こだわり住職のよもやま話

2010年1月

秘密のあこちゃんの話し

2010年01月11日

慶宣のことを書いたのでその流れでもう一人、毎年3月末頃に本山で再会する僧名「妙照」こと、「あこちゃん」のことを書くことにします。あこちゃんも加行を一緒に耐えた同級生です。「死ぬかもしれんと思った...」と、随分情けないことを公言してはばからない私ですが、あこちゃんは、初めて会った時から(今でも)見るからに可愛らしい女性でした。そうなんです、女性でも同じことをやってるんです。だから、泣き言ばかりの私の加行体験談(1/4・おかげさまの話し)は少々軽すぎますね。まあそこらへんのことは今回は追求しないで、あこちゃんのことを話しましょう。彼女の家(寺)は和歌山県です。和歌山は我が西山浄土宗の勢力が強く末寺が非常に多い場所です。彼女は小学校の先生をしていました。最近の子供達はとても体格が良くて、小柄な彼女は子供達と一緒にいると区別がつきません。へたをすると子供とまちがえられそうです。とても愛くるしいというか、異常な若作りというか(失言かなー)まあ、そういう人です。女性シンガーの青窈(ひとと よう)さんによく似てますね。その彼女がお坊さんになる道を選び縁あって私と同行人になっていたのです。

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あこちゃんは子供達の先生をしていたこともあってか、話し方も独特の優しいしゃべり方で、相手を和やかな気持ちにさせてくれます。そんな彼女ですが、加行中には意外な一面を見せてくれました。すでに書いたとおり、加行中は一日三回水行を行い、いわば身体を清めた後におつとめをします。それが終わると食事です。その食事の用意は加行人の一部が当番で、配膳・給仕・後片付けを行います。この作業は限られた時間で行わねばなりません。本当はいけないのですが、本山の回廊を必死で走って準備に行きます。彼女とは当番がよく一緒でした。それで、のろまなオッサンはいつも足手まといになるわけです。これではへたをすると間に合いません。そんな時です。ほんわかした空気をまとい、おっとりした印象であった彼女が実にてきぱきと機敏でした。要領の悪い私に「あーだめだめ、吉村さんそんなことやってちゃだめ、この湯飲みをこうして並べて行ってお茶を入れて下さい。それが終わったら次はこれとこれをやって、その次は....」と、実に見事な采配ぶりです。ああ見えて芯はとてもしっかりした強い女性なんだと、感心したことしきりです。考えてみればこの加行に参加しているのですから、並大抵の女性ではありません。その彼女も今は立派にお寺を守っています。唯一の課題はお婿さんが来てくれることくらいかな?あこちゃん今度は婚活だね。私がもっと若くて女房子供がおらんかったらすぐ立候補するけどねー。えっ、あこにも選ぶ権利がある?やっぱりそう来たか。とにかく皆さん、あこをよろしくお願いします。

 

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さて、見た目の印象とは違って実は芯の強い女性であった彼女ですが、加行のみならず住職の資格を頂くための修行(学問中心です)も、ほぼ同じタイミングで受けました。慶宣と同じように、定期的に本山で缶詰になり同じ時間を過ごした仲です。ただし加行をクリアして僧呂の資格を得た後、次にひかえる住職に就任できる資格を得る為の座学で必要な単位を取り、その卒業試験を受けるタイミングは、都合により私より一年後でした。この試験というのが思った以上に大きな壁です。いわば大学の卒論と同じ要領で論文提出となります。しかも後日提出した論文の内容に関して、試験官との質疑応答もあります。私の時は我が宗門の流祖「西山上人のお念仏の教えについて述べよ」という、大変な「お題」が課されました。いくら本山でいろいろ勉強させてもらったとはいえ、流祖の念仏の教えについて書くなんてとんでもないことです。いわば我が宗派の核心部分、おしえの神髄について述べなければならないわけです。大変難儀な課題です。正直なところ今でも「これが我が西山派の教えの神髄である」と、書き示すなんてようしまへん。結局、先達の著した書物や資料を引っ張り出して、あっちこっちをつまみ食いし、なんとかそれなりの形にするしかありませんでした。今思えばそうなるのも当然でした。こんな大きな課題に取り組むということは、否応なしに猛烈に勉強することになります。卒業論文はそれが最大の狙いであったのだと思います。そして、たとえ合格したとしても終わりではありません。勉強(修行)はその後も必要です。お坊さんの修行は一生続くものなのですから。

