こだわり住職のよもやま話

2012年

武士は食わねど高楊枝

2012年12月26日

本堂大屋根完成間近.jpg

上棟式以降連日寒い日が続いていますが、大工さん達はこの寒風の中でも頑張って下っています。今では屋根の形もはっきりして来ました。ここまで来ると遠くから眺めても随分お寺らしく見えます。貧乏寺の予算を考えると、正直想像以上に立派な建物になりつつあるので驚いています。これもそれも無理な予算で引き受けて下さった久谷建築(下関市清末鞍馬三丁目)の社長さん(下写真中央・久谷哲雄氏)のおかげです。本当にありがたいことです。社長さんは幼いころから山寺をご存じでした。「私は子供の頃に親に連れられて大日祭に来たことが何度かありましてね。実に懐かしいですよ」「当時は大変な人出で、そりやー賑やかでしたよ。テキ屋も沢山ならんでいましたからね。お小遣いを握りしめて参ったものですよ.....」。山寺の住職は隣町に生まれ育ったのですが、残念ながら大日祭に来たことはありませんでした。初めてお会いしたとき、懐かしそうに目を輝かせながら当時のことを語られる社長さんの姿を見ていますと、当時をまったく知らないこの私も、まるで自分のことのように嬉しくなったものです。

久谷社長.jpg

現在山寺は本堂がモデルチェンジ中なので寺の行事がありません。いわば開店休業状態です。私は工事の様子を写真に納めるのが日課です。「今度は暖房がバッチリ効くぞー。早く完成してくれんかなー」と心待ちにしながらシャッターを切っています。ただし、完成したら完成したで今度はこのお寺を維持していかなくちゃなリません。バラ色の日々だけが待っているわけでは無いでしょうから、たぶん今が一番幸せな瞬間ですね。

光明寺の山門

ところで、山寺には本来なら本堂の建て替えと同時にどうにかしたいなと思いながら、今回は訳あって一切手を付けずにそのまま残した建物があります。(「訳あって」なんて実にもったいつけた言い回しですが本音を言えば「単にお金が無い」だけです)それは山寺の歴史を今日に伝える最古の建造物です。「中途半端な改築や新築はしたくないなー、いやするべきではないな」と思えるからなんです。建て替えになった本堂は240年くらい前のものですが、これよりもはるかに古いのが山寺の山門です。江戸中期の清末藩の古文書にも「建立時期は不明」と記されています。

山寺山門の鬼瓦.jpg

その山門というのが実に不思議な建物なのです。以前から私は「こんな山寺には不釣り合いな贅沢な山門だなー」と思っていました。近代に補修をしているので、今でこそ、その山門にはごく普通の瓦がのっかっていますが一部には大昔の本瓦が残っています。かって補修工事をした際に取り外した瓦の一部は旧本堂の床下に沢山ころがっていました。(今回旧本堂を解体する際に発見しました)小さなものですが寺の規模からすると彫刻が異常に立派なんです。それから天井には彩色画がはめ込んでありますし極めつけは頂上の鬼瓦です。よく見るとあろうことか菊のご紋が入っていました。(山寺の住職は不覚にも今年になってこの紋を認識した。どうして今まで気づかなかったんだろ)写真では解りづらいですが金が塗ってあったようです。初めて気づいた時には「えー嘘でしょー」って思いました。そして「あっ、これだー」と叫んだのです。

山門石碑の謎の文字.jpg

実は山門の前の石碑に意味がよく解らない不思議な文字がありました。ずっとその意味するところが理解出来ずにモヤモヤしていた経緯があったのですが、鬼瓦の紋とこの文字との重要なつながりに、はっと気づいて少々驚いたのです。不思議な文字とは「勅許苾芻県」です。勅許とあるのはやはり「朝廷から許可を頂いている」の意なんでしょう。この二文字は以前からほぼ判読出来ていました。しかしその次の苾芻県という部分は長い間読み取れていませんでした。ところが、建て替え工事の都合で石碑を一時移動させることになり、その際に洗浄等を行ったところようやく判読出来そうな状態になったのです。苾芻は「ビツシユ或いはヒツスウ」と読みます。漢和辞典で調べると梵語(Bhiksu)の音訳で僧呂の意とあります。最後の文字はやや不安が残るのですが、「県」で正しければ、おそらく「あがた」の意で彫られた文字ではないでしょうか。あがたとは「昔、諸国にあった朝廷の御料地」の意です。これらの文字の意味しているところをふまえた上で鬼瓦のご紋を前にしたら、「なるほどそうだったのか」と私が思ったのは理解して頂けるのではないでしょうか。※後日この記事にある「勅許苾芻県」は「勅許苾芻某」の誤りであることが判明します。その経緯は文末に追記しております。

