こだわり住職のよもやま話

本当の他力本願

2010年02月21日

雪の光明寺境内.jpg

我々日本人は、ほとんど意識することなく仏教用語をよく使っています。他力本願という言葉も仏教からきた言葉です。浄土教にとっては特に重要な言葉でが、我々は日々の生活の中で、この言葉をたいてい良い意味には使いません。私もそうでした。他人の力をあてにして自分は努力しない行動、いわば人として少々恥ずべき行動を、自嘲や非難する言葉として使用していました。しかし、仏にしてみればそれは大間違いです。仏教のいう他力とは阿弥陀さんの救済力のことです。本願とは、我々のように煩悩から離れることのできない哀れな衆生だからこそ、「南無阿弥陀仏」と称えたならば必ずや極楽にすくい取ってやろうという、そんな仏の強い願いをさす言葉です。だから、我々が自分のいい加減な行動を弁解するためや、人任せの行動を非難するために用いるのは本来の意味とは違います。

しかし我々は凡夫です。この世に生きている以上は「自分はまじめに生きてる」「あいつはろくなヤツじゃない」「あいつは立派だ」「おれはつまらん人間だ」などと、いろいろ比較して他人を見下したり卑下するものです。そういう時に、この他力本願という言葉を使いたくなるものです。「方丈さん、悪いヤツはやっばり悪いし、自分は善人とはいわないけどそれほど悪人とは思わんのだけど」と、いわれることがあります。確かにそうですね。娑婆の世界ではそう考えるものですし、それで良いのです。そのために阿弥陀さんがおられるのだし、本当の「他力本願」があるのですから。だからそれがダメだといはいいません。ただ他人のことをいう前にまずこの自分はどうなのか?を忘れないことです。回りのことは本来関係ないのです。肝心なのは周囲や他人との比較に自分の心が囚われる(執着する)あまり、「結局自分の人生を不幸なことにしてはいませんか?」です。だから自分の為にちょっと立ち止まって、自分自身のことを冷静に考えてみれば良いのです。

確かに世の中には良い人もいれば悪いヤツもいます。しかしそれは我々娑婆の世界に生きる人間の価値観であり、順位づけでしかありません。仏の立場から見ればどいつもこいつもみな一緒です。いずれも悪人であり哀れな存在なのです。西山上人が鎮勧用心で述べられた「いたずらに機の善悪を論じて仏の強縁をわするることなかれ」は、実に深い示唆であります。娑婆の世界の価値観で、あえてこの「他力本願」をとらえるとするならば、他力とは私を助けて下さる周囲の人々の力のことです。本願とは私をなんとかしてやりたいと思う人々の願いを指し示す言葉となるでしょう。親兄弟や家族、職場の同僚や友人、場合によってはまったく赤の他人の場合もあるでしょう。あなたの知らないところで、あなたの為になることをと一生懸命やってる人だっているのです。だから娑婆に生きる我々凡夫にとって現実的な「他力本願」とは、「この私を支えて下さる人々のお力で」と、とらえてみようではありませんか。仏教のいう「お陰様で」という言葉と、非常に近い関係の言葉なのだと知って頂きたいのです。

我々は今後も「他力本願」という言葉を、やっぱり本来の意味とは違う娑婆世界での価値観で使うことでしょう。私も多分そうだと思います。でも本当の意味も意識しておいた上で使って行きたいものです。そういうことが、今生きているこの世界でもちょっとは救われることになるかもしれません。

▲PAGETOP