こだわり住職のよもやま話

2009年12月

南無千々松菩薩さま

2009年12月30日

新調したキンス.jpg

今年最後の記事は前回からの続編です。それは先々月のことでした。光明寺にネギをしょったカモがやって来ました。いや失礼、菩薩さんが立ち寄りました。その菩薩さんは娑婆(しゃば・人間世界)では仏壇屋の営業責任者を仮の姿にしています。この世界に現れてからの期間は私より一回りと少々上でしょうか。時々光明寺に立ち寄っては本尊に向かって丁寧に手を合わせては帰って行きます。名刺によると、この世では「住谷仏壇の千々松」と名乗っています。下の名前は私と同じ徳の字が入った「徳行」で、読み方を尋ねると「とくゆき」だそうです。しかし幼少より「とくぎょう」「とくぎょう」と呼ばれることが常であったといいます。うむ、たしかにそうであろう。「とくぎょう」の方が呼びやすい。そうなると、これは音読みで明らかに坊さん名の読み方です。本堂で合掌している姿もなかなか決まっておりまるで求道者のようです。これまで名刺どおりに「千々松さん」と呼ばせてもらってはいますが、どうも怪しい。本人は否定するのですが、菩薩さんが娑婆の世界に下りてきて仮の姿をまとっているような雰囲気なのであります。

さてその千々松さんですが、いつものようにニコニコしながら光明寺にやってきました。開口いちばん「住職、キンスもってきましたー」と、とりわけ明るい声で言いました。「ハアー、なにアホなこと言っとるんやろう?」と私は内心思いましたね。(このあたりからとたんに言葉遣いが変わってくる)以前から私がキンスをどうにかしたいと思っているのは、千々松さんも知っていました。しかし買うから持ってきてくれといった覚えはありません。だって7桁コースがそんな気軽に買えるわけないでしょう。「千々松さんキンスをどげんかしたいのは事実だけど、光明寺の寺会計で買うなんて端っから問題外だし、可能性としては僕が個人的に買うしかないんだから、まずよう買いきよらんよ」と、私は半ばあきれたように答えました。すると千々松氏は「いや、これは私がぶん取ってきたものだから大丈夫です」と軽くのたまうわけです。「ハアー、大丈夫て言ったって、キンスを新調して代金払わんわけにはいかんでしょう」「ハイ、住職のご心配はよーく解っています。だから私がぶん取ってきたんです」あれれ??なんだか訳のわかんない会話になってるぞ。

千々松さんのぶん取ってきたって話をよく聞いてみると、やっと話が見えてきました。要するに千々松さんがどうやら独断で店から持ち出しちゃって、自分の判断で超バーゲン価格で提供するからぜひお買いなさいというのである。支払いは出世払いでも良いという。「でもねー、いくらバーゲンだからって本来なら一式で7桁になる商品が10万や20万で買えるわけじゃないでしょ。勘弁してよ」とそんな返答をしました。すると千々松氏は再び意外なことを口にします。「住職のところに持ってくるために表面の塗りもやりかえてますから、どこからみたって新品同様ですよ」「えっ新品同様ってどういうこと?中古品?」「いや中古じゃありませんよ。長年うちの仏壇展示場で格好をつけるために置きっぱなしにしていた品だから、要は未使用品です。でも本当にずーっと長年放置していたから、まともな売り値がつけられない商品なんですよ」「え-、なに、それを売るっていう話なわけ?」「そうです」「えっ?これって、もしかしたら山寺にはありがたい話とちがうやろか?」「いやいや待て待て、昔からうまい話には必ず落とし穴があるって言うぞ、うかつに乗っかると危ないんとちゃうやろか?」などと、一瞬にしていろいろ考えましたね。