私が無事合格した翌年に、あこちゃんが書かねばならなかった論文のお題は「無常観について」でした。仏教の根本的な考え方「諸行無常」の「無常」について掘り下げて述べよです。あこちゃんは、このお題の論文を提出するにあたり、自分の書いた論文をメールで私に送ってきて添削して欲しいと連絡してきました。(意外にも私は彼女に頼りにされていたのです)私は前年に一応合格していますが、お題は違うしそんなことができるようなタマではありません。しかし彼女には随分助けてもらったのだからと、目を通すことを承諾しました。それでじっくり読ませて頂いたのですが、その論文の冒頭には意外なことが書かれていました。実は彼女には弟さんがいて、我が宗門のお坊さんでした。しかし数年前に不幸にも交通事故で亡くなられ、考え抜いた末に彼女が僧呂になる道を選んだ一連の経緯が書かれていたのです。(聞いていなかったので随分驚きました)その論文は、彼女の強烈な無常体験に裏付けられた深い思索が述べらた見事なものでした。まさに彼女にしか書くことが出来ない論文です。目を通した私はただただ感動しました。ここまで書けていて添削が必要でしょうか?「私がさわっていいものだろうか」と少々ためらいましたが、彼女の「どうしても」の言葉に押され、ほんのわずかな修正とこの論文に対して予想される質疑応答に関するアドバイスをしました。彼女のあの優しさの裏にこんな深い哀しみがあったとは。「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」と、武田鉄也さんは歌いましたが、まったくその通りです。彼女の論文は今も私のパソコンに大切に保管してあります。

慶宣が山寺にやってくる

2010年01月09日

お坊さんになる為に、とんでもない目にあったことを『1/4・おかげさまの話し』で書きましたが、その、とんでもない加行で同行人であった、中北慶宣君から年末に連絡がありました。2月の末に友人(たぶん)かなにかの結婚式に出席するので、はるばる長崎まで行くようになった。帰りに山口へ寄るから観光案内して欲しいという。要は「オッチャン、山口のおもしろいところへ連れてってよ、それから美味しいものもたのみます」と、いうことである。彼とは親子ほど年が離れていますが、約2年半に渡り定期的に本山で缶詰になっては、坊さん修行を一緒に続けた仲です。初めて本山で会ったときの彼はまだ18才でした。翌年の加行も一緒だったから、いわば同じ釜の飯を食った同期の桜(若い人にはなじまない言葉か?)です。実際には、加行の同期は同じ釜の飯というよりは、同じ石桶の冷水をかぶった仲と言うべきでありましょう。

その慶宣だが、よくよく考えてみるとうちの息子と同じタイプの人間である。今時の若者にしては実に素直で優しい性格である。人なつっこく他人から可愛がられるキャラである。ただ、少々おっとりし過ぎて「大丈夫かいな」と心配になることもあった。慶宣は名古屋の立派な寺の息子である。しかも、昨年早々だったかすでに父親の意向で住職に就任済みである。父親は私と同じで、母親の実家の寺を継ぐため在家から仏門に入った人であるという。その父親をひそかに尊敬し誇りに思っているのが、ひかえめな息子の話からも垣間見え、実にうらやましい師弟関係である。慶宣は良い師匠にめぐまれているのである。彼は仏教系の大学在学中に、我が宗派の僧侶と住職の資格を得るための修行を、私とまったく同じタイミングで続けた。そういうご縁で、私は京都市内にある彼のアパートに転がり込んで、ごろ寝したこともある。加行が終了し解散になった際には、私の運転する車で一路比叡山へ向かった。お念仏の教えを広められた法然上人は、元々は天台の僧侶である。いわば上人の原点でもある比叡山延暦寺の根本中堂へ、無事僧侶になれた記念として参拝することにしたのである。すでに公開時間は終わっており、駐車場の端にある拝観受付窓口はカーテンが閉じられて無人であった。それで、拝観料と少々の志を無理矢理窓口の隙間からねじ込み、人気のない参拝道を根本中堂に向かって二人で歩いた。根本中堂の門は閉じられているので、その扉の前に並んでお経を読み、丁寧に合掌礼拝して帰路についた。再び京都市内までもどると、慶宣のリクエストで気の利いた焼き肉店へ入り、娑婆に生還後の最初の食事として、少々贅沢なディナーを堪能したものである。