この山門が建立されたであろう当時、菊のご紋を掲げるということは大変なことだったはずです。勝手につけちゃうなんてありえない時代です。「首が飛ぶぞ」ってだれかが言ってたけど、確かにその通りでしょう。私がこの山寺に首を突っ込むことになった当初、地元の古老がよく言ってました。「あんたんところの寺は歴史が古くて立派な寺なんやから頑張りんさいや。あんたの代でまた栄えさせんにゃ」なんてね。うーん。あながち嘘ではなかったのかも。でもね、そうは言っても現状を考えると、こういうのって「過去の栄光」であります。まあ「武士は食わねど高楊枝」って言葉もあることだし、気持ちだけは胸を張って山寺の坊さんやっていきましょう。

※先日(H29.10.21メールにて)このブログを見て下さった東京都の"ひしきまこと"様より貴重な情報を得ることが出来ました。この記事をアップした当時、私は石碑の文字をあれこれ悩みながら結局「勅許苾芻県」と読んでいたのですが、最後の一文字は「某」じゃないですかとご連絡を頂きました。メールには(以下原文のまま)"山口苾という人物検索しておりましたらこちらへたどり着きました。公孫樹と紅葉が品のよいお堂に映えてますね。菊紋と「勅許」のお話拝見しました。最後の県と読んでおられる文字は僕には「某」のように見えます。遠慮して「なにくれ」に勅許あったという意味ではないかと存じますがいかが?"でありました。

嬉しかったですねー。浅学な坊さんが勝手気ままに書いてるプログなんですが、きっちり読んで私の間違いを連絡して下さる方がおられたのです。ありがたいことです。ネットの力ってすごいですね。指摘を受けて「なるほどこれが正しいんだ」と、私もようやく腑に落ちました。私が安易に「県」と解釈してしまった(そう思いたかった)のは、実はそれなりに背景がありました。山寺は廃寺寸前の小寺なのに背後の山林や周囲の田畑などの寺領が不釣り合いに広いからです。しかも背後の山は隣のお宮の社有林と隣接して分け合っています。「どうしてこんなに広い土地を所有してるんだろ、理解に苦しむなー、権力者から拝領した土地なのかもしれないなー?」でした。そのやたらと広い敷地の管理に私は苦労(草刈りが大変です)しているわけです。このことにこだわりすぎていたようです。それと、古い時代の墓石等を観察すると文字が省略して掘られているケースが(経年の影響で一部が消えているケースもある)多いので「縦棒や横棒の一本くらい抜けていても想像力で読むしかない」との思いが強かったということもありました。

あらためて写真をじっくり観察すると(今現在、設置してある石碑はこれほど読みやすい状態ではありません)最後の文字は、やっぱり「某」ですね。ようやく山寺の石碑文字が確定です。ひしき様、本当に有り難うございました。

思うに山寺の不釣り合いな山門は移設されたものかもしれません。たとえば門跡寺院(皇室関係の人物が住職になるお寺)からの移設(要するに頂き物ですね)でしたら、菊のご紋が入っているのはすこぶる納得できる話しになりますしね。今となっては調べようもありませんが、周囲に迷惑をかけるって訳でもありませんから、勝手に想像を膨らませてみるのも悪くはないでしょう。

渾身の力作(棟札)

