こだわり住職のよもやま話

発願文の心で生きる

2010年02月14日

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元旦に掲載した『総本山光明寺のおつとめについて』で、「香偈・三宝礼・四奉請」という三つのお経(偈)が、メインの経典に入る前に読誦する三点セットのお経(詩偈)だとご紹介しましたが、これに対して、終わりに読誦する三点セットのお経が「四弘誓願・三称礼・送仏偈」というお経です。

四弘誓願は日常の仏道修行の基本となる菩薩道の誓いを示す詩偈で、宗派を超えて用いられています。三称礼では六字名号(南無阿弥陀仏)を称えながら礼拝を行います。おつとめの冒頭に「三宝礼」で三度の礼拝を行いますが、それに対する結びの礼拝がこれです。送佛偈は法要開始時の「四奉請」に対して結びの句として用います。四奉請で招へいした仏を見送るお経(詩偈)です。ところで、我々の宗派では、この結びの三点セットの前に「発願文」というお経(偈文)を常用しております。発願文は臨終の時の心の用心を示し、往生のありようを示唆する偈文です。この偈文が個人的に大変重要だと考えています。それで、本日はこの発願文について書いてみます。あくまでも私見ですが、そのつもりで読んで頂けたら幸いです。本題に入る前にまずは発願文の現代語訳を掲載します。

発願文(現代語訳)
仏道の友よ、命の終わる時がきたならば、つぎのことを願おうではないか。心うろたえることなく、心の錯乱することなく、心を失うことなく、心身に苦しみ傷むことなく、心身は安らかにして、心は安定の状態に入り、目の前に仏・菩薩らのお迎えを頂きたい。そして阿弥陀仏の救いの願いに乗って勧経に説いている上品上生の往生人のように生まれさせて欲しいと。無論、かの国に生まれ至ったならば、そこで得た偉大な能力をもってこの世の苦しむ人々に救いの手をさしのべようと思っています。このわたしたちの願いは、宇宙の空間が限りなく広がっているように尽きることはありません。このように発願いたしました。心より阿弥陀仏に帰命いたします。

前半はまさに臨終の際の心の用心そのものです。人間にとって「死」は永遠の苦です。だから仏教の説く八大苦の一つになっています。しかし現代人は意外と平気かもしれません。なぜでしょう?きっと自分の死を想像することが難しいからです。今日核家族化が進み、人の死に直面する機会は限られるようになりました。命の炎が燃え尽きる瞬間を見届けることはまれです。結果、死の現場に直面する機会が限られるようになった現代人は、「死」に対する恐怖心がずいぶん薄れています。そもそも死後の世界を見たことがある人はいませんし、自分の命がいつ終わるのかも解りません。今日かもしれませんし何十年も先かもしれません。だから、「死」の苦しみを大して気にすることもなく生きて行けるのでしょう。でも、みなさんが、もしも余命数ヶ月だと宣告されたらどうなると思いますか?流石に恐怖を覚えるのではないでしょうか。死と直面するのは恐ろしいことです。しかし、もしもの話ではまだまだ手ぬるいのです。実際に死と直面した人にしかその恐怖は理解できないでしょう。本当に自分の命の終わりが決められてしまったら。その時、人はもがき苦しむことでしょう。個人差はあるでしょうが、平常心でいることは極めて困難です。場合によっては発狂しそうになるかもしれません。だからこそ「一度きりのこの命を大切に生きようではないか」と、発願文は臨終を迎える心がけをまず語るのでしょう。その偈文を口にするということは常日頃から自分に言い聞かせることなのだと思います。

