こだわり住職のよもやま話

嘘も方便

2010年02月03日

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我々は「嘘も方便」という言葉を時々使います。よくあるのが、自分のついた嘘がバレた時や都合の悪い状況に対して、言い訳するために使ったりしています。私なども得意です。「これも方便ですから」などと、恵美ちゃん(妻)によく申し上げております。この「方便」は仏教用語です。悟りに近づくための方法、あるいは悟りに近づかせる方法とされています。場合によっては嘘になる様なさとしかたでも、悟りに導くための方法であれば容認されるのが、仏教の方便と考えても良いようです。そもそも仏の教えの大部分が「方便」といえるかもしれません。ものすごい数になる仏典の中に書かれている仏のさまざまな「おしえ」は方便だらけです。いろんな考え方やとらえ方があって、ややもすると矛盾することやほとんど正反対の主張があったりするのですから。いずれにしてもこの言葉の意味を仏教的に追求するとどんどん難しくなってしまうので、私には手に負えなくなりそうです。少なくとも自分の非を正当化するためや、他人を非難するために「方便」という言葉を使用するのは、仏教の本来の考え方とは違うということです。

この方便と非常に密接な言葉が「応病与薬」です。これも仏教用語です。お釈迦さんの説法はこの「応病与薬」の説法といわれていて、こんな話しがあるそうです。お釈迦さんには沢山のお弟子さんがおられました。その中にめちゃくちゃ真面目というか、一本気な人がいたのですが、あまりにも純粋というか変哲というか、とにかくいざ修行となると命を落としかねないほど懸命に励む人がいました。それを見たお釈迦さんは「悟りへの道というものは死にそうになるほどやってもダメですよ」とさとされたのです。死にそうになるほど修行に励むという姿勢は、ある意味立派なことかもしれません。しかし仏の教えからすると決して正しい修行のありかたではないのです。そんなことをしても悟りには近づけないのです。釈迦の悟りとは「中道」です。中道とは誤解をおそれずに思いっきり簡単に言うと「極端なことはやめてあるがままに生きて行きましょう」です。すなわち「意味の無いこだわりは捨てましょう」なのです。修行に励むのは結構なのですが度が過ぎるとそれは単なる「執着」でしかありません。執着とは事物に固執し囚われる事で修行の障害になる心の働きです。だから己を苦しめるだけなので早く捨てなさいと仏教は説いています。そして仏教における正しい修行は「精進」といいます。ただし執着と精進の違いを見極めるのは難しいことです。この事を常に意識しておくことが仏道修行の極意なのかもしれません。

さて、死にそうになるほど修行に励むお弟子さんに「ほどほどにしなさいよ」とさとされたお釈迦さんですが、一方では怠け者のお弟子さんもいました。ちょうど今の私みたいに一応坊さんにはなっていますが相変わらず煙草はやめられず正座は苦手な坊さんです。お経の練習もぼちぼちしかやっていないダメなお弟子さんです。これでは悟りなんて開けるはずもありません。それでお釈迦さんはそのお弟子さんにこう訪ねました。「あなたは本当に悟りを得たいのですか?」「はい、悟りを得たいです」「ならば死ぬほど修行しないと無理ですよ」とおっしゃったのです。

お釈迦さんは一方では「死ぬほどやっても意味がない」とおっしゃり、一方では「死ぬほどやらんとあきませんよ」と話されています。矛盾してますよね。どちらかが嘘なのでしょうか?いいえどちらも正しいのです。人それぞれいろんな病(苦悩)があるのだから、その病に適した薬(おしえ)を与えられたのです。この相手に応じた釈迦の臨機応変のさとし方が「応病与薬」なのです。第三者からみれば「嘘」に見えることもあるでしょう。これが仏の「方便」なのです。それを我々は自分の都合の良いように解釈して「方便」という言葉を使っているわけですね。「方便」とは自分の都合で使うのでははなく、他人の都合に合わせて使うものです。そして相手が本当に幸せになれるように使うものです。反省しないといけませんね。

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