2012年12月16日

上棟式棟札.jpg

本日も12月9日の上棟式に関連した話題です。実は今回の上棟に当たって山寺の住職が一番しびれたのは棟札の制作でした。お寺の本堂など、この手の建造物には屋根裏に立派な棟札を取り付けるのが習わしですが、この棟札ってやつ、山寺のような小寺では当然住職が書くことになります。(誰もかわりに書いてはくれませんから)私にしてみれば、たまたま当事者になってしまっただけなのですが、(失言)そうは言っても約240年ぶりの大事業です。おそらく今回設置される棟札も永く残ることになるでしょう。きっと後世の人々が、「ほおー、この本堂は實空俊徳和尚の代に再建していたんだー」なんて、この板を眺めながらつぶやくことになるのです。要するに私が書いた筆文字がずーっと残るんです。だからプレッシャーは大きかったのであります。常日頃から卒塔婆には筆で書いています。しかしそれはいつまでも残るわけじゃないですから救われます。でも棟札はずーっとです。「あーいゃだなー。全然自信ないのに....」と気が重かった。おまけに久谷建築の大工さんが、めちゃめちゃ立派な札板を用意して下さったのでよけいに気は重くなりました。まるで高級料亭のまな板みたいなブツです。長さは約110㌢厚みは4㌢もあります。この立派な板に「さあ、どうぞお書き下さい」ですから尻込みするのも当然でしょう。超立派な板を前にして私はなんだか追い詰められた気分でした。どう考えてもこの板に恥じないような文字を書くなんて出来るはずがないのであります。それで、いろいろ考えた末に策を講じて書き上げたのがご覧の写真です。(こちらは表側です)結論からいうと、うまいこと誤魔化すことができたのでやれやれでした。

山寺住職の策略は次の通りでした。自分は書道の基本が出来ていませんから、止めや跳ね払いが重要な書体は無理です。通常の楷書や行書では絶対に良い字は書けません。そこで、私はまず最初に一般的ではない特殊な書体(要するに上手下手が判断しにくい書体)で書くことにしました。この条件にマッチする書体として選択したのが写真の「隷書体」です。ただし、制作工程に入ると最大の課題は下書きをどうするかでした。いくら止めや払いのテクニックが目立たない書体だといっても、私にいきなり隷書が書きこなせるはずもありません。下書きを書いてそれをなぞるようにして仕上げるしかないでしょう。ちょうど小学校のお習字の時間に、先生が書いて下さったお手本や、あらかじめ用意してあったお手本に、半紙を重ねてなぞるように何度も書いて練習していた「あの手」を使うしかないのです。ですから、いかにして「下書きを板に書き込むか」が重要です。

実際この工程が最も時間がかかり、疲れる作業でした。私がやったインチキな方法は次の通りです。まず紙で等倍の見本をつくります。パソコンで印刷して作っちゃいました。これを板の上に載せて等倍の見本と板の間にカーボン紙を入れて輪郭を上からなぞるのです。(小さい文字は無理です。大きな文字なら輪郭までなぞれます)その際には力加減が少々難しいですが、うっすらと見本が転写できたら成功です。後は気合いを入れて筆で一気に書き上げます。自分で言うのもなんですが、やってみたら想像以上に上手く出来たので驚いています。

ところで後日すっかり上機嫌の私は、自分にとっては「渾身の力作」とでもいうべきこの棟札を、内心自慢したくて妻に制作過程の苦労話をしました。「恵美ちゃん棟札出来たよ。見てくれる?ずーっと後まで僕が書いた字が残るから恥ずかしい字は書けんし、すんごい苦労したよ。これこれ、こうやってさ....、下書きを上手に写すのが一番のポイントでねー」なんてね。すると妻の反応は私の予想に反して少々意外なものでした。「無事完成してよかったわね。ご苦労様」(ここまでは予想どおりである)「ところでお父さん。棟札って屋根裏に取り付けるものなんでしょ。だったら、この次に本堂が建て替えになるまで、それこそずーっと誰も目にすることは無いわけよね。だったらそんなにこだわって、そこまで時間かけなくてもよかったんとちがうの?」でした。「ぎくっ!」であります。確かにおっしゃる通りで妻の指摘は的を射ています。うーん。やっぱり私は必要以上にこだわっていたのかも。相変わらず執着から離れられない迷坊主です。

