こだわり住職のよもやま話

2012年12月

武士は食わねど高楊枝

2012年12月26日

本堂大屋根完成間近.jpg

上棟式以降連日寒い日が続いていますが、大工さん達はこの寒風の中でも頑張って下っています。今では屋根の形もはっきりして来ました。ここまで来ると遠くから眺めても随分お寺らしく見えます。貧乏寺の予算を考えると、正直想像以上に立派な建物になりつつあるので驚いています。これもそれも無理な予算で引き受けて下さった久谷建築(下関市清末鞍馬三丁目)の社長さん(下写真中央・久谷哲雄氏)のおかげです。本当にありがたいことです。社長さんは幼いころから山寺をご存じでした。「私は子供の頃に親に連れられて大日祭に来たことが何度かありましてね。実に懐かしいですよ」「当時は大変な人出で、そりやー賑やかでしたよ。テキ屋も沢山ならんでいましたからね。お小遣いを握りしめて参ったものですよ.....」。山寺の住職は隣町に生まれ育ったのですが、残念ながら大日祭に来たことはありませんでした。初めてお会いしたとき、懐かしそうに目を輝かせながら当時のことを語られる社長さんの姿を見ていますと、当時をまったく知らないこの私も、まるで自分のことのように嬉しくなったものです。

久谷社長.jpg

現在山寺は本堂がモデルチェンジ中なので寺の行事がありません。いわば開店休業状態です。私は工事の様子を写真に納めるのが日課です。「今度は暖房がバッチリ効くぞー。早く完成してくれんかなー」と心待ちにしながらシャッターを切っています。ただし、完成したら完成したで今度はこのお寺を維持していかなくちゃなリません。バラ色の日々だけが待っているわけでは無いでしょうから、たぶん今が一番幸せな瞬間ですね。

光明寺の山門

ところで、山寺には本来なら本堂の建て替えと同時にどうにかしたいなと思いながら、今回は訳あって一切手を付けずにそのまま残した建物があります。(「訳あって」なんて実にもったいつけた言い回しですが本音を言えば「単にお金が無い」だけです)それは山寺の歴史を今日に伝える最古の建造物です。「中途半端な改築や新築はしたくないなー、いやするべきではないな」と思えるからなんです。建て替えになった本堂は240年くらい前のものですが、これよりもはるかに古いのが山寺の山門です。江戸中期の清末藩の古文書にも「建立時期は不明」と記されています。

山寺山門の鬼瓦.jpg

その山門というのが実に不思議な建物なのです。以前から私は「こんな山寺には不釣り合いな贅沢な山門だなー」と思っていました。近代に補修をしているので、今でこそ、その山門にはごく普通の瓦がのっかっていますが一部には大昔の本瓦が残っています。かって補修工事をした際に取り外した瓦の一部は旧本堂の床下に沢山ころがっていました。(今回旧本堂を解体する際に発見しました)小さなものですが寺の規模からすると彫刻が異常に立派なんです。それから天井には彩色画がはめ込んでありますし極めつけは頂上の鬼瓦です。よく見るとあろうことか菊のご紋が入っていました。(山寺の住職は不覚にも今年になってこの紋を認識した。どうして今まで気づかなかったんだろ)写真では解りづらいですが金が塗ってあったようです。初めて気づいた時には「えー嘘でしょー」って思いました。そして「あっ、これだー」と叫んだのです。

山門石碑の謎の文字.jpg

実は山門の前の石碑に意味がよく解らない不思議な文字がありました。ずっとその意味するところが理解出来ずにモヤモヤしていた経緯があったのですが、鬼瓦の紋とこの文字との重要なつながりに、はっと気づいて少々驚いたのです。不思議な文字とは「勅許苾芻県」です。勅許とあるのはやはり「朝廷から許可を頂いている」の意なんでしょう。この二文字は以前からほぼ判読出来ていました。しかしその次の苾芻県という部分は長い間読み取れていませんでした。ところが、建て替え工事の都合で石碑を一時移動させることになり、その際に洗浄等を行ったところようやく判読出来そうな状態になったのです。苾芻は「ビツシユ或いはヒツスウ」と読みます。漢和辞典で調べると梵語(Bhiksu)の音訳で僧呂の意とあります。最後の文字はやや不安が残るのですが、「県」で正しければ、おそらく「あがた」の意で彫られた文字ではないでしょうか。あがたとは「昔、諸国にあった朝廷の御料地」の意です。これらの文字の意味しているところをふまえた上で鬼瓦のご紋を前にしたら、「なるほどそうだったのか」と私が思ったのは理解して頂けるのではないでしょうか。※後日この記事にある「勅許苾芻県」は「勅許苾芻某」の誤りであることが判明します。その経緯は文末に追記しております。

