一昨日、下関市菊川町の古寺「大日寺」の行事にお邪魔をさせて頂きました。こちらでは毎年7月に大般若経の転読修行が開催されていますが、今年は7年周期で巡ってくる御本尊(金剛界大日如来)のご開帳が11月10日に行われ、私はお説教師として出席しました。一応お坊さんらしい(?)お話しをさせて頂きました。大般若転読修行に絡めた話を取っ掛かりにいろいろしゃべったのですが、途中からすっかり調子に乗ってしまってふと時計を見れば1時間を過ぎていました。いつもながら話が長い迷惑な坊さんでした。
当山は信長さんの時代からは南無阿弥陀仏の寺になっていますが、それまでは真言の古寺でした。そういう歴史があって今も真言時代の御本尊であった大日如来さんもおられます。年に2度は旧御本尊の前で真言時代からの行事もやっています。毎年4月30日は大般若転読修行も行います。それで一見何宗なのかよう解らん変な寺です(間違いなく今は浄土宗西山派なのですが)そんな寺の住職なので大般若転読修行や大日如来さんについては多少なりとも知見はあるので(つもり?)ついつい調子に乗ってしまいました。ダメですねー。
その日は大乗仏教の世界観について「空」の思想の話もしました。般若心経に出てくる色即是空とその逆である空即是色がまさにそれです。般若心経では、「空の思想」が中心となって説かれています。「空」は「実体がない」という意味で「すべてのものは刻々と変化していき、不変のものは存在しない」と、色即是空(色これ即ち空なり)が「空」について説明しています。この「空の思想」により「すべてのものには実体がなく変化するのだから、苦しみも悲しみも恐れる必要はないのだ」と唱えているのです。目に見える「色」に執着すると変化したときに苦しみが生じます。一切のこだわりを捨てて楽になりなさいと説いているのです。
「空」が実体のないものであるのに対し「色」とは実体であり目に見えるものです。この世に現れ、認識できるものはすべて「色」といえるでしょう。「色」と「空」の関係は、時計と時間にたとえることができます。時間は目に見えないもので、時計のない時代は日の出や日の入りなど、太陽の動きが時間の経過を知らせていました。そのような目に見えない時間を見えるものにしたのが時計です。また、人の心の中にある考えや感情は外からは見えず、そのままでは実体がありません。文字や声にすることで認識できるようになり実体となります。このように、「色」と「空」は本来同じものです。見えるもののありがたさや、見えないものも大切にしなければならないことを感じなさい、というのが般若心経の教えといえるでしょう。
その日は晴れ渡って明るい日射しが窓から差し込んでいました。こういう晩秋を昔の人は「小春日和」と呼びましたが、私はふと山口百恵さんの名曲「秋桜」の一節を思い出していました。
・・・こんな小春日和の穏やかな日は あなたの優しさが染みて来る 明日嫁ぐ私に苦労はしても 笑い話に時が変える 心配いらないと笑った・・・
百恵さんが歌う「苦労はしても笑い話に時が変える」の部分が、まさに「空」の思想を説いているように思えて来ました。