神がかり的な上棟式でした

2012年12月13日

上棟式その1.jpg

山寺は12月9日に本堂の上棟式を無事行うことが出来ました。本日はその報告をします。その日は朝から雪模様でした。当然上棟式で忙しい一日になるのですが、午前中は弘永家の法事が入っていたので、ひときはタイトな一日でした。早朝自宅から寺へ向かって車で移動していると雪がどんどん降って来ました。思わず「あー最悪だー」とつぶやいていました。でも、しかたありません。こうなったら後はひたすら天候の回復を祈るのみです。実家に立ち寄って法事の支度(坊さんの衣装に衣替え)を整えると、その足で寺に立ち寄って、まだ残っている準備や総代さんとの最後の打ち合わせを行いました。そうこうしていると、あっという間に時間は過ぎてゆき、後ろ髪を引かれるような思いで私は弘永家へと向かいました。上棟式は法事が済んで私が寺に帰ってきたらぶっつけ本番です。弘永家での読経が終わって会食の時間になると、私はお天気のことが気になってしかたありませんでした。せっかくのご馳走なのに、ちっとも味わえません。だって雪や雨だとメインイベントの餅撒きが台無しです。なんてったって今回のおもちは大奮発してるんですから、お天気は絶対に回復して頂かないと困ります。思わず天を仰いで「晴れろー、晴れろー」と念じました。

上棟式その2.jpg

さて、山寺住職の念力ですが、これがけっこう効いたようなんです。結果はタイトルの通りでした。上棟式開始の直前になると雲の切れ間から明るい日射しが差しこんで来て、少々神秘的な雰囲気の中で読経をすることになりました。こういうのを「奇跡的」とか「神ががり的」なんていうのかもしれません。きっと誰かさんの(もちろん私です)日頃の行いが良いからでしょうね。(妻は単なる偶然でしょうとおっしゃってました)

上棟式その3.jpg

上棟式には息子を出席させました。彼が光明寺の二十五世候補です。金曜夜遅くに新幹線で京都から帰省し、式に出席したその日の夜に帰って行きました。はたして彼はどんなことを思ったのでしょうか。お寺が建つということがどれだけ大事業なことかを、多少なりとも感じ取ってくれていたら良いのですが。いずれ君がこのお寺を守って行くことになるのです。がんばって下さいよ二十五世候補殿。

昭さん宅のお引っ越し

2012年10月21日

惠運西堂の墓石.jpg

以前、昭さん宅のお仏壇のことをネタにして記事を書きましたが、本日も再び藤井家のことで書きます。実は藤井家(藤井 昭さん)の累代墓が山寺の霊園に引っ越しすることになりました。現在そのお墓は地区の共同墓地に建っています。一応お墓のすぐそばまで車で行けますが、軽トラでないと少々ためらうような場所です。正直なところ今となっては良い場所とはいえません。草刈りなどの維持管理も大変ですし先はどうなるか解らない墓地です。それで思い切ってお引っ越ししようということになりました。今のお墓は昭さんのお父さんが昭和四十年に建立された累代墓です。山口県と島根県の県境、須佐町(ホルフェンス断層が有名で今は萩市と合併)付近から産出する須佐石で建てられた尺墓(仏石の巾が一尺ある)です。要するにかなり立派なお墓です。それで昭さんは悩んだ末に「新調ではなくて移転しよう」ということにされました。現実には新調した方が工事は簡単だし今時の使いやすくて小綺麗なお墓になるのですが、お父さんが建てられたこのお墓を廃棄して新しいのを建てるのは忍びなかったのです。気持ちは良く解ります。やっぱそうでしょうね。

それから藤井家には共同墓地にある累代墓とは別に御当家の古い墓地もありました。こちらには江戸期のお墓が残っていました。この墓石群もそのまま放置は忍びないので移設することになりました。幸い自分で持ち出すことが出来る場所でしたから、ご本人が軽トラに積み込んで山寺の霊園に運んで来られました。これはとってもラッキーなことです。墓石店にやってもらうと随分費用がかさみますからね。昭さんが持ち込んだ江戸期の墓は現在霊場霊園の資材置き場に仮置きしてあります。それで、これを機にご先祖の詳しい調査をすることになったのであります。

