こだわり住職のよもやま話

西山で用いる二つの紋

2010年03月09日

久我竜胆車.jpg

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西山浄土宗の宗紋は竜胆車(りんどうぐるま)です。久我竜胆(こがりんどう)とも呼ばれ、流祖西山上人の出自からこの紋が使用されています。上人の父、源親季(みなもとのちかすえ)は、源通親(みなもとのみちちか)別名久我通親(こがみちちか)の一門に属する貴族でした。通親は62代村上天皇の皇子を祖とする村上源氏のいわば本家で、西山上人は幼少期に一門の長である通親の猶子(養子)となっています。それで、西山は久我家の紋所である竜胆車なのです。西山浄土宗とは非常に近い関係にある浄土宗西山禅林寺派も宗紋として使用しています。また曹洞宗でもこの竜胆車(永平寺)と五七桐(總持寺)を両山紋として使用しています。曹洞宗の宗祖道元禅師は通親の嫡流(実子)であったといわれており(異説もあります)、西山上人とはいわば義兄弟です。だから同じ紋になっているのでしょう。源というのは天皇の子で下に下った人につけられた氏・姓の一つです。皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りることを、賜姓降下(しせいこうか)といい、そのような皇族を俗に賜姓皇族ともいいます。ちなみに平家もおなじく賜姓降下の一門です。

ところで一言に源氏といっても複数の天皇の時代の源氏があるので話はややこしくなります。源氏として代表的なものを上げると、例えば嵯峨源氏、醍醐源氏、宇多源氏、村上源氏、清和源氏などがあります。○○源氏の○○が天皇の名です。一般的に源氏は笹竜胆(ささりんどう)といわれていますが、これは必ずしも正確ではありません。源氏の家紋としてよく知られている笹竜胆は、56代清和天皇の皇子を祖とする清和源氏の一門であった源義経が用いていた(異説あり)とされており、それで源氏一門の代表的な紋としてよく知られるようになりました。久我家の竜胆車もそうであるように、竜胆(りんどう)と笹の葉(本当は笹ではなく竜胆の葉です)をモチーフにした家紋はまさに源氏ですが、実際には源氏一門で使われている家紋はさまざまで、竜胆ではない紋を使用する家もあります。

西山浄土宗の宗紋は前記の竜胆車ですが、我々にはもう一つ重要な紋があります。それは法然上人の生家、漆間家由来の杏葉(ぎょうよう)紋です。杏(あんず)の葉と表記するので、植物の杏に由来した紋として受け取られがちですが、正しくは唐から伝来した馬の鞍(くら)の装飾馬具のことであり、器材を由来とした紋です。平安時代より晴の儀式の行幸などで馬につけられる豪華な鞍、唐鞍(からくら)に用いられている革製や金属製の飾りの一つが杏葉です。当初は鞍の付属品として用いられ、やがて牛車の装飾などを経て家紋に転用されたといいます。下の紋が現在西山浄土宗の総本山光明寺で使用されている漆間家由来の杏葉紋(寺紋)です。本山宗務所の玄関幕に使用されている紋を私がPCで描いてみました。我々にとってこの紋は特別です。宗祖法然上人由来の紋所ですから、いわば水戸黄門の印籠みたいなものです。

西山浄土宗杏葉.jpg

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ところで、京都紋章工芸共同組合から出版されている「改訂版・平安紋鑑」を調べると、総本山光明寺の紋とされる「杏葉」が掲載されています。しかし、その紋をよーく眺めて見ると、本山宗務所の玄関幕に染め抜いてあるものとは、花の部分のおしべの本数が異なっています。玄関幕は9本ですが平安紋鑑は7本です。さらに、平安紋鑑ではおしべの軸が末広がりに少々カーブを描いている点も異なります。本山御用達の衣屋さんが使用している杏葉や、本山のホームページ上に掲載されている杏葉も、よく観察するといずれも少しずつ異なる部分があります。細かいことに、そこまでこだわっても仕方ないのかもしれませんが、こうなると何が本来正式なのか良く解りません。それで本山で確認してみたところ、どうやら平安紋鑑に掲載してあるデザインで、おしべが9本のものが、本山で正式と考えられている手書きの資料にかなり近いことが解ってきました。しかし、本山御用達の衣屋さんが使用している紋や、本山ホームページ上のかなり荒い画像の紋が間違いかといえば、決してそうではありません。これらはおしべが黒等の有色で描かれ、背景が扇型に白抜きになっているのですが、(注・本山ホームページの杏葉紋はこの記事を掲載した後にリニューアルされてずいぶん綺麗な画像になりました)実は本山の各所で使用されている杏葉は、この白抜きであったりそうでなかったりで様々です。だから、いずれも間違いではなく、いわば許容範囲とでもいえるのでしょう。今日ではパソコン上でサクサクと手軽に描くことが出来ます。その際に厳密なルールを設定することも可能なのですが、昔はすべて手書きだった訳ですから多少のブレは致し方ないのかもしれませんね。