さて、発願文の前半部分はこれくらいにします。実は後半に遠回しな表現ではありすが、非常に重要な浄土教の思想がこめられていると私は解釈しています。浄土教では、「人が亡くなると阿弥陀仏が迎えに来て下さり、極楽世界へ連れて行って下さるから大丈夫ですよ」と説きます。そして、「だからこそ今頂いているこの命を大切にしてしっかり生きてまいりましょう」と説きます。浄土教は阿弥陀仏がいらっしゃる極楽世界に生まれること(往生)を、いわば目標にしています。それを前提にして発願文の後半部分を読むと、私にとっては意外というか少々解りにくいことが書かれていました。曰く、「かの国に生まれ至ったならば、そこで得た偉大な能力をもってこの世の苦しむ人々に、救いの手をさしのべようと思っています」とあります。「かの国」とはもちろん極楽世界のことですね。そこに生まれたら(往生したら)、そこで得た偉大な力(仏の救済力)で、この世の苦しむ人々に救いの手をさしのべようといいます。ここで私は少々悩みました。「これは、どういうことを言っているんだろう?」です。人は極楽世界に往生することで、欲からようやく離れられ悟りに達することが出来ます。すなわち仏になれるのです。素晴らしいことです。ある意味最終的なゴールであり、それで良いじゃないですか。ところが発願文は仏になったらなったで、今度は「この世で苦しむ人々に救いの手をさしのべるようにしようではないか」といいます。しかし、「この世の苦しむ人々に救いの手をさしのべるには、極楽世界にいては無理でしょうから、それだとこの世に再び返らなくちゃいけないのでは?」と、私は思ったのです。本来、極楽で仏となった人間は、永遠の命を授かりもう二度と死ぬことは無いはずです。六道輪廻の世界から離れ極楽へ生まれることが「解脱」であり「悟りの世界」へ入ることです。そうだとすると、せっかく極楽に往生して仏になれたのに、あえてこの世に帰ろうといっていることになります。永遠に死なないはずの(転生しないはずの)仏が、再びこの世に生まれることを目指すことになるのです。解りにくい話です。ひよっとすると例の「方便」(2/3嘘も方便)というやつかもしれません。その思いが胸の中にくすぶっていました。その後「二種回向」という言葉を知り、私のもやもやは徐々に晴れてい行きました。

大乗仏教では、娑婆の世界に生きる我々凡夫は、本当の善行(正しい修行)を積む事は出来ないと考えています。だから悟りに達することは出来ないのです。本来我々凡夫が功徳を積むことは非常に困難なのです。特に浄土真宗さんにおいては、この考え方が徹底しています。しかし、このことをあまりにも強調すると、「功徳を積む行為なんて不要じゃないか、そしたら仏さんを拝む行為やお寺に参ることも不要では?」と曲解されかねませんので痛し痒しです。とても重要なのですが実に難しい。私たちを浄土に生まれさせるほどの功徳を授けて下さるのは阿弥陀仏だけなのです。我々が極楽に往生出来るのは、阿弥陀仏が我々に成り代わって功徳を積まれ(我々凡夫には出来ないのだから)、それを私たちに回し向けて下さる(これを回向という)からだといいます。我々凡夫は阿弥陀仏から回向されることによって、極楽(お浄土)に生まれ変わり悟りを得る事が出来るのです。

その阿弥陀仏の回向には二種類の回向(二種回向)があります。それが「往相回向(おうそうえこう)・還相回向(げんそうえこう)」です。「往相回向」とは「往生浄土の相状」の略で、自分の善行功徳を他のものにめぐらして、他のものの功徳として、共に浄土に往生しようとの願いをもととして説かれるといいます。「還相回向」とは「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生したものを、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いをいいます。この利他のはたらきを、浄土真宗においてはもう一歩踏み込んで、浄土への往生(往相)も阿弥陀仏の本願力によるのであって、阿弥陀仏がたてて完成した万徳具備の名号(南無阿弥陀仏)のはたらきによるとし、名号を回向されるといいます。よって往相・還相ともに阿弥陀仏の本願力として、仏の側から衆生に功徳が回向されるものとし、これを「他力回向」といっています。我々西山派においても基本的な考え方はほぼ同じです。もう少し解りやすい表現をすると、往相回向は我々凡夫が阿弥陀仏の本願力によって救われて極楽へ往き仏となることです。還相回向は、極楽へ往き仏となった私たちが阿弥陀仏の大いなる願いに導びかれて、ふたたびこの世界に戻って来て人々を救済する(いわば阿弥陀仏のお手伝いをする)ということです。実にややこしい考え方ですが、浄土教にとっては大変重要な思想です。発願文の後半部分では、この二種回向の思想が述べられているのだと考えています。