さて、藤井家には江戸期からの操出位牌がしっかり残っていました。札が存在するご先祖は寺の過去帳と照らし合わせて容易に確認する事ができます。しかし寺の過去帳でさかのぼれる時代よりもさらに古い位牌や札が残っていない墓石もありました。こちらは少々やっかいです。札に書かれた達筆な筆文字(判読が難しいのである)や古墓に刻まれている文字を丹念に読み取っていくしかありません。幸い墓石は霊園まで運搬済みです。山中の暗い墓地で文字を四苦八苦しながら読みとることを思えば随分助かります。おまけに、山寺の住職はすでにこの手の調査は何度も経験しています。そう、ずいぶん手慣れていらっしゃるわけです。(笑っていいですよ)そういうわけでほどなく完了しました。そして今回ちょっとした発見(いや、大発見かも)があったのです。

その発見とは、藤井家のご先祖に我が宗派の正式な僧侶がおられたことです。写真右側の戒名がその人です。亡くなったのは天明八申二月十九日です。戒名は亮空惠運西堂と刻まれており弱冠二十三才でした。左手の戒名は惠運西堂さんの母親です。惠運さんの兄、藤三さんが弟と母親の合祀墓を後年建立していました。このお墓に刻まれた戒名により、藤三さんの弟が正式な僧侶(それも西山の僧呂)であったことが解ったのです。

平成22年加行人.jpg

我が宗派では雪のちらつく三月に凍てつくような冷たい水を一日三回かぶり、あとはひたすら読経に明け暮れる厳しい修行をしないとお坊さんになれません。「加行」と呼ぶ厳しい修行です。私もなんとかクリアしたので山寺の坊さんになっていますが、正直なところ二度としたくない修行です。(問題発言でしょうね)その厳しい行を最後まで耐え抜いた者に与えられる僧侶のお免状には「○空○○西堂」と書かれています。○空は法然上人の僧名「源空」にちなんだ空号で○○は本来の僧名です。私の場合だと實空俊徳です。最後の西堂は正式な僧侶になった者に与えられる最初の階級です。ですからこの方が我が宗派の僧呂であったことは明白なのです。それとまだ正式な僧侶資格は取得していませんが山寺の住職に弟子入りして修業中だったご先祖のお墓もありました。(こちらの場合は墓石に○○法子と刻まれています)

藤井家に○空○○西堂と刻まれた墓石が存在するのを発見した時は驚きました。しかし、よくよく考えて見ればこれは必然であったのかもしれません。だって昭さんは「菩薩さん」ですからね。ーありがたや、ありがたや、「南無あきら菩薩様」

基礎工事進行中

2012年10月19日

基礎工事(床堀と砕石投入).jpg

本日から基礎のコンクリート打設が始まりました。砕石を敷いて防湿シートをかぶせた下地にポンプ車を使って生コン(捨てコン)がどんどん投入されました。このコンクリートが固まって落ち着いたら、次ぎは鉄筋の格子が敷かれて再び生コンが打設されます。いわゆるベタ基礎工法っていうやつですが、基礎の立ち上がり部分だけではなく、底板全体が鉄筋コンクリートになるので、上に乗っかる建物の荷重を底板全体で受け止める強固な基礎になります。床下は全て厚いコンクリートで覆われるので、地面から上がってくる湿気を防ぎますしシロアリの侵入も防げます。解体した旧本堂はずいぶん傾いていました。内陣の柱はシロアリでひどい状態になっていました。絶対ではないですがこれならリスクは大幅に軽減されることでしょう。基礎工事を行っているのは下関市の角谷セメント工業さんです。本堂の建て替え工事を依頼した久谷建築さんが手配した業者さんですが、実は50年前に山寺のブロック塀の施工をやられています。これもなにかのご縁でしょうね。工事が始まると山寺の機械がとても役に立ちました。一番最初の工程で床堀を行うのですが、角谷さんが持ち込んだ機械と山寺の機械の二台体制で工事が行えました。おかげで作業はとってもはかどっちゃったわけです。

基礎工事(捨てコン投入).jpg

それにしても角谷セメントさんはすごいです。めちゃくちゃ働かれますから驚きます。仕事は丁寧なのに実にスピーディーです。若社長と従業員の二人で早朝からバリバリやられるので思わず私もお手伝い(じゃまだったかも?)をしてしまいました。掘り取った土をダンプで何度も捨てに行くのですが、土砂の積み込み(機械でダンプに積む作業)なら私でも問題なく出来ますから応援させて頂きました。本堂の工事に参加できたのは良い思い出になります。