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我々は毎年3月末頃に後に続く若い僧侶の加行見舞も兼ね、同行人会(同期会)を京都市内で行うので、まずは本山に集合する。後輩たちが行う水行を見守り「がんばれよ」と心の中で呟きながら合掌をした後は、先回りして御影堂(本山の本堂にあたる)の外陣に陣取り、彼らのおつとめに参加する。その後、御影堂に奉ってある西山上人像のおつとめを済ませた加行人たちは、次に控える経蔵のおつとめを行う為に、御影堂正面の回廊に姿を現す。我々は御影堂の階段下で向かい合わせに陣取って、一緒に読経を行うのである。毎年ここまでが、いわばお約束のコースである。「こいつら今年も来たか、よく続いてるのー」と、総監督である櫻井師の眼が少々笑っているのを見届けたら、私たちは本山を後にして同行人会の会場へ移動するのである。

今年も3月には慶宣と本山で再会するはずであるが、その前月に山口に来るという。さて、どうしたものか。山口の食い物といえば、この時期はなんといっても「ふぐ」である。やれやれ、大変な出費になりそうな気配である。しかし、我が山寺を見せてやったらさぞかし驚くことだろう。都市部のお寺とはあまりにも違う。おまけに極めつけのボロ寺である。「彼の社会勉強になるかもしれんなー」と、そんなことを考えながらその日を楽しみにしている。

私のふがいない「四苦八苦」

2010年01月08日

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我々はよく四苦八苦(しくはっく)という言葉を使います。「どうです、最近の調子は?」「いゃー景気が悪くて給料は減る一方、四苦八苦してますよ」なんてね。四苦八苦とは、お釈迦さんが説いた苦しみの分類です。まず根本的な苦しみを生・老・病・死の四つの苦「四苦」とし、この四苦に加えて、愛する者と別離する苦しみである愛別離苦(あいべつりく)、怨み憎んでいる者に会う苦しみである怨憎会苦(おんぞうえく)、求める物が得られない苦しみである求不得苦(ぐふとくく)、そしてあらゆる精神的な苦しみである五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四つを加えて八苦としました。なるほどお釈迦さんは実に鋭い指摘をされたなと思います。誰でも悩みや苦しみはあります。私など物持ちが良いのでたっぷりあります。自分の苦を冷静に分析してみると、確かにこれら八つの分類に整理可能です。

つまんない例で申し訳ないのですが、例えば今このブログを書いている私の、この瞬間の苦はずばり「老」です。この記事は小さなノートパソコンの小さな画面で書いていますが、文字が小さくてよく見えません。私はかなりの近眼で、しかもめんどくさいことに老眼(遠視)もそうとう来ています。だからパソコンの小さな文字を凝視していると、すぐに目がうるうるして来ます。自分の打っている文字が間違っていても気づかないのが常です。国語力のなさとタイピングが下手くそなことも手伝って、誤字脱字は毎度のことです。記事をホームページに掲載すると、ホームページ上では拡大表示でじっくり読むのでまずいところが次々と目に止まります。そのたびに訂正をかけて行くのですが、なんともめんどくさいことです。

「近眼の人は老眼にならない」なんて大嘘を長年信じて疑わなかった私ですが、45才を過ぎた頃から「どうも文字が見にくいなー、眼鏡の調子が悪いのかなー、おかしいなー」と感じるようになりました。検査をしてもらうと、「ああ、これは眼鏡のせいではありませんよ。老眼が進んでますね。遠近両用を作られたらどうですか?」と告げられ、愕然としたものです。誰でも自分が老いて行くことを素直には受け入れられないものです。以前から「やけにお経本の文字が見にくいなー、困ったナー」と感じてはいたのですが、ようやく原因が判明しました。それでしぶしぶ(自分には関係ないと思っていたので)遠近両用を作ってみたのですが、これがなんとも使いにくいのです。

