こだわり住職のよもやま話

2010年2月8日

長田家伝来十一面観音秘話

2010年02月08日

光明寺の大イチョウと背後の城山.jpg

一昨年まで責任総代を務めて頂いた長田雅太(おさだまさた)さんの自宅は、光明寺のすぐ北隣です。往時には砦が築かれていたといわれる城山のすぐそばです。代々光明寺の責任総代を努めて頂いており、現在の社長で三代目です。長田さんは長田設備(水道工事店)の経営者です。それで、私はいつも「社長」と呼ばせてもらっています。平成19年の2月に、その社長のお母さんがお亡くなりになりました。ご主人の命日と同じ17日で、不思議な巡り合わせでした。お葬式は光明寺本堂で行いましたが、とても寒い日だったのをよく覚えています。お母さんが亡くなられたこともあり、長田家は仏壇を住谷仏壇で新しくされることになりました。住谷の千々松さんのお兄さんと社長は旧知の仲だったのです。古い仏壇は私の手で撥遣供養(お性根抜き)の儀式を行い、光明寺境内で焼却して丁重に供養致しました。その一連の過程がきっかけとなり、私は長田家の歴史を知ることになりました。

長田家には社長のおじいさんが残していた先祖の記録がありました。それで、この機会にもう一度きちんと調査してみることにしました。社長本人の記憶やご兄弟の話も参考に、残っていた記録や古い仏壇にあった繰り出し位牌や墓石などを丹念に調査し、過去帳とも照合しました。その結果、長田家は約240年位前にこの地に居を構えた可能性が高いことを知りました。最初に現在の場所に来た幸助さんは、豊田町の西市にあった紅屋という大店とのつながりが深く、100回忌にはそこより特別な焼香があったことなども解りました。しかし、長田の歴史は本来そうとう古いようで、平家一門の末裔であることも解って来ました。実は山寺の檀家さんには、集落の全てが光明寺の檀家であり、氏は違っても家紋はすべて同じという地区があります。山中に入りこんだ隠れ里のような場所で、平家の落人伝説が伝わっています。長田家の家紋もその地区と同じものです。現在の場所に居を構えた幸助さんの時代は、約240年前に現本堂を傳空上人が再建し、光明寺がある意味もっとも栄えた時代です。背後の草場山へ続く長田家の山林は、光明寺の八十八霊場の森と隣接しています。その中腹には往時より長善庵と呼ばれる場所があったそうです。長田家の隠居屋敷と氏寺(?)を兼ねたような場所であったようです。そこには幸助さんから続く先祖代々のお墓がありました。長田家に残る先祖の位牌にはいずれもこの長善庵埋葬と記載されており、明治初期まで長田家代々の墓所でした。

さて、この地に移って来た当初の長田家は光明寺の檀家ではありませんでした。ところが、あることがきっかけで光明寺へ転宗していたのです。その理由ですが、お母さんが亡くなり古い仏壇を整理していた際に出てきた仏像が鍵を握っていました。葬儀のドタバタも落ち着いたある日「これは母が大切にしていた仏さんなんだが」と、社長が見せてくれたのは一体の古めかしい仏像でした。見るからに大昔のものだと感じさせる金属製の仏さまでした。長田家の先祖の調査を始めていたので、この仏さんに関しても調べてみることになりました。やがて長田家に伝わる不思議な縁起が判明することになります。

それは慶應三年卯正月二十五日のことでした。長田家のご先祖浅二郎さんが御当家の水田で、金属製の仏像を拾い上げたことから始まりました。浅二郎さんは常日頃よりとても信心深い人であったようで、お隣旧山陽町の真言寺院である松茸山正法寺や、市内唯一の真言寺院である南原寺にもよく参拝する人でした。仏像を発見した浅二郎さんは隣寺の光明寺住職にこの仏について教えを請い願ったのです。それでこの仏が十一面観音菩薩であることが判明します。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つで現世利益の仏です。六観音の一つでもあり、救済の観点から千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では、往古よりとりわけ人気が高かった観音さまです。住職の勧めもあり、以降はこのご縁を大切にして長田家でお守りすることになりました。その後自身は養子であり、実子夘吉が迎えた養子の熊二郎に世継ぎがなかなか恵まれず、そのことを大変心配していた浅二郎さんでしたが、やがてこの観音さまのおかげか待望の男子が誕生するという幸運に恵まれました。さらに長田家が浅二郎さんの代に栄えた事などもあり、浅二郎さんはますますその仏さんを大切にするようになりました。それで、浅二郎さんの代より長田家の守護佛として奉っていたのです。この一連の歴史が由来書として残っていました。

その由来書は仏像が収納されていた古い逗子の中にありました。変色した板の両面に墨でびっしりと書き込まれています。漢文や真言、僧侶が用いる略字や梵字、仏教用語が多数含まれており見事な筆使いでした。書かれた日付は明治3年6月19日です。書き誌したのは光明寺の本空上人で、上人が亡くなる三年前です。その由来書の最後には、長田家に家運長久をもたらす十一面観音菩薩のご供養を毎年6月17日に営むべしと書かれていました。一部判読不能な箇所もありましたが、なんとかこの様な由来を読み取ることが出来ました。

長田家はこの不思議なご縁により、江戸末期あるいは明治初頭には光明寺へ転宗しています。光明寺の過去帳には、真宗時代の先祖の法名が遡って書き足してありました。現当主の社長も詳しいことは知らなかったそうです。それで、さっそく観音さまの化粧直しを住谷仏壇で行い、再開眼法要を行うことになりました。以降長田家では毎年6月17日に十一面観音菩薩のご供養をしております。その際には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」通称「観音経」を読誦します。めったに読誦しないお経なのでとても緊張します。法要の冒頭では十一面観音菩薩の縁起を述べる疏(しょ)を読みますが、長田家伝統の疏として定着することを願っております。

観音経(偈文)

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音 具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願 我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没 或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住 或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方 玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去 雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦 具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰 無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間 悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念 念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼 爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生 聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者 当知是人 功徳不少佛説是普門品時衆中 八萬四千衆生 皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心

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