こだわり住職のよもやま話

2012年

大日祭・花祭りを終えて

2012年05月19日

平成24年春の山桜老木.jpg

大日祭と花祭りが終了して三週間が過ぎました。次の行事は7月16日の夏法座になります。ここ最近はお暇だったので、寺の背後に広がる霊場の森で一昨年発見した大桜の管理に励んでいました。 周囲の立木の伐採と後かたづけはほぼ終了です。今では遠くからでもこの大桜がよく見えるようになっています。今春の写真を掲載します。長年雑木に取り囲まれて日当たりが悪かったので花は頂上にしか咲いていません。しかし今では日当たり最高になっていますから、きっと桜も驚いていることでしょう。おかげさまで、今年は花が終了した直後から低い位置でも盛んに芽吹いています。数年後にはこんもりと茂って立派な姿になってくれるのではないでしょうか。昨日は傷んだ部分の切除と切断面の殺菌をやりました。高い所まで登っての作業でしたから想像以上に怖かった。高所恐怖症の私にとっては勇気のいる作業でした。ついでに全体の消毒もしてやると良いのですが、いかんせん背が高すぎて不可能でした。少々残念ですが、それでも植物は手を加えてやれば必ず答えてくれますからやりがいがあります。

平成24年大日祭.jpg

さて、遅くなりましたが大日祭と花祭りの様子を掲載します。9月早々には本堂の解体工事が始まるので、現本堂での開催は今回が最後となります。昨年も書いたと思いますが、この日ばかりはいつもと違って、じじばば専門のお寺にちびっ子達が沢山やって来てくれます。元気いっぱいな子供達をながめていると心がなごみます。

花祭りの子供達.jpg

今年も最後に行われるもちまき(菓子まき)の争奪戦はすざまじかった。近年は「みなさん怪我をしなければ良いけど」と、とても心配しながらまいています。

平成24年花祭り.jpg

大日如来像のルーツを訪ねて

2012年04月21日

先月、村田義信さんのご案内で旧光明寺御本尊のルーツとされている場所をたずねました。本日はその時のことを書いてみます。山寺は信長の時代に浄土教寺院として復活を果たした歴史がありますが、もともとは長い歴史を持つ真言寺院でした。真言時代の光明寺が御本尊としていた仏さまは、村内の違う場所から移転してきた大日如来座像です。伝承によると、その如来像が最初に安置してあった場所は大日ケ浴と呼ばれる場所で、大昔から真言伽藍が栄えていた場所でした。行基菩薩由来とされるその如来は中心的なお堂に鎮座していたのですが、やがてこの伽藍群が荒廃したので、光明寺に移されて今日を迎えています。

ところで、私は旧光明寺(真言時代)の御本尊(大日如来)が最初に安置されていたという、大日ケ浴の現地調査をしたことはありませんでした。なぜなら場所を特定する情報が乏しくて、いきなり深い山中に入っていくには無理があったからです。今日、大日ケ浴という地名を耳にする事はありません。地元の古老のみが知る、いわば「だいたいこの辺り」の情報しか残っていません。しかし機会があればいつかはきちんと調べてみたいと思っていました。今回ご案内下さった村田さんは2代前の責任総代さんです。村田さんによると最初に大日如来があったとされる「大日ケ浴」の地名は地元旧家の古地図や土地台帳に残っているそうです。村田さん自身も近所の古老から伝え聞いた記憶があり、以前から調査してみたいと思われていたそうです。これらの情報を手かがりに独自に山中を訪ね歩いてみた結果、ほぼ間違いないと思われる場所が最近特定できたと伺っていました。それで「ぜひ連れて行って下さい」という話しになっていたのです。

大日ケ浴の前を流れる原川.jpg

その日は朝から良い天気でした。村田さんから「今日いってみようか?」と連絡があったので早速ご自宅を訪ねました。到着するなり我々は軽トラに乗り換えて、原川に平行して延びる細い道を進みました。途中で軽トラを乗り捨て、その先からは大日ケ浴の谷間を登って行きます。その谷には小さな沢が流れていました。水量はわずかですが、この小さな沢こそ大昔の伽藍跡をたずねる重要な手がかりでした。太古から真言伽藍などがあったとされる場所には、必ず何がしかの水源があるものです。俗世を離れて山中のお堂で修行するにしても水が無いと長期間の滞在は難しくなります。だから古い寺院跡の近くには必ず湧き水や沢などがあるものです。現光明寺も大昔から真言伽藍があった場所ですから背後の草場山を水源とする湧き水があります。