遠近両用は遠くを見るときはレンズの上部で見るので、少々顎を引いて上目遣いの姿勢になります。手元はその逆でレンズの下部でないとピントが合いません。顎を突き出し見下ろす様な姿勢になります。運転の際には通常の眼鏡に替えないと少々危険です。結局視力は安定しません。運転がめんどうなことになったのでしばらくすると使うのを止めました。今は普通の近視用を常用しています。細かいものを見るときは眼鏡を外し、眼球から12㌢くらいを中心に前後2~3㌢の非常に狭い範囲で凝視します。裸眼ではそれより近くても遠くてもピントは合いません。問題は手元の距離です。読書や書き物、携帯電話のディスプレイを眺める時などです。常用の近視用では近すぎて何とも見えづらい。1メートル以上に離せば見えやすくなりますが、それでは小さな文字は見にくいし書くことも出来ません。遠近両用を受け入れないで解決するには、40~50㌢くらいでちょうど見える(弱い近視矯正)専用眼鏡を用意するしかありません。ただその眼鏡では遠くはぼんやりしか見えません。足元も少々怪しくなり近くの人の顔も誰だか解らなくなります。しかし長いお経を読む時(要するに暗記できていないお経を読む時)には、めんどうでもこの眼鏡に替えないとお仕事になりません。じゃまになりますが常に白衣のたもとに忍ばせておくしかありません。忘れると冷や汗をかくことになります。一番良い解決策は、私が本山で加行を受けた時の監督さんたちのように、どんなお経でも暗記しておけば良いのです。私から見ると「奇跡の人たち」です。自分にはそれが出来ません。結局いまだにお経で「四苦八苦」を続けています。

おかげさまの話

2010年01月04日

我が山寺のホームページは、私が言うのもなんですがよく出来ていると思います。と、いうのもホームページ上での見せ方が上手いので、光明寺が現実より随分良い寺に(いろんな意味で)見えるのです。この手のことに詳しい人が見ればすぐ解ると思いますが、個人が趣味の延長でちょこちょこっと作成したサイトではありません。あちらこちらに高度な技術が駆使されています。トップ画面の動画などは実に見事なものです。私にそんなマネが出来るはずもなく、優秀なプロが気合いを入れて構築して下さったすこぶるまっとうなサイトです。ここまでやると結構なお金がかかります。いや正確にはかかるはずですと申し上げます。実際、山寺にそんなお金が負担出来るはずもなく、我が光明寺のサイトを立ち上げるプロジェクトに賛同し協力して下さった関係者の尽力の賜です。お坊さんらしい言葉で(坊さんでなくてもよく使うのだけど...)表現すると、まさに「みなさんのおかげで」と言うべき典型的なケースです。

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さてタイトルに掲げた「おかげさま」に絡めて、今回は私の最初の本格的な坊主修行について書きます。43才になる直前、親や周囲の反対を押し切りサラリーマン生活から一転仏門に入ることにした私は、ある意味大変おばかなチャレンジャーでした。お坊さんになるということがどういうことなのかをよく理解しないで、この世界へ飛び込んだのです。実際わが宗派の僧侶になる道程は、私の想像をはるかに上回る厳しいものでした。「後悔しなかった」と言えば嘘になります。私の家は代々真宗本願寺派の門徒です。そして私は長男です。私もいわば真宗門徒の一人(本人にその自覚は大してなかったのですが)だったのです。ですから浄土真宗のことなら多少は知っていました。おばあちゃんの法事などで実家の菩提寺の住職にお会いし、親しくお話しする機会もありましたし、サラリーマン時代には、社員やその家族に不幸があった際に会社関係者の一人として毎度々葬儀に出席しておりましたので、葬儀のお経(浄土真宗)は随分聴かせて頂いておりました。私が住む旧美祢市は真宗本願寺派の勢力が非常に強固な土地です。お寺と言えば本願寺派で他宗派の寺院はごく少数(実質的に3ケ寺)です。私が首を突っ込むことになった妻の実家は同じ「南無阿弥陀仏」の宗派ではありましたが、圧倒的な真宗ではなく幸か不幸か浄土宗の西山派です。それでも似たようなもんだろうとたかをくくっていたら、とんでもないことになりました。

