活を送り亡くなっているケースや、組み内の寺と住職が途中で入れ替わっていたり、諸国遊行の過程で光明寺に滞在している時に亡くなった僧侶や、檀家ではない家から預かった子を弟子にしていたことなども過去帳の記載から解ります。今ではほとんど知られていない古い地名も沢山出て来ます。郷土史のお勉強にもなるのです。

過去の栄光といえば、現在の本堂を再建した傳空上人の戒名には驚きました。お墓には中興傳空順阿上人祖吟大和尚と刻んであります。加行の際に本堂で行うおつとめは冒頭で阿弥陀様あるいは盧舎那仏、そしてお釈迦様から始まりその教えを伝えて下さった歴代の偉大なお坊さんの名を読み上げます。祖師礼あるいは列祖礼という大変丁寧な礼拝行です。(その礼拝作法は五体投地といいイスラム教徒の丁寧な礼拝とそっくりです)当然、宗祖法然上人そして流祖西山上人のお名前も読み上げます。最後は私に直接伝えて下さる本山のご法主(御前さん)の、お名前を読み上げながら礼拝するのです。(この一連の流れを血脈という)その、読み上げるご法主のお名前が、憲空文有上人如道大和尚(けんくう・ぶんゆう・しょうにん・にょどう・だいわじょう)です。お坊さんは亡くなると、警察官や自衛官の殉職の時みたいに、本山より現状より上のランクの位が贈呈される事があるのですが、(昔もそうであったのか私は知らない)ご法主の例から解るように、大和尚とは大変な称号です。上下関係の厳しいこの世界で、しかも江戸期にあって表だって勝手に名乗るなんてことはありえないと思われるので、傳空上人は相当な位のお坊さんであったのでしょう。光明寺には傳空上人以外の歴代住職で大和尚と刻まれているお墓はありません。(位牌ではあります、表に出さなければバレないから後代の者たちが勝手にまつりあげたのかも?)この方は光明寺の歴史において特別な人だと思います。現在の光明寺は、傳空さんの代で整備した遺跡がそのまま残っている寺です。たぐいまれなるやり手で大物のお坊さんだったのでしょう。そういうことも、過去帳を調べお墓を調査することで解ってくるのです。

光明寺は田舎の山寺なので、檀家さんも大昔から代々うちの寺であった家が多くなります。中には墓石の戒名やその家に残る繰り出し位牌の記載で、この寺が西山派の浄土宗になった頃から檀家であったことが解るケースもありました。ましてや江戸中期以降になると、寺に現存する過去帳と照らし合わせることで、完全にその家のルーツをたどることが出来る家もあります。檀家さんが山中に残る古い墓地の整理をすることになり、古墓の調査をして差し上げると、その家の意外な歴史が判明したこともありました。「自分が元気なうちにやっておきたい」と話されるのを聞くと、とても大変な作業ではありますが、やらない訳にはいかないものです。

嘘も方便

2010年02月03日

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我々は「嘘も方便」という言葉を時々使います。よくあるのが、自分のついた嘘がバレた時や都合の悪い状況に対して、言い訳するために使ったりしています。私なども得意です。「これも方便ですから」などと、恵美ちゃん(妻)によく申し上げております。この「方便」は仏教用語です。悟りに近づくための方法、あるいは悟りに近づかせる方法とされています。場合によっては嘘になる様なさとしかたでも、悟りに導くための方法であれば容認されるのが、仏教の方便と考えても良いようです。そもそも仏の教えの大部分が「方便」といえるかもしれません。ものすごい数になる仏典の中に書かれている仏のさまざまな「おしえ」は方便だらけです。いろんな考え方やとらえ方があって、ややもすると矛盾することやほとんど正反対の主張があったりするのですから。いずれにしてもこの言葉の意味を仏教的に追求するとどんどん難しくなってしまうので、私には手に負えなくなりそうです。少なくとも自分の非を正当化するためや、他人を非難するために「方便」という言葉を使用するのは、仏教の本来の考え方とは違うということです。

この方便と非常に密接な言葉が「応病与薬」です。これも仏教用語です。お釈迦さんの説法はこの「応病与薬」の説法といわれていて、こんな話しがあるそうです。お釈迦さんには沢山のお弟子さんがおられました。その中にめちゃくちゃ真面目というか、一本気な人がいたのですが、あまりにも純粋というか変哲というか、とにかくいざ修行となると命を落としかねないほど懸命に励む人がいました。それを見たお釈迦さんは「悟りへの道というものは死にそうになるほどやってもダメですよ」とさとされたのです。死にそうになるほど修行に励むという姿勢は、ある意味立派なことかもしれません。しかし仏の教えからすると決して正しい修行のありかたではないのです。そんなことをしても悟りには近づけないのです。釈迦の悟りとは「中道」です。中道とは誤解をおそれずに思いっきり簡単に言うと「極端なことはやめてあるがままに生きて行きましょう」です。すなわち「意味の無いこだわりは捨てましょう」なのです。修行に励むのは結構なのですが度が過ぎるとそれは単なる「執着」でしかありません。執着とは事物に固執し囚われる事で修行の障害になる心の働きです。だから己を苦しめるだけなので早く捨てなさいと仏教は説いています。そして仏教における正しい修行は「精進」といいます。ただし執着と精進の違いを見極めるのは難しいことです。この事を常に意識しておくことが仏道修行の極意なのかもしれません。

さて、死にそうになるほど修行に励むお弟子さんに「ほどほどにしなさいよ」とさとされたお釈迦さんですが、一方では怠け者のお弟子さんもいました。ちょうど今の私みたいに一応坊さんにはなっていますが相変わらず煙草はやめられず正座は苦手な坊さんです。お経の練習もぼちぼちしかやっていないダメなお弟子さんです。これでは悟りなんて開けるはずもありません。それでお釈迦さんはそのお弟子さんにこう訪ねました。「あなたは本当に悟りを得たいのですか?」「はい、悟りを得たいです」「ならば死ぬほど修行しないと無理ですよ」とおっしゃったのです。

お釈迦さんは一方では「死ぬほどやっても意味がない」とおっしゃり、一方では「死ぬほどやらんとあきませんよ」と話されています。矛盾してますよね。どちらかが嘘なのでしょうか?いいえどちらも正しいのです。人それぞれいろんな病(苦悩)があるのだから、その病に適した薬(おしえ)を与えられたのです。この相手に応じた釈迦の臨機応変のさとし方が「応病与薬」なのです。第三者からみれば「嘘」に見えることもあるでしょう。これが仏の「方便」なのです。それを我々は自分の都合の良いように解釈して「方便」という言葉を使っているわけですね。「方便」とは自分の都合で使うのでははなく、他人の都合に合わせて使うものです。そして相手が本当に幸せになれるように使うものです。反省しないといけませんね。

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