基礎工事(捨てコンならし).jpg

やはり寂しいものです

2012年09月28日

本堂解体№1.jpg

本堂の解体が終了しました。まさにあっという間の出来事でした。建てるときは随分長い期間を要したでしょうに、解体となるとわずか一週間で完了です。あっけないものですね。作業は養生作業から始まりました。まず太鼓橋とつながっている部分を切り離し、次に防護柵とネットが張られました。この作業が完了すると下準備は完了です。

本堂解体№2.jpg

準備が整うと南側からコマツのPC200がバリバリ壊して行きました。さすがにこのクラスになると大きいですね。約20トンあります。数年前に大型ダンプでも進入可能な入口と駐車場を整備していたのが幸いしました。もしもこれが無かったら今回の解体はとても困難なケースになったことでしょう。

本堂解体№3.jpg

なんとまあー急傾斜なこと。

本堂解体№4.jpg

見事に屋根がつぶれました。一番緊張する工程です。万が一周囲に崩れ落ちたら大変ですからね。この瞬間を私はお葬式が入ったので立ち会う事ができませんでした。残念です。その後は急ピッチで解体が進行しました。

本堂解体№5.jpg

屋根が落ちてからは、わずか1日でここまで進みました。

本堂解体№6.jpg

その後3日間で残骸の撤去は完了です。

本堂解体№7.jpg

みごとに更地になりました。こういうのを「跡形も無く」と言うんでしょうが、なんだか少々寂しくも思います。まあ自分は坊さんなんですから「諸行無常」の理をきっちり体験させて頂いたのだと思えば、これも貴重な修行です。下の写真は本日夕刻の山寺です。つい先日まで御本尊があった場所へ大銀杏の影が延びていました。

本堂解体№8.jpg

空っぽになりました

2012年09月06日

三尊宮殿の引っ越し.jpg

数百年ぶりの本格的な補修を実施するため、最後まで残っていた三尊宮殿や大欄間の引っ越しが終了しました。本堂は完全に空っぽです。山寺の宮殿は今から233年前になる安永八年に傳空上人が京都の職人さんに制作させて設置したものです。大欄間もおそらく同時期のものと思われます。いずれも月日を経たその痛み方は激しくて、特に三尊宮殿は「とても補修なんてできないだろうな」とつぶやきたくなるような状態でした。ところが縁あって引き受けてくれる所が見つかり、今月3日に業者さんの工房へと運ばれて行きました。補修を引き受けてくれたのは「(株)はせがわ美術工芸」という会社で、有名な「(株)はせがわ」の関連会社です。(株)はせがわといえば仏壇・仏具・墓石等を専門とする会社としては、小売、卸ともに業界最大手であり唯一の上場企業です。要するに泣く子も黙る(?)一流企業なのですが、その「はせがわ」グループ内で国宝・重要文化財の復原修理や寺院の荘厳工事等を担当しているのが、今回お願いすることになった(株)はせがわ美術工芸さんです。実際その実績は素晴らしいものがあります。ホームページを開くと超有名な大寺院の荘厳工事や国宝・重文の補修工事などを数多く手がけていることが解ります。そんなすごいところに田舎の小寺が生意気にも三尊宮殿・須弥壇そして大欄間の補修一式をお願いするようになったのですから嘘みたいな話しですが、これが本当なんです。

須弥壇の搬出

そもそもの発端は私の遠縁が(株)はせがわに在籍していたことです。(株)はせがわ 西日本寺社工芸部 副部長 折田哲之氏 この人がいたからです。祖母の実家(子供の頃何度か遊びに行ったことがある)の血筋の人で私とほぼ同年代です。私の実家にある仏壇は10年位前に折田氏のお世話で購入したものです。そういういきさつもあって山寺の宮殿の補修を考えもしなかった一流企業にお願いすることになったのですが、これもそれも祖母が引き寄せてくれた「ご縁」なのかもしれません。