大日ケ浴の沢.jpg

我々はその沢に沿ってひたすら登って行きました。崩れやすい急斜面や倒木に何度も行く手を阻まれ、そのたびに迂回しながらのハードな道中でしたから、大汗をかくことになりました。頂上のすぐ近くまで登ると目当ての場所が突然出現しました。写真では解りにくいですが、村田さんの足元は2㍍位の法面になっています。周囲はまだ斜面に囲まれているのですが、奥に向かって段々畑の跡のような敷地が複数ありました。明らかに人の手が加えられていたと思われる場所です。なるほど、この地形ならば大昔に真言伽藍が建っていたり、あるいはこの地で修行していた僧侶の耕作地跡の可能性が高いと思われます。それにしても、よくここを発見されたものであります。

大昔の耕作地跡.jpg

さて、そうなると、次は大日如来が鎮座していたお堂の場所の捜索です。伝承では大日ケ浴の荒廃したお堂に残されていた大日如来の額から草場山の麓に一筋の光明が放たれたので、これを見た里人は如来のお告げであると感じ、光明が指し示した場所にあった真言伽藍(現光明寺)に大日尊を移動させたのだといいます。となると、そのお堂の位置からは草場山の西側稜線がしっかりと見えなければなりません。この場所はほぼ真北向きでまだ草場山の西側稜線方向は開けていません。よって畑の跡地あるいは諸堂が建っていたかもしれないこの場所から、左手後方(南東)へ進んだ場所が該当することになります。さっそくその方向へ登って行くと、ゆるやかな稜線の頂上が現れました。ここまで登ると木立の間から東西へ走る中国道が見下ろせ、ほぼ正面に草場山が見えます。周囲を調べると遺構らしき石積みの跡があり、写真の様な平らな場所が何カ所かありました。ここなら光明寺の方角へ一筋の光明が放たれた時に、大日尊が鎮座していたお堂が建っていた場所として少しも不自然ではありません。いやむしろ見事に伝承と合致します。

大日ケ浴の真言古跡.jpg

今となっては確かな証拠を発見することは無理でしょう。だからこの場所に大日尊のお堂が建っていたことはたぶん証明出来ません。しかし、つじつまは見事に合っています。そもそもこの手の検証作業というのはある意味とても壮大なロマンですから、ここまで来れたら充分でしょう。村田さんはこの場所も一人で見つけられていたのです。すごいですよね。おそれいりました。映画インディ・ジョーンズの主人公(ハリソン・フォード主演)みたいなおじさんです。

見習わないといけません

2012年03月16日

大分県竹田市 西光寺 泰 .jpg

今年の彼岸会は、春休みで帰って来た息子とおつとめを行うことが出来ました。毎年この法要はお説教を聞いて頂くのがメインとなります。だから勤行は短めとなり、正座がひときは苦手な息子も最後まで格好が付きました。肝心の読経もそこそこ形になっていました。親としては少々嬉しい一日でした。ただしメロディーのつく往生礼賛偈はまだまだです。彼には「長谷川先生の録音を夢に出て来るほど聴かんとダメだ」と言っています。それこそ、口を酸っぱくして言い聞かせているのですが、どっこい、ご当人は父親のように必要に迫られて必死で覚えようとしている訳ではありませんから、やっぱあきません。大勢の前で一人で読経する状況にでも追い込まれないとスイッチは入らないのでしょう。

おつとめの後はお待ちかねのお説教となりました。今回は大分県竹田市の西光寺、泰 正純師のご法話です。まだお若いのですが、非常にゆったりとした語りで実に優しいしゃべり方をされるお坊さんです。ご自分でも言われるように、実年齢よりもはるかに若く見える方です。法話の結びに話されていた言葉がとりわけ印象に残りました。「本日、私はみなさまの前でお話をさせて頂きましたが、お説教が上手に出来るから、ここ(高座)に上がっているわけではありません。まだまだ上手に出来ないからこそ、こうやってみなさまとのご縁を頂き、お勉強をさせて頂いているのです」。実に謙虚なお坊さんであります。歳だけは食ってますが、修行の足らん私には深い言葉でした。見習わないといけませんね。次の行事は4月29日の大日祭です。それまで山寺はしばらく静かな日々となります。