まったく人間というのはあさましい生き物で「話がうますぎるんとちゃうか?」などと少々警戒しつつ、一方では「いやいや、千々松さんが言ってきてるんだから変な話ではないわなー」「千々松さん、いったいいくらで売るつもりできたんやろか?」「仮にキンス本体を、もってけこのドロボーってことで30くらいになったとしても、キンス台も必要だよなー」「本体よりは安いけど両方でどう考えても40はぶっ飛ぶなー」「あーそんな買い物はできんなー」「恵美ちゃん(妻)にバレたらどないしょう」「せめて両方で30くらいにならんやろか」「もうちょい、なんて虫が良すぎるわな」「やっぱ無理やなー」「いや待てよ、キンス本体だけを売り飛ばしてキンス台を残したってしかたないよなー」「もともと置物状態にしてたのだから、普通はいまさら売り物にはならんわけだ」「絶対売れんものをいつまでも置いとったってムダだよな」「ムダな物なら少しでも現金に変えた方が会社としては得だよなー」「はいわかりました、それじゃーこれはサービスなんてなことにならんやろか?」「なるわけないかー」などと、実に好き勝手なことを考えるわけです。でも口に出すのは「千々松さん、そんなことやっちゃって大丈夫?会社に内緒で無茶なことやらんで下さいよ」と一応心配顔の私に「ご心配なく、内緒でやったりしませんから。いまから専務に電話して掛け合いますからちょっと待ってて下さい」と言い終えると、私の目の前でさっさと電話をかけ始めました。

「専務、千々松です、展示場のキンスですが、置いといてもムダですから光明寺さんにお買い上げ頂くことにしますよ。以前から更新したいって言われてましたから。こいつはもう帳簿にも載ってませんし、半分ゴミみたいなもんです。(よく言うわ)光明寺さんのところで使ってもらうのが、キンスの為にもなると思いましてね。私ならただで差し上げてもかまわんとこですが、それだと光明寺さんの方が受け取ってくださらんので、価格は○○ということでお持ちしようと思います。(もう持ってきてるくせに)よろしいでしょう?それからどんぶりが無いのに、こいつが乗っかってた台を置いてても仕方ないですから、ついでに(おいおい、ついでかよー)お付けしますね。じゃそういうことで」プチッである。専務とは住谷仏壇社長の奥方(社長は千々松さんの叔父)である。こんな木で鼻をくくったようなやりとりの末に、テレビショッピングの王者ジャパネットたかたも真っ青の激安プライス、わけあり一点物、原価無視の取引がめでたく成立となったのである。

光明寺のキンスをどげんかせんと

2009年12月28日

キンスのカタログ

光明寺のキンス(読経の際に鳴らす大型の鐘)は江戸時代天保12年に調達した骨董品です。このキンスを叩く度に、どっかの知事さんじゃありませんが「どげんかせんといかん...どげんかせんといかん...」と思ってしまいます。一番心配なのは叩く衝撃でいつ割れてもおかしくないことです。その可能性はかなり高いと思います。大昔のキンスですから現代のものとは仕上げがずいぶん異なります。打ち出し(手打ち)によりどんぶり形状に仕上げられた、大変手間のかかったものです。 ですから今日の一般的なキンスと比べると少々肉薄な鐘です。すでに170年あまりこの山寺で働いて来たのですから、金属疲労はそうとう進んでいるでしょう。そろそろ現役を引退させて、まだ無傷のうちに永久保存にしたいと思うのです。

それで、いよいよどうにかすることを真剣に考えはじめ、寺院向けの仏具カタログをひっくり返してリサーチを開始したのが今から2年くらい前のことでした。お寺の備品というか、要するに仏具類というものは高額なことは覚悟していましたが、カタログをよくよく眺めて見ると、今あるものと同じくらいの大きさでまあまあのやつでも限りなく7桁に近い金額じゃありませんか、ましてや今あるものと同じような伝統的な技法で制作されたキンスだと、高級車が買えちゃいます。びっくりというか、がっかりです。すっかり戦意喪失、一発であきらめの境地に追いやられました。私の夢はあえなく消え去ったのでした。

