こだわり住職のよもやま話

過去帳は興味深いものです

2010年02月05日

江戸期の過去帳.jpg

光明寺は田舎の山寺にしては意外に長い歴史を有しています。元をたどれば背後の大日如来の縁起は天平の代(奈良期)に遡り、今現在寺がある場所は平安期より真言伽藍があった場所です。ある意味、歴史の古さだけが唯一誇れる寺とも言えます。そういう歴史があるとなると、ひよっとして大昔の過去帳が残っていないかと期待したくなるのですが、残念ながら江戸中期以降しか残っていません。たぶん焼失したのでしょう。しかし、その江戸中期以降の過去帳であっても、丁寧に調べると結構いろんな事が見えてきました。

寺の過去帳にはお坊さんの名前が沢山出て来ます。歴代の住職が記載されているのは当然ですが、お弟子さんの名も実に沢山あります。これが私には興味深かった。今でこそ我々も浄土真宗さんと同様に世襲が多くなりましたが、ほんの2~3代くらい前は、純然たる徒弟制度で歴代の住職が就任していました。(要するに血縁関係のない人が住職になる)そして、江戸期にはこの山寺にも末庵や末堂が多数あり、その関係で弟子が沢山いたことが解ります。今でも一部は観音堂や阿弥陀堂として残っています。それらの庵主や堂守であったお坊さんが亡くなると、光明寺の過去帳に住職の弟子として記載されているのです。過去の栄光を垣間見るようで、現状を考えると少々不思議な感覚でした。女性のお坊さんも意外に多かったことが解ります。仏門に生きた尼僧の記載が多数あり、その墓が光明寺に残っています。遠く九州豊前のお坊さんが光明寺で隠居生活を送り亡くなっているケースや、組み内の寺と住職が途中で入れ替わっていたり、諸国遊行の過程で光明寺に滞在している時に亡くなった僧侶や、檀家ではない家から預かった子を弟子にしていたことなども過去帳の記載から解ります。今ではほとんど知られていない古い地名も沢山出て来ます。郷土史のお勉強にもなるのです。

過去の栄光といえば、現在の本堂を再建した傳空上人の戒名には驚きました。お墓には中興傳空順阿上人祖吟大和尚と刻んであります。加行の際に本堂で行うおつとめは冒頭で阿弥陀様あるいは盧舎那仏、そしてお釈迦様から始まりその教えを伝えて下さった歴代の偉大なお坊さんの名を読み上げます。祖師礼あるいは列祖礼という大変丁寧な礼拝行です。(その礼拝作法は五体投地といいイスラム教徒の丁寧な礼拝とそっくりです)当然、宗祖法然上人そして流祖西山上人のお名前も読み上げます。最後は私に直接伝えて下さる本山のご法主(御前さん)の、お名前を読み上げながら礼拝するのです。(この一連の流れを血脈という)その、読み上げるご法主のお名前が、憲空文有上人如道大和尚(けんくう・ぶんゆう・しょうにん・にょどう・だいわじょう)です。お坊さんは亡くなると、警察官や自衛官の殉職の時みたいに、本山より現状より上のランクの位が贈呈される事があるのですが、(昔もそうであったのか私は知らない)ご法主の例から解るように、大和尚とは大変な称号です。上下関係の厳しいこの世界で、しかも江戸期にあって表だって勝手に名乗るなんてことはありえないと思われるので、傳空上人は相当な位のお坊さんであったのでしょう。光明寺には傳空上人以外の歴代住職で大和尚と刻まれているお墓はありません。(位牌ではあります、表に出さなければバレないから後代の者たちが勝手にまつりあげたのかも?)この方は光明寺の歴史において特別な人だと思います。現在の光明寺は、傳空さんの代で整備した遺跡がそのまま残っている寺です。たぐいまれなるやり手で大物のお坊さんだったのでしょう。そういうことも、過去帳を調べお墓を調査することで解ってくるのです。

光明寺は田舎の山寺なので、檀家さんも大昔から代々うちの寺であった家が多くなります。中には墓石の戒名やその家に残る繰り出し位牌の記載で、この寺が西山派の浄土宗になった頃から檀家であったことが解るケースもありました。ましてや江戸中期以降になると、寺に現存する過去帳と照らし合わせることで、完全にその家のルーツをたどることが出来る家もあります。檀家さんが山中に残る古い墓地の整理をすることになり、古墓の調査をして差し上げると、その家の意外な歴史が判明したこともありました。「自分が元気なうちにやっておきたい」と話されるのを聞くと、とても大変な作業ではありますが、やらない訳にはいかないものです。

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