一周忌に思う

2012年03月10日

奇跡の一本松.jpg

一年前、私は「被災者のみなさんに救いをもたらすのは、数え切れない多くの人々の思いと具体的な行動であり、そして、そこから生まれる感謝の思い、ありがとうの心が、明日への希望につながるのだと信じたい」と書きました。振り返るとなんと早い一年だったことでしょう。明日は被災された人々のために、「何が出来、何が出来なかったのか」と自問する一日になります。

あの大震災は、おそらく日本人の価値観や人生観に大きな影響を与えたはずです。僧職にある私にとっても、これほど菩薩道を意識させられた一年はありませんでした。年頭に頂いた御法主の「おことば」にも、「そもそも我が宗の御教えは、阿弥陀仏の大慈悲心をいただいて菩薩道を実践する所にあります。」と、見事なまでに簡潔明瞭なご教示がありました。それなのに、現実は「大したことも出来なかった...」と、後悔の念が強く残ったまま特別な日を迎えようとしています。

明日は多くの方々の一周忌です。あらためてみなさまのご冥福をお祈りし、私なりに出来ることを模索する再出発の日にしたいと思います。

生前戒名のありがたみ

2012年03月02日

剃度式のおかみそり.jpg

本日は生前戒名について書いてみます。間もなく山本勝正さん・睦美さんご夫婦に、昨年からお約束していた戒名の授与式を実施することになるからです。暦も3月となりました。いよいよ春も間近です。「温かくなったらやりましょうね」と云っておりましたから、そろそろ実施日を決めるタイミングです。さて、いつ頃にしましょうかね。授与式は本堂で行うので天候を気にする必要はありませんが、それでもやっぱり、お天気になるといいですよね。春だし、ウグイスのさえずりが聞こえる日に、厳かに授与できたら最高ですからね。

戒名の生前授与といえば、初めてさせて頂いたのは昨年のことでした。サラリーマン時代にお世話になった加藤正利さん・佳代子さんご夫妻への授与でした。本山(京都)へ所用で出向くことになった際に名古屋まで足をのばして、きっちり授与させてい頂きました。今回もご夫婦ですから、お二人にふさわしい戒名をお送りしたいと思っております。

ところで、生前戒名は今日ではまれなケースです。「生きているうちから戒名?、それって、人が亡くなってからの話しでしょう」と思われてる方も多いでしょうね。かくゆうこの私も、僧侶になるまではなんとなくそう思っていた一人でした。しかしこれって、本来とても良い事なんです。仏教の本来あるべき姿からすると正道なんですよ。

戒名を頂くということは、僧名を頂戴することです。そして、授与して下さる僧侶のお弟子さんになることでもあります。多くの宗派では、葬儀を行う際には、剃度式という出家の儀式(お坊さんになる儀式)を行って戒名を授与した後に、お送りすることになります。私の場合ですと、まず實空俊徳(私)の弟子になって頂くわけです。そしてそれは、私に法脈を授けて下さった前法主、憲空文有上人如道大和尚様のお弟子になって頂くことでもあります。さらには、流祖西山上人、宗祖法然上人、そしてお釈迦様へとつながる、仏弟子になって頂くことでもあるのです。我が宗派では、葬儀の際にはそういう手順を踏んだ後に引導をお渡しして阿弥陀様のもとへとお送りしています。ですから、人が亡くなると必ずお坊さんになって頂く儀式が行われます。ある意味、いたって形式的なものかもしれません。しかし、僧侶になってからあの世へ行くという考え方は、多くの宗派で受け継がれている重要な儀式なのです。

くどいですが、生前に戒名を頂戴するということは、仏教徒として大変喜ばしい事です。なぜなら、僧名を頂くことで我々は仏教徒としての自覚に目覚め、有意義な日々を送るご縁を頂くことになるからです。「僧名を頂戴したこの身だから、今頂いているこの命を大切にして生きて行こうではないか。そして、仏教の説く利他の精神、菩薩の生き方を心がけなくちゃ」と、意識することにつながるのです。要するに、そうなって頂く為の戒名授与なのです。

ATOKがリニューアル

2012年02月11日

 

ATOK2012.jpg

日本語入力システムの草分け、ジャストシステムのFEP(日本語入力システム)ATOKがバージョンアップしました。昨日より出荷が始まっています。速攻で入手したので、さっそくインストールしてこの記事を書いています。今回のバージョンでは変換エンジンが全面刷新されており、さらに賢くなっているようです。まだ使い始めたばかりなので、確かな実感はありませんが、長年愛用してきたユーザーの一人として、特別の感慨を覚えます。私がこのFEPを使い始めたのは、MS-DOS時代の一太郎Ver3に搭載されていたATOK6からでした。今回の製品パッケージに添付されていた、ATOKの歴史を紹介するパンフレットによると、ATOK6が発売されたのは1987年6月ですから、およそ25年も昔のことになります。当時のことが思い出されて、なんだか無性に懐かしくなりました。オヤジになった証拠ですね。