大欄間の取り外し

すでに触れましたが、(株)はせがわさんのお話を伺うまで、私は三尊宮殿の補修をほぼ諦めていました。それというのも他の業者さんにはきっぱりと「難しいですね」といわれていたからです。ですから折田氏から「うちの関連会社なら充分可能ですよ」と、さらりと言われたときには「本当かいなー」と少々半信半疑でした。その後、はせがわ美術工芸さんの実績を詳しく知ることになり、やがて「あー本当だ。ここなら大丈夫なんだ」と思うようになったのです。しかし、そうなったらそうなったで、今度は「それだけ高度な技術を持っている会社なのだから当然お値段がねー」と情けない心配を始める始末です。そして「ああ、ここなら申し分ない。ぜひお願いしたい。ぜひとも。でも先立つものがー」でありました。まさに貧乏寺の悲哀をしみじみと感じることになるのです。

トラックに積み込まれた三尊宮殿

今回の商談交渉にあたって私の遠縁である折田氏は、いきなり「はせがわ美術工芸」のトップ(ようするに社長さんですね)である井上貫治氏と共に山寺へやってきました。その後も井上氏とは何度もお会いする機会を得ることとなり、そのお人柄に触れたことが結果的には最大の要因になったといえます。氏の仏教に対する造詣の深さと佛を敬う心の純粋さに、失礼ながら私はとても感心致しました。「仕事なんだから当たり前でしょう」と言ってしまえばそれまでですが、井上氏のそれは決して営業の為の姿勢ではないのです。この方は本物でした。サラリーマン時代はもとより住職となってからもさまざまな業者とお付き合いしてきましたが、営業の為にとりつくろっている人物は何度か会って注意深く観察すれば必ず分かります。心のある企業トップと親しくさせて頂いたおかげで、私はこの会社にお願いしたいと強く思うようになったのです。

完全に空っぽになりました.jpg

さて、最後にもう一人、触れておかねばならない方がいます。名刺からすると折田氏の部下ということでしょうか。(株)はせがわ 西日本寺社工芸部 係長 村嶋常人氏です。氏は今回の補修工事の実質的な担当者ですが、この方も仏教に深く関わる職業人として良い素性をお持ちの方です。先日私は村嶋氏のなにげない行動を目にしてつくづく思いました。それは村嶋氏が工事関係の諸連絡や確認のために山寺を訪れて用件が済んだので本堂を出ようとしていた時のことでした。本堂に迷い込んだトンボがガラス窓でもがいていました。それに気づいたご本人はヒョイと両手で包み込むようにトンボを捕らえて大事そうに本堂の階段まで運んだ後、手のひらをそっと広げて飛び去る姿をゆったりと見送くったのです。その光景は、まるで映画「火垂の墓」で清太がてのひらに包んだホタルを妹、節子の前で放つ場面にそっくりでした。その一部始終を目にした私は少々の驚きと、その後にわき出てきたなんともいえない嬉しさで、村嶋氏が去った後もしばらく余韻に浸りました。命を大切にする優しい心に触れた一時でした。私など典型的な破戒坊主ですから「村嶋氏の方がはるかに仏性がおありではないか・・・」と、少々恥ずかしく感じた出来事でした。

引っ越しぼぼ完了です

2012年08月23日

空っぽになった本堂.jpg

山寺は毎年8月3日に施餓鬼会が開催されます。その後の私は順番に開催されていく組寺の施餓会へ連日出席しながら、合間にお盆(前)のおつとめを続ける日々を送ります。例年なら盆明け以降はしばらくゆっくりできるはずなのですが、今年は本堂の建て替え工事が控えているのでそうは問屋が卸しませんでした。来月早々には本堂の解体工事が始まります。ですからただちに内部を空っぽにしなければなりません。お盆のお参りで酷使した膝をかばいながら、夏休みで帰省している息子と二人で仏具の運搬をひたすら続けました。仮本堂なんてとうてい望めない貧乏寺ですから、それらの移動先は既存の庫裏になります。本堂と庫裏をつなぐ太鼓橋を何度も何度も往復すること約4日間を要しました。移動の際にはとても神経を使います。ぶつけたり落下させて壊してしまったら取り返しがつきませんからね。