まず驚いたのはお経が全くといって良いくらい違うのです。しかも坊さんになるには、雪がちらつく3月にふんどし姿で水をかぶる行(水行)をしないといけないのです。それも一日三回です。実際、朝の水行は悲惨でした。まだ真っ暗な中、底冷えのする行場で氷が張ろうかという冷水をバサバサかぶり、それから夜明け前のおつとめに挑むのです。しかし本当のお楽しみ?(苦行)は水行ではありません。水行に続くおつとめこそが鬼門でした。おつとめは、まず御影堂(本山における本堂)の堅い畳の上で裸足のまま長時間の正座を強いられます。その後広い境内の諸堂を巡回して、それぞれの場所でも読経を行います。おつとめが終わると食堂(仏教ではじきどうと読む)での食事になりますが、板張りの上に薄っぺらなゴザが敷いてあるだけの場所で食事をとります。当然食事中も正座です。結局これら一連の正座が一番つらかったのです。

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私はもともと正座は苦手というか出来なかったのです。学生の時にくるぶしの関節を骨折したこともあり、足首が伸びなくて正しい正座の姿勢がとれません。この状態で朝昼夕のおつとめをこなし最後は食堂でのだめ押しです。それはハッキリ言って拷問でした。(関係者のみなさま、正直なことを書いて申し訳ありません)ですから痛みをまぎらわすため、おつとめはお経に集中するしかありません。いきおい読経の声は大きくなります。腹の底から絞り出すような、なんとも悲惨なお経です。三日もするとのどはつぶれてほとんど声が出ない状態になります。それでもヒィーヒィーいいながらお経を読まなければなりません。行に参加している他の仲間も似たようなものです。ほとんどはお寺の子として生まれ、この行に参加している若者たちです。この行(加行:けぎょうと呼ぶ)の最中に44才となる私とは、親子ほど年の離れている子も沢山います。寺に生まれたといっても、いずれも今時の若者ですから私と大して変わりません。やはり正座が一番の苦痛です。痛みに耐えて無理するあまり読経中に失神して倒れる者、ひきつけを起こしたような状態になり病院送りになる者など実に恐ろしい光景です。私も失神しかけて、目の前の経机にしこたま頭を打ちつけた事があります。

さて、ここまで厳しいと挫折者が出て当然です。そして一度あきらめると「再び挑戦することは出来ないものだ」と聞きました。まったくその通りであろうと思います。しかし彼らは宿命を背負ってこの行に参加しているのであり、そうそうギブアップするわけにも行きません。だからこそ、そこまで耐えられるのかもしれません。この強烈な修行(加行)を指導されている関係者の気苦労も相当なものです。なぜなら、行に参加している若者たちはいわば我が宗門の次代をになう人材です。その大切な若者達を預かり、彼らの師匠(現在ではたいてい父親ですね)になり変わってきっちり指導し、我が宗門の僧侶として恥ずかしくないように仕上げ、かつ無事に生還させなければなりません。加減を誤り彼らをここでつぶしてしまえば、それは末寺の将来を閉ざすことであり、我が宗門の将来を左右することにもなりかねません。かといって甘いことを言っていては本物の修行にはなりません。こういう微妙な苦行難行を我々は「生かさず殺さずの行」と呼んだりします。(ウソですよー、でも臆病な私は、これは命がけだ...と本気で思ったのは事実です)そのあたりのさじ加減は実に微妙であり責任重大です。指導して下さる僧侶は、いずれも自分の寺のことは放り投げて次代をになう人材育成のために長期間本山にこもっているのです。