その後しばらくたって気付いたことがあります。今のキンスは170年物ですが、仮に新しいキンスを100年使う買い物だと考えたら7桁コースでも年額1万円の買い物です。これって、けっこうリーズナブルに感じませんか?一瞬買えそうな気になると思いませんか?こんなこと書いていると諸先輩方から「お寺なんてそれがあたりまえじゃ、この未熟者が」と一喝されそうですね。しかしですよ、でもね、でもやっぱり7桁は考えますよね。それ以降もずっと「今時こんな骨董品でがんばってる寺も少ないだろうし、いいかげんに代替わりさせたいな...でも、先立つものが....」てな調子です。近年の私にとっては、常に頭の隅にひっかかっているまったくもって悩ましきことでした。いわばお得意の「求不得苦」状態であります....次回に続く

音色の良し悪しってなに?

2009年12月26日

少年時代にギターの音色にさんざんこだわり、今思えば見事な「求不得苦」状態に陥っていた私の話『12/16 ギター少年の求不得苦』はすでに書きました。お坊さんになったこともあり、その愚かさを冷静に振り返ることが出来るようになったので書いてみたのですが(偉そうなこと言ってます)どっこい今でも相変わらず音に対する感性(格好いい表現だこと)は、まだまだ錆び付いてはいないと自惚れている全く懲りないオッサンです。お坊さんになって、その日々の中で音に関して一番気になってしょうがなかったのは、読経の際に叩く鐘(寺にある大きいのをキンスといい、家庭にある小さいものはリンといいます)の音色でした。私は音響学的な知識に詳しいわけではありませんが、学問的には音の三要素というものがあって、音の性質を決める要因の最も基本的なものは「大きさ」「高さ」「音色」だそうです。音の大小は空気の振動する幅の大きさで決まり、音程は振動する波(空気の振動)が1秒間に繰り返す回数(周波数・Hz)によって決まります。そして人が耳で聞いたときの音の印象というか、音の性質の違いを決定づける最も重要な要素が三番目の音色です。実際にはこれ以外にも音の性質を左右する要素はあるのですが、通常は影響が少ないのでとりあえずここでは無視します。

天保12年設置のキンス.jpg

我々はよく音色がいいとか悪いとか口にしますが、いきなり「音色とはなんぞや?」と尋ねられて、科学的にきちんと説明できる人は限られると思います。音響学では音色を「周波数成分」と呼んでいます。音の高さ、すなわち音程は一番中心になる振動数の音(基音と呼ぶ)で決まりますが、この基音に「倍音」が加わることで音色が生まれるのだそうです。倍音は「基音の整数倍」の振動で、多数(理論的には無限個)現れるそうです。この倍音の含有率の違いで様々な音色が生まれるそうです。ですから音色の違いとは倍音の混ざり(発生)具合の違いであり、それはすなわち周波数成分の違いなのです。音程を決定しているメインの周波数以外の振動(倍音)は、極端な言い方をするとメインの振動から発生したオマケみたいな振動です。(あくまでも私の感覚的な表現ですが)しかし、これの混ざり(発生)具合で音色が決まるわけですから、オマケのようでありながら楽器の音色、すなわち楽器の値打ちを決定する重要な要素です。(それこそ、我々幼少期のグリコのおまけみたいです。おまけがとても重要だった)ところで、楽器や自然界の音には多数の倍音が含まれていますが、安物の電子楽器等はたいてい倍音が含まれていません。それで、誰が聞いてもいかにも人工的な音と感じるものです。これも人間の耳が倍音のあるなしをきちんと聞き分けているからでしょう。