ATOKといえば、その次に出た一太郎Ver4に搭載されたATOK7が、私にとっては特に思い出深いFEPです。NECの98シリーズに5インチのフロッピーを差し込んで起動させ、仕事で使い倒したものです。ATOK7が搭載された一太郎Ver4は、仕事に使えるパソコン用の日本語ワードプロセッサーとして、圧倒的な支持を集めました。パソコンワープロといえば一太郎であり、日本語入力といえばATOKの時代がしばらく続きました。ただし、その当時、日本語入力システムとしては、ATOK以外のプログラムも多数存在していました。だから、ユーザーは自分の好みで、FEPをあれこれ選択できる楽しい時代でもありました。パソコン雑誌には、それらの比較記事などがたびたび掲載され、好き者は「FEPこれが一番だ。いやこっちの方が効率が上だろ。自分には○○の操作性が一番だ」などと、勝手な批評をして盛り上がったものです。かくゆう私も見事なオタクぶりで、松茸、VJE、WX、OAK、などと、およそ出回っていたFEPは一通り入手して、随分使い込んでみました。今思えば古きよき時代でした。

ところが、Windowsの時代になると、マイクロソフトが「Microsoft IME」(当初は「MS-IME」と呼ばれた)を標準搭載するようになり、日本語入力システムをわざわざ別に購入しなくても良くなりました。マイクロソフトのFEPで良しとするなら、見かけ上はタダです。だから世間では「まあ、これでいいかー」となって来て、やがてほとんどのFEPが淘汰されて行きました。PCが特殊な道具では無く、オフイスワークに欠かせないツール(事務機)となって行くにつれて、圧倒的なシェアを誇っていた一太郎とATOKの牙城はあっけなく崩れ去って行きました。民間企業では、いち早くワードとエクセルが事実上の標準ソフトとなり、最後まで残っていた官庁関係の文書も、結局一太郎文書からワード文書へと次々に移行しました。結果、我が国のオフィスでは、マイクロソフトのアプリ無しでは、日々の業務が進行しない状況になったのです。

確かに、マイクロソフトがFEPを標準添付するようになったことは、我々エンドユーザーにとっては良かったことかもしれません。しかし、現在、Windowsマシンで使用できる日本語入力プログラムで、圧倒的なシェアを誇るMicrosoft IME以外を選択するとなると、ジャストシステムのATOKが実質的に唯一の存在です。富士通のOAKも一応ありますが、何年もバージョンアップが行われておらず、開発は止まっているようです。次期Windows8への対応も行われるかどうか解りません。ですから、多くの日本人は、今後もマイクロソフトのIME(FEP)を頼りにすることになります。しかしながら、このFEPが、あまり賢くない(と思っている)ので、私は今も頑固にATOKなのです。マイクロソフトの最新IMEが、どの程度かは解りません。実は近年はまったく使っていません。だから、えらそうなことは言えないのですが。過去に使い比べてきた経験からいうと、どの時代でも明らかにATOKの勝ちでしたから、今でも間違いないと思っています。大多数の方はマイクロソフトのFEPで、なんら不都合はないと思います。しかし、日本語の入力を行う際に、絶対不可欠なプログラムであるFEPで、選択の余地が無くなるのは、やはり好ましいことではないでしょう。それと、私のように長年ATOKを愛用しているユーザーが、まだまだ少なからず存在しているのですから、ジャストシステムには今後も頑張って開発を続けて行って頂きたいものです。皆さん、ATOKって、とても優秀なプログラムです。まだ使ったことのない方は、一度騙されたと思って触ってみてください。使い勝手の良さに驚かれるはずです。

さすがに大寒です

2012年01月26日

御忌会お説教.jpg

大寒以降はとても寒い日が続いています。列島各地で記録的な大雪になっていますが、今年も自然の脅威を思い知らされる年になるのでしょうか。どうか穏やかな一年になって欲しいものです。山寺では、大寒の前日(20日)に御忌会を開催しました。この法要は、法然上人がお亡くなりになられた日(建暦2年1月25日)を期して行われる、上人のご遺徳を偲ぶ忌日法要です。勤行の冒頭では歎徳之疏を読み上げ、参詣者一同で上人の恩德に感謝しながら誦経念仏の法楽を捧げさせて頂きました。