本山宗務所玄関幕.jpg

西山で用いる紋についてあれこれ述べてみたので、ついでにこの紋に関連した話を書いておきます。実は組内のお寺さんで、家紋が杏葉の家があります。山寺光明寺の法類(お寺における親戚のような関係)である舜青寺さんです。庫裏の表札はやっぱり漆間です。法然上人の血筋は岡山にある誕生寺の漆間家が本家ですが、この山口にも漆間姓があったのです。漆間姓は非常にめずらしいものですから、舜青寺さんがそうであることを知ったときには、真っ先に「法然上人とつながる血筋なのかも」と考えました。私がそんなことにこだわっても仕方ないのですが、相変わらず「在家の人」ですから気になっちゃうんです。それで先代の住職にたずねたことがあるのですが、「吉村君それが良く解らんのだよー」とのことでした。「関係あるとは思われるが、今となっては調べようが無いんだ。しかし私も西山の坊さんだから、漆間の姓に誇りをもって生きて来たつもりだよ」です。実に正直な方です。普通ならよく分んなくても「そうだ」と言いたくなるケースです。先代はそういわれていましたが、私にしてみれば絶対に間違いないと思います。だって舜青寺さんのところは先代も現住職も、そして子供さんもみんな教師です。住職の息子さんは赤門の大学(解りますよね、法然上人の時代の比叡山と同じです。国内の最高学府です)に進まれています。ものすごく優秀な家系なのです。これって正に法然さんの血筋だからでしょう。私は勝手に納得しています。それに比べると我が息子の将来は不安であります。親が親だから仕方ないのですけど。こんなこと書いてるとまた笑われそうです。そうです西山上人のあの御法語「機根つたなくとも卑下するべからず・・・いたずらに機の善悪を論じて仏の強縁を忘るることなかれ」であります。反省。

本山総門.jpg

舜青寺の先代は小柄でしたが、いかにもお坊さんらしくて威厳のある方でした。外出の際には茶人帽を愛用されていました。その姿が絵になっていて、私も年を取ったらあんな風になりたいものだと思ったものです。塔婆回向の読み上げ方が格調高くて、実に雰囲気のあるご上人でした。そしてお話がお上手な方でもありました。私は先代のお説教の録音を持っています。それは遷化される2年前の夏でした。組内の施餓鬼会でご一緒したのですが、法要の途中で施餓鬼供養のいわれについて講演をされました。私を含め他の僧呂はその間休憩をさせて頂いたのです。録音したものを後から聞くと、その語り口はまるで講談師のようにメリハリがあって印象的でした。佳境に入るとちょっぴり芝居がかった話し方になってとても面白かった。すっかり引き込まれてしまいました。先代は私が坊さんになる数年前に舜青寺を再建されています。建て替え前は山寺光明寺といい勝負くらいの古いものだったそうです。驚くことに本堂の欄間は先代がご自身で彫られたものです。のんびりしていることが苦手で、仕事をしていた方が落ち着くといわれます。いかにも戦前生まれらしい御仁でした。現在舜青寺の庭にある多数の樹木は先代が常日頃からお世話されていたものです。いつ行っても手入れが行き届いていました。まるで庭師のような方でもありました。

私が初めて舜青寺を訪れたのは、僧呂を目指すことになり本山へ提出する関係書類へ法類である先代の捺印を頂きに伺った時です。初対面でしたが、先代ご夫婦は大歓迎して下さいました。署名捺印はそこそこに、コタツに入って長時間いろんな話を聞かせて下さいました。山寺光明寺と舜青寺の縁の深さなども詳しく伺いました。「よく坊さんになる決心をしてくれたねー、私は光明寺のことがとても心配だったんだよ。うちとは特別の縁がある寺だからね、よかったよかった」と大変喜んで下さったものです。きっと我が光明寺の実情をよくご存じで、ご自身も大変苦労されて舜青寺を再建された方だったからこそ、格別の感慨を抱かれたのだろうと思います。生前先代はよく口にされていました。「自分はもう思い残すことはない。住職としてやりたいことはみんなやったような気がする」です。その言葉を残して本当に突然旅立たれました。ある意味たいへん羨ましくも思えます。ご一緒できたのはわずか4年少々でしたが、私の記憶に深く残るご上人でした。

さて、現住職は実に見事な字を書かれるところは先代譲りですが、庭木の剪定などはしたこともなかったそうです。だから残された樹木の管理は大変です。「父の残した庭木の管理は大変だー」といわれます。まったくその通りでしょう。先生あまり無理しないで下さい。
 

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