この山門が建立されたであろう当時、菊のご紋を掲げるということは大変なことだったはずです。勝手につけちゃうなんてありえない時代です。「首が飛ぶぞ」ってだれかが言ってたけど、確かにその通りでしょう。私がこの山寺に首を突っ込むことになった当初、地元の古老がよく言ってました。「あんたんところの寺は歴史が古くて立派な寺なんやから頑張りんさいや。あんたの代でまた栄えさせんにゃ」なんてね。うーん。あながち嘘ではなかったのかも。でもね、そうは言っても現状を考えると、こういうのって「過去の栄光」であります。まあ「武士は食わねど高楊枝」って言葉もあることだし、気持ちだけは胸を張って山寺の坊さんやっていきましょう。

※先日(H29.10.21メールにて)このブログを見て下さった東京都の"ひしきまこと"様より貴重な情報を得ることが出来ました。この記事をアップした当時、私は石碑の文字をあれこれ悩みながら結局「勅許苾芻県」と読んでいたのですが、最後の一文字は「某」じゃないですかとご連絡を頂きました。メールには(以下原文のまま)"山口苾という人物検索しておりましたらこちらへたどり着きました。公孫樹と紅葉が品のよいお堂に映えてますね。菊紋と「勅許」のお話拝見しました。最後の県と読んでおられる文字は僕には「某」のように見えます。遠慮して「なにくれ」に勅許あったという意味ではないかと存じますがいかが?"でありました。

嬉しかったですねー。浅学な坊さんが勝手気ままに書いてるプログなんですが、きっちり読んで私の間違いを連絡して下さる方がおられたのです。ありがたいことです。ネットの力ってすごいですね。指摘を受けて「なるほどこれが正しいんだ」と、私もようやく腑に落ちました。私が安易に「県」と解釈してしまった(そう思いたかった)のは、実はそれなりに背景がありました。山寺は廃寺寸前の小寺なのに背後の山林や周囲の田畑などの寺領が不釣り合いに広いからです。しかも背後の山は隣のお宮の社有林と隣接して分け合っています。「どうしてこんなに広い土地を所有してるんだろ、理解に苦しむなー、権力者から拝領した土地なのかもしれないなー?」でした。そのやたらと広い敷地の管理に私は苦労(草刈りが大変です)しているわけです。このことにこだわりすぎていたようです。それと、古い時代の墓石等を観察すると文字が省略して掘られているケースが(経年の影響で一部が消えているケースもある)多いので「縦棒や横棒の一本くらい抜けていても想像力で読むしかない」との思いが強かったということもありました。

あらためて写真をじっくり観察すると(今現在、設置してある石碑はこれほど読みやすい状態ではありません)最後の文字は、やっぱり「某」ですね。ようやく山寺の石碑文字が確定です。ひしき様、本当に有り難うございました。

思うに山寺の不釣り合いな山門は移設されたものかもしれません。たとえば門跡寺院(皇室関係の人物が住職になるお寺)からの移設(要するに頂き物ですね)でしたら、菊のご紋が入っているのはすこぶる納得できる話しになりますしね。今となっては調べようもありませんが、周囲に迷惑をかけるって訳でもありませんから、勝手に想像を膨らませてみるのも悪くはないでしょう。

渾身の力作(棟札)

2012年12月16日

上棟式棟札.jpg

本日も12月9日の上棟式に関連した話題です。実は今回の上棟に当たって山寺の住職が一番しびれたのは棟札の制作でした。お寺の本堂など、この手の建造物には屋根裏に立派な棟札を取り付けるのが習わしですが、この棟札ってやつ、山寺のような小寺では当然住職が書くことになります。(誰もかわりに書いてはくれませんから)私にしてみれば、たまたま当事者になってしまっただけなのですが、(失言)そうは言っても約240年ぶりの大事業です。おそらく今回設置される棟札も永く残ることになるでしょう。きっと後世の人々が、「ほおー、この本堂は實空俊徳和尚の代に再建していたんだー」なんて、この板を眺めながらつぶやくことになるのです。要するに私が書いた筆文字がずーっと残るんです。だからプレッシャーは大きかったのであります。常日頃から卒塔婆には筆で書いています。しかしそれはいつまでも残るわけじゃないですから救われます。でも棟札はずーっとです。「あーいゃだなー。全然自信ないのに....」と気が重かった。おまけに久谷建築の大工さんが、めちゃめちゃ立派な札板を用意して下さったのでよけいに気は重くなりました。まるで高級料亭のまな板みたいなブツです。長さは約110㌢厚みは4㌢もあります。この立派な板に「さあ、どうぞお書き下さい」ですから尻込みするのも当然でしょう。超立派な板を前にして私はなんだか追い詰められた気分でした。どう考えてもこの板に恥じないような文字を書くなんて出来るはずがないのであります。それで、いろいろ考えた末に策を講じて書き上げたのがご覧の写真です。(こちらは表側です)結論からいうと、うまいこと誤魔化すことができたのでやれやれでした。