さて、例年のことですが今年の御忌会も見事な寒行でした。なんてったって本堂が本堂ですから、ありったけのストーブを持ち出していても、ちっとも温かくなりません。参拝のみなさんも心得たもので、だるまのように着込んで重装備です。今秋には建て替え工事に入りますから、現本堂での御忌会はこれが最後となります。ですから、この寒さもある意味貴重かもしれません。おそらく数年後には、「昔はめちゃくちゃ寒かったねー」などと、懐かしく思うことになるでしょう。当日、私のお経は「はい、これで終了」と、超短縮バージョンにしました。それというのも、今年の御忌会は、1年前から予約していた、舜青寺住職(漆間朋道師)のお説教を聞いて頂くのがメインだからです。前席では法然上人の一代記をご披露して頂き、後席では、ご住職の人柄が滲み出た示唆に富んだ話しをたっぷり聞かせて頂きました。お説教師にはいろんなタイプの方がおられますが、ご住職のゆったりとした語り口は、中高年向けの見事なものです。初めて聴かせて頂いた義母も、「とても解りやすくてよかった」と、至極ご満悦でした。私にしてみれば予想通りで、してやったりであります。参拝された皆さんも、この寒い中を、がんばってお寺に参ったかいがあったことでしょう。よかったですね。

来年は本堂の工事中ですから御忌会は開催されません。しかし、再来年の御忌をどうするかを、今からじっくり思案しなければなりません。なんてったて、今年が良すぎた。だから次回はハードルが相当高くなります。私のつまらん話しでは、皆さんをがっかりさせてしまいかねません。うーん困りました。でも、2年先の話しですし、今年のことなんて、みんな忘れてるかもしれません。きっとそうです。そうにちがいない。だから大丈夫だわ。(笑って下さい)

今年はお墓が建たない?

2012年01月15日

江戸期閏月の過去帳.jpg

今年は閏年なので墓石店の売り上げが落ち込むかもしれません。それというのも、当地方でば「閏年の墓石建立は避けたほうが良い」という考え方があるからです。どうやら、九州や西日本地区でいわれているようなのですが、そもそも仏教の教えに、そんな考え方は全くありません。面白いのは、逆に閏年こそ墓石店が忙しくなる地方もあるそうで、少々不思議な慣習です。これまで大して気にしていませんでしたが、考えて見れば、この「閏年にどうのこうの」という、いわば摩訶不思議な迷信について、私自身もきちんと説明することが出来ません。それで調べてみたら次のようなことが解って来ました。

要約すると次のようになります。わが国では長く太陰太陽暦(旧暦)が使用されていたので、太陽の動きとの誤差を調整するため、1年が13ケ月になる年が時々ありました。旧暦の一年は354日、閏月のある年は384日と、年によってまちまちでした。それで、季節の移り変わりと大きな食い違いが出ないようにと、何年かに一回閏月を入れて一年13ヶ月にして調整していたのです。ところで、江戸時代の武士などの給金は、基本的に年俸制でした。ですから、閏年になると1ヶ月余分にやりくりしなければなりません。現実問題として平年よりも節約しないとやっていけない訳です。それで閏年に節約の習慣が生まれます。「閏年は仏壇の新調をさけるように」などというおふれを、藩主が出すところもあったそうです。この制約は、やがて本来の意味が忘れられて形式だけが残ってゆきました。そして、「閏年に墓や仏壇を新調すると悪いことが起こる」などと、意味を取り違えて伝えらるようになったらしいのです。前記の通り、主に九州や西日本で、そういう考え方が広まったらしいのですが、一方、閏年に縁起が良いと考える地方は、閏年を「うるおう年」と解釈するのだといいます。

ふーん、なるほど。おもしろい話しですね。日本人は縁起かつぎが好きですから、そうなっちゃうんでしょうね。旧暦の時代だと、本当にまるまる1ケ月余分にやりくりしなければいけなかったのですから、どこかの藩主が出したらしい「おふれ」にも大いに意味がありました。でも、今日、閏年は2月が1日増えるだけですから意味のないことですよね。ちょっと利口になりました。まれに「閏年にお墓を建てたらいけないの?」と聞かれることがありますが、気にする必要のない迷信であることを、今後はきちんと説明してあげられそうです。

蛇足ですが、光明寺の過去帳をパラパラめくると、閏月に亡くなった方の記載が結構あることに気づきます。新たな発見でした。

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