さて、発願文を私なりに追求すると、結局それは菩薩道に落ち着きます。例えば、世間には人々のために生きている素晴らしい人がおられます。そういう人を世の人々は「菩薩のような人だ」と呼んだりします。そうい人は世のため人のための生き方、すなわち菩薩道の実践者です。たぶんそういう人は極楽界からこの世界へ生まれ変わって来たにちがいありません。きっと還相回向の人なのです。この考え方を我々にも適用してみましょう。貴方もこの私さえも、ひょっとすると極楽からこの世界に戻ってきた人間なのかもしれません。残念ながら娑婆の世界に戻った際に、自分の前世が極楽界の住人であったことは忘れているのです。人は娑婆に生まれると欲から離れられなくります。それで、我々はこの世に命を受けてより、常に諸々の悪を作り罪を重ねて生きるしかない罪深い存在なのです。しかしなぜか時々いいこともします。人の為に損得抜きの行動をしていませんか。そうでしょう?なぜでしょうね。それは我々凡夫でも「還相回向の人なのかもしれないからだ」と私は考えました。忘れてはいるけど心の底のどこかに仏性があるからなのだと思うのです。

二種回向のことが解って来ると、お念仏の教えを頂いた私たちは、弥陀の本願力によってこの世とあの世(極楽)を行ったり来たりしている可能性が見えて来ます。そう考えると「今頂いているこの命を大切にして、この世で苦しむ人のために使わなくちゃ」と思うのです。だから菩薩道なのです。大乗仏教あるいは日本仏教が一番大切にしている利他行の実践です。自分だけでなく他の幸福を願う生き方です。発願文は「臨終の時には阿弥陀さんが迎えに来てくださるから、それまではしっかり菩薩の生き方をしましょうね」と教えているのだと受け取っています。

ところで昨日は柳井家で政人さんの三回忌法要を勤めさせて頂きました。2年前の満中陰法要ではとりわけ記憶に残る経験をしております。法要の際に私は発願文について少々講釈をたれさせて頂いたのですが、当然、前記の二種廻向についてもお話をさせて頂きました。私の下手くそな法話ですから、皆さんにどの程度理解して頂けたかは解りませんが、ご親族の中に、とりわけ私の話に深くうなずかれるご夫婦がおられました。食事の際にそのご主人と親しくお話をさせて頂いたのですが、こう切り出されました。「実は私はもうこの世には、いなかったかもしれん人間なのです。数年前にガンで余命数ヶ月だと宣告されました。それが奇跡が起こりまして、ほぼ全快に近い状態にまで回復し、こうして今も命を頂いております。もちろんまだ油断はできませんが、残りの人生はいわば2度目の命です。方丈さんの本日の発願文のお話は、死を一度覚悟した私にとっては身につまされる言葉でした。今日のご法話は私の心に深くしみました。まさに今後の人生の指針となるお話でした。仏さまから頂いたこの命です、私なりに精一杯大切にして生きて行きたいと思っております」そう話されたのです。

ご親族の中に、そのような体験をされている方がおられたとは。本当に驚きました。そのご主人は警察官であったそうです。失礼ながら警察と聞くと、昨今不祥事が表に出てくることが多くなりましたから、少々良い印象を持たない方もおられるかもしれませんね。そもそも強大な権力の座に安住している人間は、よほど己を常に厳しく律していないと堕落しやすいものです。しかし、そのご主人はまさに菩薩の相を持たれていました。この方が警察官であったとは。むしろ意外に感じました。そして、そのご主人と、翌年の一周忌でお話した際には少々不安な言葉を賜りました。「最近検査データーが少々悪化しておりまして再発の可能性が高いのです」といわれます。「この次はお会いできるかどうかわかりませんが私なりに精一杯生き抜いてみようと思っています」と話されていたのです。そのことがとても気になっていました。それで、昨日は柳井家を訪れた際に、真っ先にそのご主人の顔を探しました。幸いなことにいらっしゃいました。無事再会することが出来たのです。お話を聞くとやはり再発があったそうです。しかし、それも見事に克服されて現在体調も良いとのことでした。本当によかった。

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