この世界に入って解ったことですが、本山を頂点とする宗派組織というものは、ちょうど花道や茶道などの家元制度とよく似たシステムです。(ただし家元制度や浄土真宗が世襲であるのに対して、我が宗派も含め多くの本山では、所属する末寺から頂点の僧侶が選挙等で選ばれますし、末寺の後継者も世襲前提ではありません)宗派に所属するお坊さんは、本山よりお墨付き(僧侶のお免状)を頂かないとその宗派の僧侶にはなれません。そのお免状を頂くために我が西山浄土宗で課せられている、いわば通過儀礼がこの加行です。そして自分の寺の住職に就任するには、さらに総本山光明寺より住職のお免状を頂かないといけません。そういう意味では本山の威光というものは絶大です。しかし宗派組織というものは、いわば本山を事務局とした一種の組合みたいなものでもあります。そこに所属する各末寺はいずれも一宗教法人として本来独立した存在です。末寺の住職とは各末寺の代表者(登記上では代表役員)でありいわば社長です。いくら組織や本山のためだと言っても、自分のところがダメになったら話にならんわけです。ですから本山で後進の指導をするということは、そうそう引き受けられることではありません。自分の寺のことは大なり小なり犠牲にすることになるのです。ここで引き合いに出すのは安易かもしれませんが、私お得意の言葉「菩薩道」を実践できる人であり、またいろんな意味で一流の僧侶でなければ務まらないことです。自分の寺はみんな大事です。しかし我が宗門の発展のために、さらには世のため人の為の思いが無いと出来ることではありません。

私は毎年この加行が行われている時期に本山へ行きます。ほんのささやかな差し入れをするためと、苦痛に耐えてそれでもお坊さんになろうとしている若い人たちを励ましたいからです。そして一緒に苦しい加行を耐え抜いた仲間たちと再会し、それぞれの近況を報告しあうためです。彼らとは親子ほど歳がはなれていますが、いわば同級生です。加行が終了する満行の前日(いわば卒業式の前日です)に、監督責任者の櫻井師よりそれぞれ総括の感想を述べよと指示がありました。その時私が述べさせて頂いた言葉を今もよく覚えています。「明日私は正式に僧侶になります。これもご指導下さった監督のみなさん関係者のみなさんのおかげです。そして同行の(苦楽を共にした修行仲間)みなさんのおかげです。これまでこんなに感謝の気持ちに溢れたことはありません。仏門に生きることになる者として、いわば明日が始まりの日だと思っています。お坊さんになっても修行は一生続きます。終わりはありません。そして同行のみなさん(みなさんは若いので)たぶん私のほうが一足先に阿弥陀さんのところへ行くと思いますが、待っていますからまたこのオッチャン(修行仲間の彼らから私はそう呼ばれていた)と一緒に修行して下さい。私たちは永遠に同級生なのですから」などと発言したものです。思えば加行中のあの時こそが、私の人生において一番純粋でまじめな良き人であったのかもしれません。それくらい真摯な気持ちで取り組まなければ無事に満行を迎えることは出来なかったのです。しかし月日は流れ今ではすっかり煩悩にまみれた私でございます。「ああ、阿弥陀様お許し下さい」

おかげさま(お陰様)とは「あなたのお力添えで」ということも含まれますが、もっと深い意味(宗教上の意味)が込められています。「かげ」とは、神仏やご先祖さまの霊のことを意味しています。目には見えないものへの感謝の気持ちが込められる敬虔(けいけん)な祈りの心からきた言葉です。

総本山光明寺のおつとめについて

2010年01月01日

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明けましておめでとうございます。さて、平成22年最初の記事をどうしたものかと迷ったのですが、本山のおつとめ(勤行)について書くことにします。わが山寺の本山である総本山光明寺は、山口から新幹線で新大阪まで行き、JRの在来線に乗り換えて京都方面へ向かうと、京都駅の4つ手前「長岡京駅」が最寄りとなります。(大阪市内からだと、阪急の長岡天神駅の方が近い)京都西山の静かな場所、長岡京市の粟生(あお)の里にあります。日が昇る前のまだ暗い時間帯から、本堂(本山は御影堂「みえどう」と呼びます)で毎朝おつとめが行われます。開始の合図の鐘が鳴ると巨大な木魚が打ち始められ「ナァーム、アーミ、ダァー、ブー、ナァーム、アーミ、ダァー、ブー、」とお念仏が称えられる中、我が宗派における頂点の僧侶、西山浄土宗の法主(我々宗門の僧は、法主を通常は御前さんと呼んでいます)のご入堂があり、おつとめが始まります。