山寺住職の策略は次の通りでした。自分は書道の基本が出来ていませんから、止めや跳ね払いが重要な書体は無理です。通常の楷書や行書では絶対に良い字は書けません。そこで、私はまず最初に一般的ではない特殊な書体(要するに上手下手が判断しにくい書体)で書くことにしました。この条件にマッチする書体として選択したのが写真の「隷書体」です。ただし、制作工程に入ると最大の課題は下書きをどうするかでした。いくら止めや払いのテクニックが目立たない書体だといっても、私にいきなり隷書が書きこなせるはずもありません。下書きを書いてそれをなぞるようにして仕上げるしかないでしょう。ちょうど小学校のお習字の時間に、先生が書いて下さったお手本や、あらかじめ用意してあったお手本に、半紙を重ねてなぞるように何度も書いて練習していた「あの手」を使うしかないのです。ですから、いかにして「下書きを板に書き込むか」が重要です。

実際この工程が最も時間がかかり、疲れる作業でした。私がやったインチキな方法は次の通りです。まず紙で等倍の見本をつくります。パソコンで印刷して作っちゃいました。これを板の上に載せて等倍の見本と板の間にカーボン紙を入れて輪郭を上からなぞるのです。(小さい文字は無理です。大きな文字なら輪郭までなぞれます)その際には力加減が少々難しいですが、うっすらと見本が転写できたら成功です。後は気合いを入れて筆で一気に書き上げます。自分で言うのもなんですが、やってみたら想像以上に上手く出来たので驚いています。

ところで後日すっかり上機嫌の私は、自分にとっては「渾身の力作」とでもいうべきこの棟札を、内心自慢したくて妻に制作過程の苦労話をしました。「恵美ちゃん棟札出来たよ。見てくれる?ずーっと後まで僕が書いた字が残るから恥ずかしい字は書けんし、すんごい苦労したよ。これこれ、こうやってさ....、下書きを上手に写すのが一番のポイントでねー」なんてね。すると妻の反応は私の予想に反して少々意外なものでした。「無事完成してよかったわね。ご苦労様」(ここまでは予想どおりである)「ところでお父さん。棟札って屋根裏に取り付けるものなんでしょ。だったら、この次に本堂が建て替えになるまで、それこそずーっと誰も目にすることは無いわけよね。だったらそんなにこだわって、そこまで時間かけなくてもよかったんとちがうの?」でした。「ぎくっ!」であります。確かにおっしゃる通りで妻の指摘は的を射ています。うーん。やっぱり私は必要以上にこだわっていたのかも。相変わらず執着から離れられない迷坊主です。

神がかり的な上棟式でした

2012年12月13日

上棟式その1.jpg

山寺は12月9日に本堂の上棟式を無事行うことが出来ました。本日はその報告をします。その日は朝から雪模様でした。当然上棟式で忙しい一日になるのですが、午前中は弘永家の法事が入っていたので、ひときはタイトな一日でした。早朝自宅から寺へ向かって車で移動していると雪がどんどん降って来ました。思わず「あー最悪だー」とつぶやいていました。でも、しかたありません。こうなったら後はひたすら天候の回復を祈るのみです。実家に立ち寄って法事の支度(坊さんの衣装に衣替え)を整えると、その足で寺に立ち寄って、まだ残っている準備や総代さんとの最後の打ち合わせを行いました。そうこうしていると、あっという間に時間は過ぎてゆき、後ろ髪を引かれるような思いで私は弘永家へと向かいました。上棟式は法事が済んで私が寺に帰ってきたらぶっつけ本番です。弘永家での読経が終わって会食の時間になると、私はお天気のことが気になってしかたありませんでした。せっかくのご馳走なのに、ちっとも味わえません。だって雪や雨だとメインイベントの餅撒きが台無しです。なんてったって今回のおもちは大奮発してるんですから、お天気は絶対に回復して頂かないと困ります。思わず天を仰いで「晴れろー、晴れろー」と念じました。

上棟式その2.jpg

さて、山寺住職の念力ですが、これがけっこう効いたようなんです。結果はタイトルの通りでした。上棟式開始の直前になると雲の切れ間から明るい日射しが差しこんで来て、少々神秘的な雰囲気の中で読経をすることになりました。こういうのを「奇跡的」とか「神ががり的」なんていうのかもしれません。きっと誰かさんの(もちろん私です)日頃の行いが良いからでしょうね。(妻は単なる偶然でしょうとおっしゃってました)

上棟式その3.jpg

上棟式には息子を出席させました。彼が光明寺の二十五世候補です。金曜夜遅くに新幹線で京都から帰省し、式に出席したその日の夜に帰って行きました。はたして彼はどんなことを思ったのでしょうか。お寺が建つということがどれだけ大事業なことかを、多少なりとも感じ取ってくれていたら良いのですが。いずれ君がこのお寺を守って行くことになるのです。がんばって下さいよ二十五世候補殿。

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