こだわり住職のよもやま話

2010年3月20日

快友寺に出仕しました

2010年03月20日

先日(3/16)、下関市菊川町吉賀にある快友寺の彼岸会に出仕しました。快友寺では彼岸法要の際に施餓鬼供養(春施餓鬼)が行われますので、坊さんが集い施餓鬼経が読経されます。快友寺は大寺で本堂が実に大きく組内最大です。寺法要となると広い本堂に住職一人ではとても格好がつきません。それで常日頃から複数の僧侶で法要を開催します。私も年に4回は快友寺に出仕します。快友寺は毛利長府藩の重臣・桂広繁の所領にあった邸宅の場所に、広繁没後に建てられた桂家の菩提寺です。

快友寺楼門.jpg

境内の経蔵には江戸期の一切経(明版)がありますが、今日明版はとてもめずらしいものです。回転式の棚に収納してあり、県の文化財に指定されています。今でこそ我々各末寺は本山に直接所属する組織形態ですが、かつてはそうではありませんでした。西山派においては快友寺がこの地方での有力な本寺で、山寺光明寺も含め周囲の西山派寺院の多くはこの快友寺末であったようです。その昔、快友寺が西山派になったことで周囲に西山派のお寺が出来て行ったようです。真言古寺であった山寺光明寺も、陀羅寺を引寺した明暦年間(1655年頃)には、快友寺の影響ですでに西山派であったと思われます。なお、曼陀羅寺最後の僧侶であった利殘上人は万治2年(1659年)光明寺で遷化し、位牌とお墓は光明寺に残っています。

快友寺経蔵.jpg

さて、快友寺での施餓鬼供養ですが、年4回行われています。快友寺ほどの大寺となると、大量の施餓鬼塔婆や永代祠堂塔婆が上がるので大変です。施餓鬼法要が長時間になってしまい収集がつかなくなる可能性があります。それで年四回実施するのです。もちろん大多数の檀家さんは、お盆前の夏に先祖供養の施餓鬼塔婆を建立するのではありますが、永代祠堂などはできるだけ分散して頂くシステムです。それでも、夏の施餓鬼は他寺の施餓鬼会より明らかに長時間になります。住職は大変ですし出仕している我々も大変です。最初はみんな元気ですが、やがて疲れてきて読経の勢いも鈍りがちです。だから出来るだけ大勢で臨まないとのりきれません。組内の坊さんは全員集合で老僧も駆り出されます。その点、山寺は夏の1回でも大したことないわけですから、私は楽してるのかもしれません。

施餓鬼供養は出来るだけ多くのお坊さんを集めて読経するのが良いとされるので、組内の寺が協力しあって互いにそれぞれの施餓鬼会へ応援に駆けつけます。盆施餓鬼となると各寺が順番に行います。山寺がトップバッターで8月3日です。光明寺も7か寺に出仕して頂くので、私は後にその7か寺の施餓鬼会へ出向きます。光明寺の施餓鬼会が終了すると、後片付けもそこそこに以降は連日どこかの寺の施餓鬼会で読経しているか、檀家のお参り(盆前のおつとめ)をしているかになります。この間に葬儀が入ると、予定がすっかり狂って大変困るので毎年心配します。唯一の救いは施餓鬼会では正座はしなくて良いので(イスを使用します)助かります。しかし、それでもひたすら声を出し続けなければならず、お盆直前の暑さで弱っている身体にはとてもこたえます。いつもはのんびりしている山寺の住職も、この時期だけは非常にハードな日々を送っています。毎年「寿命を縮めているんじゃないだろうか」と本気で思います。

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