こだわり住職のよもやま話

2010年3月16日

大内氏滅亡と厚氏の帰農

2010年03月16日

「応永の乱」で大内義弘が敗死したため、家督相続を巡る大内氏の内戦が勃発し、この争いによる戦火で光明寺が焼失したいきさつは、前回書いたとおりです。この時、大内氏は一時没落しかけましたが、内戦に勝利した大内盛見が幕府に家督の相続を追認させ、大内氏を再び繁栄させる礎を築きました。盛見死後も大内氏は家督を巡る内紛が繰り返されますが、持世・教弘・政弘・義興と、いずれも大内氏の勢力を維持し続け、享禄元年(1528年)義興が死去し大内義隆の代になると、周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前の7か国を領有する、名実共に西国一の戦国大名となります。

義隆は細川氏との戦いに勝利し、明との交易を独占して巨大な冨を手にしていました。まさに大内氏の全盛期を迎えたのです。そして、義隆が学問・芸術に熱心で、キリスト教の布教(フランシスコ・ザビエルの布教)を許し、公家や宣教師を積極的に保護したことから、本拠地領内には独特の文化が生まれました。その潤沢な蓄財により栄華を極め、後に大内文化と呼ばれる一時代を築いたのです。今日、山口市が「西の京・山口」と呼ばれる所以です。しかし、大内氏の衰退が始まるのも義隆の時代でした。

I大内義隆墓所.jpg
転機は天文10年(1541年)出雲遠征での大敗でした。この遠征の失敗で養子の大内晴時を失った義隆は、出雲遠征を主導した武功派の家臣・陶隆房らを国政の中枢から遠ざけ、政務を文治派の相良武任に一任して政務から遠ざかります。義隆は学芸・茶会などに没頭して公家のような生活を送るようになり、やがて国内治政さえ顧みなくなりました。このため、大内家の主導権を巡って陶隆房ら武巧派は、文治派の相良武任を敵対視するようになり、主君・大内義隆との関係も悪化します。

天文20年8月28日-9月1日(1551年)大寧寺の変(たいねいじのへん)が起こります。陶隆房ら武巧派の謀反により大内義隆は追い詰められ、長門深川の大寧寺(長門市)で自害しました。この政変により大内氏は急速に衰退し始めます。大内義隆の死後、陶隆房は強引な擁立で大内義長に家督を継がせ、陶隆房の(このとき陶晴賢に改名)かいらい政権として大内家は存続しました。しかしこれに不満を持つ者は多く、まもなく反乱が起こります。これに乗じて安芸国の最大勢力であった毛利元就が、陶隆房(陶晴賢)を討ち取ると、大内家はもはや統制のとれない状態となります。毛利氏の侵攻を受けても内紛はおさまらず、戦力は崩壊して行きました。弘治3年(1557年)大内義長は毛利の軍勢により長門勝山城(下関市)に追い詰められ、長府の長福寺(功山寺)に移った後に自害します。栄華を誇った西国一の戦国大名・大内氏はここに滅亡しました。

長門大寧寺.jpg

大内氏を滅ぼしその所領を手中にした毛利元就は、中国地方最大の戦国大名となります。しかし関ヶ原の戦いにより毛利氏の勢力は一挙に失われました。西軍の総大将に担ぎ上げられていた毛利輝元(元就の孫)は、東軍の徳川家康と所領安堵の密約を結び、結局、西軍を敗北に導きました。しかし、後にこれを反故にした家康により所領を周防・長門の2ヶ国のみに減封され、毛利氏(長州藩)は外様大名として幕末まで悲哀を味わうことになります。

大内氏にとってかわった毛利氏は、当初は領民掌握の為に旧大内家臣を重用しました。しかし、まもなく旧大内家臣は冷遇されるようになります。所領をわずか2か国に減じられ、幕府の諸策により毛利氏(長州藩)の財政事情は非常に苦しかったのです。そのしわ寄せは旧大内家臣に対して真っ先に振り向けられました。毛利藩の厳しいリストラによって、外様家臣であった厚氏は在郷武士へと転身し、まもなく帰農しました。

一族の菩提寺であった曼陀羅寺も往時の勢いをすっかり失い、明暦年間には光明寺に合併吸収されました。その後、曼陀羅寺にあった厚氏の墓所は厚狭川の大規模な川改作の際に移転撤去されました。真言寺院であった曼陀羅寺最後の住職、利殘和尚は万治2年(1659年)12月20日に光明寺で遷化しています。上人の位牌には「翁空上人利殘和尚・曼陀羅寺住」と彫られており、お墓は光明寺歴代住職と並んで現存しています。

さて、毛利家では年頭の会において家臣より、「今年は倒幕の機は如何に?」と藩主に伺いを立て、それに対して藩主が「時期尚早である」と答えるのが毎年の習わしだったといわれていますが、まさに幕府に対する積年の思いが伝わってくる話です。長州藩士たちの蓄積した怨念がやがて彼らを倒幕へと走らせ、明治維新を成就させるエネルギーになったのかもしれません。

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