こだわり住職のよもやま話

悟りと諦めはお友達?

2010年02月12日

本山中央参道(女人坂).jpg

真面目なお坊さんが仏道修行を積んで目指すのは「悟り」です。この悟りというものが、未だに頭の中が「在家の人」の私にはとても解りにくい課題です。悟りとは欲から離れることでしょうが、それは「あきらめる」という事にとても似ていると思うのです。「私は悟りました」と言えば格好いいですね。ところが「私は諦めました」と言うと、とてもダメな人みたいに聞こえます。そう思う私が悪いのかもしれませんが、私にしてみればどまでが諦めでどこからが悟りなのかよう解りません。「誰か教えてくれんかなー」と思ってしまいます。まるで「ニワトリは卵が先か親が先か」みたいな話で、迷路にはまってしまいそうです。

在家の人の頭で考えると、どうしても「諦める」という言葉には少々後ろ向きな印象があります。明鏡国語辞典を開くと〃あきら・める【諦める】望んだことの実現が不可能だと思って、望みを捨てる。思いを断ち切る。断念する。また、仕方のないことだと知って、その事態を甘んじて受け入れる。受容する。観念する。諦観(ていかん)する。「進学をきっぱりと─」「優勝は潔く─・めた」「かなわぬ夢だと泣く泣く─」「母の死は運命だったと─」「すべてを神のおぼしめしと─」◇「明らめる」と同語源〃とあります。それを眺めていた私は一番最後の「明らめる」と同語源という記述にはっとしました。〃あきら・める【明らめる】〔古い言い方で〕はっきりとさせる。明らかにする。「事の真相を─」 あきら・む〃です。諦めるという言葉は「明らめる」でもあったのです。こっちの「あきらめる」は少々前向きに感じられます。はっきりとさせる明らかにするのだというのですから。

そこで私は少々考えました。「何を明らかにするんだろう?」です。そして、もしかしてそれは「執着ですか?」と思いました。死にそうになるほど苦行に励んでいたお弟子さんに、お釈迦さんが「死ぬほどやっても意味ありませんよ」といわれたあの逸話(2/3嘘も方便)を思い出したのです。そのお弟子さんは悟りを得たい思いが強すぎて、「執着」に捕らわれている自分に気づいていませんでした。だからお釈迦さんは「死ぬほどやっても意味ありませんよ」と言われたのですが、それはいわば「明らめなさい」と諭されたのだと思います。そう考えると「あきめる」という言葉も、けっこういい言葉に聞こえてきます。真実を明らかにするのですから、めちゃ格好いい言葉じゃないですか。明らめるとは意味のない努力、すなわち「執着」から離れることになります。だから「あきらめる」という言葉は「諦める」ではなく、「明らめる」として聞くようにしようかなと思います。そう考える事にしていれば「あきらめました」と口にしても、それを手放すことは無いってことです。執着するのではなく淡々と続ければいいのです。「私は執着から解放され、今後はのびのびと精進を続けて行くことにしました」の意で、この言葉を使ったみたいものです。

▲PAGETOP