引っ越し作業応援団(責任総.jpg

19日には責任総代の応援で、息子と二人では動かせない重い物の移動もやりました。お三方大変ご苦労さまでした。ありがとう御座いました。

足の踏み場も無い庫裏.jpg

現在本堂に残っているのは、補修に出すので業者さんに移動してもらうことになる御本尊と三尊宮殿に須弥壇、そして大欄間のみです。一方、庫裏の和室はご覧の通り移動させたさまざまな仏具や備品等で足の踏み場も無い状態です。よくまあこれだけの物があったものだと感心します。おそらく来年の初夏頃まではこの状態でしょうが、困ったことにこれではどこに何があるのかさっぱり解りません。寺の行事は来年の施餓鬼会まで実質休止ですが、その間でも必要な物は出てくることでしょうから、きっとその度に探すのはたいへんですね。

にわかアクアリストです

2012年07月26日

娘の金魚.jpg

我が家には昨年の夏祭りで娘が持ち帰った一匹の金魚が生き延びています。わずか2~3センチ程度の小さな命でしたが、その年の夏を無事乗り切って今では10センチ位に達しています。娘に言わせると「この子は幸運だったの。私にもらわれなかったら今頃はこの世にいなかったかもね」だそうです。実際よく死ななかったものだと思います。鑑賞価値の高い高価な種類とは異なり、金魚すくい用の原種(ヒブナですね)だったので生命力が強かったのかもしれません。ずっと娘が自分の部屋で世話をしていたので、私は大して気にもかけていなかったのですが、過日娘の代わりにエサを与えると水面に浮上して指に吸い付くようなしぐさをするので、すっかり可愛くなってしまいました。そうなったらなったで、今度はこの小さな命のことが急に心配になって来ました。梅雨明けも間近で水槽の水温は30度位に達する頃でした。おもちゃみたいな小さな水槽ですから酸欠のリスクも高くなります。私の乏しい知識でも「これは命に関わるぞ」と予想できます。このままではマズイと考えた私は、一夜漬けで飼育方法の知識を仕込み、あわてて大きな水槽を買い走りました。メンテナンスグッズもあれこれ大人買いして、少しでも安全な環境にしてやろうと奮闘しました。

メダカが泳ぐスイレン鉢.jpg

結局それが私にとってアクアリストデビューのきっかけでした。自分用にも水槽を据えてメダカの飼育を始めたところ、幸いなことに間もなく産卵と孵化がうまく行き見事にはまりました。こうなっちゃうと根が凝り性ですからさらに手を広げたくなります。狭いアパートで水槽をこれ以上増やすわけにも行かないので、山寺の裏庭にスイレン鉢を並べてメダカを泳がせています。元々繁殖は容易なメダカですから、ホテイ草を浮かべておくとどんどん産卵します。近頃は山寺に出勤するとまずスイレン鉢のホテイ草をチェックするのが日課です。ホテイ草の根に生み付けられた卵を発見したら稚魚用の別水槽へ移して孵化を待ちます。こちらの水槽では現在ボウフラとメダカの稚魚がうじゃうじゃ泳いでいます。成長したら寺の池に放ってやることも出来るでしょう。だから安心して勝手気ままにやれる実に都合の良い環境です。

それにしてもメダカの泳ぐ姿をボーッと眺めている一時は心が和みます。少々内証的な性格の中年オヤジにはお似合いの趣味かもしれません。

今年の蓮華は期待できそうです

2012年06月12日

H24.休耕田の草刈り.jpg

恒例となった休耕田の草刈りを昭さんとやりました。例によって藤井家の乗用草刈り機が大活躍です。昭さんがこのスーパーウェポンで定期的に刈って下さるようになってから3年目になりますが、最初のころはそりゃ大変でした。石ころが沢山ありましたし、あっちこっちデコボコだらけでしたから、油断するとカッターの歯がいとも簡単に破損します。それでもしつこく続けてきたので、おかげさまで今ではほんの小一時間で完了するようになりました。実にありがたいことです。これだけの広さを通常の草刈り機で作業していたら大変ですからね。

蓮華のつぼみ

休耕田の端にある調整池では、昭さんが昨春植えて下さった蓮華(ハス)が順調に育っています。最初の夏はたった一輪しか咲きませんでしたが、(昨年の蓮華)今年はすでに沢山のつぽみが出来ています。この調子なら今年は長期間御本尊にお供えすることが出来そうです。これまた、誠に有りがたいことであります。

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