こだわり住職のよもやま話

私にもできるかも

2010年02月11日

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仏教では「欲を捨てなさい」とよくいいます。欲(執着)は自分を苦しめるだけですから、それを無くすことができたら「楽になれますよ救われますよ」と教えます。でも、我々は完全に欲を断つことはできませんよね。「娑婆の世界とは己の思うようにはいかない世界だ」と、『12/20ギター三昧の顛末』の結びにも書きましたが、この世(娑婆世界)に生きている限り、我々は「ああしたい、こうなりたい、あれが欲しい」から離れることは出来ないものです。だから凡夫というのです。この私も絶対に出来ないのです。欲から離れられたらお釈迦さんです。それで、大乗仏教では「少欲知足」という考え方を説きます。

大乗仏教の「小欲知足」は、欲を少なくして(全部捨てろではない)足りる(これくらいでも足りてるな)を知ろうです。ちょっと欲を少なくすることが出来たら、「あなたは執着から解放されて幸せに生きられますよ」と教えてくれています。人は「あーまだ足りない」「もっと欲しい」を続けていたら、永遠に不幸(苦)から解放されません。しかし「これくらいで足りてるなー」「今くらいでもいいんじゃないか?」と思えるようになったら、その時点で苦から解放され幸せになれます。だから大乗仏教は「そう考えるようにしてみませんか?」と説くのです。それで私も、それだったら「もしかしたら出来るかも?」と思ったりするわけです。実際にはこれでもけっこう大変なんですけどね。でも、まず「出来るかも?」と思うことがポイントです。くどいですが完全に欲から離れることができたら、それは仏になったことになります。生き仏です。我々凡人は亡くなった時にしか出来ません。これが仏教のいう「涅槃」であり、だから亡くなっ人を「仏さん」と呼ぶわけです。娑婆に生きている以上、欲を完全に捨てることは出来っこないのです。そう言う事実を認めた上で、皆さんに少しでも幸せに生きて欲しくて、大乗は現実的な方法論として「少欲知足」をおすすめしているのです。

坊さんになってそのことを知ったので、私もちょっとその気になって「出来るかも?」と思ったりします。実際に出来る出来ないはともかく、これはとってもいいことです。私の好きな言葉に「意識が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変わると人格が変わる、人格が変わると人生が変わる」という言葉があります。「かも?」と思うのは、いわば気づき、きっかけです。ちょっと意識が変わりはじめる瞬間なんです。私にしてみれば「かも?」と思った時点で、すでに仏のおしえの功徳を頂いているのだと思います。人間、何かきっかけがないと行動を起こさないものです。真っ正面から「欲を捨てなさい」なんていわれたら、誰だって敬遠します。でも「...してみたら?」といわれて「そうかなー?」ぐらいだったら、たいして抵抗がありません。それでちょっと意識します。(すでに意識が変わりつつある)すると行動が変わるかもしれません。そしたら、もしかしたら人生が変わるかもしれんのです。だから最初の「かも?」は大切です。

大乗は少しでも多くの人に、悟りの世界行きの大きな船に乗ってもらいたいので、そういうスタンスで仏の教えを説きます。難しいことはあまり言いません。だって「全部捨てろ」では、はなっから話にならんでしょう。ところが「小欲知足」なら私でも出来るかもしれません。ほんのちょっぴりでも欲を減らすことが出来たら、もう自分は昨日の自分とは違います。少しいい人になったみたいな気がします。少し救われた気持ちになれます。お金もかかんないし、そういうことなら「やってもいいかも?」と思えたりします。これこそが大乗がまず狙っていることだと思います。仏教は葬式や法事の時だけではありません。仏の教えとは哲学であり思想でもあるのです。人生をいかに豊に生きるかをテーマにした便利なガイドブックみたいなものです。そう考えると、わけのわからんあのお経もありがたく聞こえて来るものです。

流祖西山上人は「機根つたなくとも卑下すべからず...いたずらに機の善悪を論じて仏の強縁を忘るることなかれ」と、申されました。しょせん、私は欲から離れられない凡夫(機根の劣る者)です。でも卑下することはありません。そんな私でも仏に救って頂けるのです。(仏の強縁で)そのことに感謝して、やれ出来るいや出来ないなどと言って(機の善悪を論じて)いないで、私は私なりに出来ることをすれば良いのです。ほんのちょっぴりでも欲を少なくすることが出来たら、それでいいじゃないですか。いや「してみようかな?」と思うだけでも「ちょと成長したんじゃないか?」と思うのです。そんな自分をほめてやりましょう。そうでもしないと誰もほめてはくれませんからね。

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