まず「香偈」「三宝礼」「四奉請」が読誦されます。「香偈」は香を焚く時に称えるお経(偈文)です。「三宝礼」は仏教における三つの宝、仏・法・僧を礼拝するお経(偈文)です。仏は説明不要ですが、法は仏の教え(真理)のことで、僧は仏の教えを伝え導く人、つまり僧侶のことで広くは教団をさします。僧侶というと私もその端くれですが「この私も讃えなさいよ」といっている訳ではありません。(言われなくても解ってますよね)仏の教えを伝えてくれた、あるいは今伝え導いてくれる教団と、そこにおられる真の仏教者を礼拝しましょうという事です。「四奉請」は仏や菩薩を招へいするお経(偈文)です。このお経を称えることで仏や菩薩たちがこの場に降臨して下さり、道場として成立するのです。ですから、この三つのお経はおつとめを開始する前に行う三点セットの儀式です。メインディッシュの前に出される前菜みたいなものかも?(なんとも大雑把な解説です、関係者の皆様お許し下さい)通常はこの後に「開経偈」というお経(偈文)を読みます。今からお経を開きますよ(読みますよ)と宣言して、メインデッシュのお経(仏典)、たとえば「阿弥陀経」などを読誦し、その後に「礼賛偈」という独特のお経やその他のお経を読誦して行きます。しかし本山においては、そのメインディッシュが登場する前に「菩薩戒経」というお経も読みます。

日本の仏教は大乗仏教と呼ばれます。一人でも多くの人を救うため、覚りの世界行きの大きな乗り物を目指しているからです。また自分の修行(自行)だけでなく利他の行( 世のため人のための行)を重視します。この利他行の実践、すなわち自分だけでなく他の幸福を願う生き方を、仏教では菩薩が歩む道、「菩薩道」と呼んでいます。「戒律」という言葉があります。仏教徒をはじめ信仰を持つ者が守るべきルール、約束事、法律ですね。大乗仏教においては、菩薩の道を歩む者が受持すべき「戒」、すなわち「菩薩戒」が非常に重要なので、この菩薩戒のお経である「菩薩戒経」を本山では毎朝読誦しているのです。坊さんになりたての頃、私は「菩薩道」のことをが解るようになり「日本の仏教は菩薩道の実践だから、なるほどこれってとてもいいことだよなー、さすが本山だけのことはあるなー」と、ある意味感動に近い思いを抱いたものです。そして「菩薩戒経」に引き続き「天下泰平回向文」という極めつけの偈文が御前さん(法主)により称えられます。経文は次の通りです。

天下和順日月清明、風雨以時災厲不起、国豊民安兵戈無用、崇徳興仁務修礼譲

現代訳は「世界は平和で正しくあれ、歳月は清く朗らかであれ、天候は順調であれ、災害や疫病の起こらないようにあれ、国は豊であり人々は安らかであれ、兵器を用いることがないようにあれ、良い行いを崇(あが)め慈しみの心を持ち、真心をもって思いやりにつとめよ」です。御前さんは毎朝この偈文を称えておられます。ありがたいことです。坊さんになり少々勉強したおかげで、本山で毎日行われている「おつとめ」のありがたさを知りました。そして我が総本山だけではなく、多くの寺院でも多分同様のことが行われていることを推測できるようになりました。坊さんになっていなかったら気づく機会はたぶん無かったでしょう。

我が山寺では、元旦を迎えた本日深夜に修正会(新年を迎え一年の幸せを願う法要)のお勤めを行いました。その際には今年最初の「菩薩戒経」を読み、私なりの思いを込めて「天下泰平回向文」を称えさせて頂きました。

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