さて、山寺の本堂にあるキンス(鐘)は、江戸時代天保12年に調達した骨董品です。ここまで古いと金属疲労が相当進行しているようで、叩いたときの振動時間(音が鳴ってる時間)は随分短くなっています。そして音色も冴えません。音の艶というか、響きかたの印象がよろしくないのです。キンスもいわば楽器みたいなものですから、光明寺のキンスの音色が良くないのは倍音の分布状態が良くないのでしょう。そもそも金属疲労の進行で、倍音の絶対的な発生量が激減しているようなのです。坊さんになってからは、このことが気になってしょうがなかった。困ったオッサンであります。繰り返しになりますが、楽器等の音の良し悪し、すなわち音色を左右する重要な要素は倍音であります。前述のとおり倍音とは通常は基音の整数倍なのですが、倍音が整数倍であるのは楽器や人の声などのケースで、これらの音は「楽音」と呼ばれます。ところがキンス等の金属等を叩いて音を出すケースでは事情が少々異なり、倍音は必ずしも整数倍とは限らないようです。それと、いいろいろ複雑な音(倍音ではない音)が同時に発生して独特な音色を作っているようなのです。そのあたりのことは、Google 等の検索サイトでヒットする「永観堂の梵鐘」というタイトルのPDFファイルが大変参考になります。梵鐘の音色の違いについて科学的な検証がされており、「実に奥が深いものなんだなー」と感じました。

永観堂は我が山寺が所属する西山浄土宗と同じ西山派の一派で、浄土宗西山禅林寺派の本山(禅林寺)の別名です。

その頃っていい時代だったんだね

2009年12月24日

こだわり住職がフォークギターに熱中していた頃、レコードに録音されているギター演奏を再現(コピー)できることは、とても格好いいことであり自慢でした。例えば井上陽水氏の3枚目のアルバムで、日本レコード史上初のLP販売100万枚突破の金字塔を打ち立てた名作「氷の世界」には、「心もよう」という誰もがよく知っている歌が入っていました。イントロのアルペジオがとても印象的な名曲ですが、この簡単なアルペジオがきちんと弾けるだけでも当時はちょっとした自慢でした。私もこの出だしを友人に聴かせてやり、みんなで歌ったりしたものです。そうすると友人たちは「吉村は上手いのー」などと、口々にもちあげてくれるのです。「いやー、この曲は簡単やから誰でもすぐ弾けるいやー」などと否定しながらも、内心はとってもうれしかったりするのであります。そんな調子で、フォーク系の人気ミュージシャンの曲で、イントロや伴奏アレンジに特徴的な(要するに格好いい)ギター演奏が入っている曲をきちんと再現することが出来るやつは、クラスや仲間内でちょっとした人気者となれました。それは結局女の子達の注目も集めることになるのです。

あの時代、ギターを弾けるということは、かなり格好いいことでした。よってスポーツや勉強、たぐいまれなる容姿あるいは人を笑わせる才能など、人気者になれる要素を不幸にも持ち合わせなかった少年達にとっては、当時のフォークブームも手伝って、フォークギターというのは一つの光明だったと思う。私自身もその傾向が強かった。意味もなくギターを背中に担いでチャリで友人宅に遊びに出かけていたのです。ギターを下げているということは「私はフォークギターが弾けるんですよ」と宣伝しているようなものです。当時、ギター少年の大半は格好いい(本人はそのつもりの)自分を夢見てギターを弾いていたのです。彼らにとって、公園の片隅にあるベンチで一人つま弾く姿はめちゃめちゃ格好いいのです。そんな妄想が受け入れられる時代でした。

われら青春

当時、少年たちの間では民放の学園青春ドラマが人気でした。なかでも昭和49年に放映された中村雅俊さん主演の「われら青春」には、私くらいの年代はそうとう影響を受けたふしがある。このドラマの主人公中村雅俊さんが、ある時は誰もいない教室からグラウンドを眺めながら、またあるときは真っ赤に燃える夕日に染まりながら...などと、多感な青少年達の琴線に触れるであろう実においしい場面設定で、「ふれあい」をギター片手に弾き語るシーンが毎回のように流れました。少年達はテレビの前でその姿に憧れ己の姿を重ねていました。だからやたらにギターを持ってうろつく、私のようにとぼけたやつも出てきます。しかし高校生のわが息子によると「今時の若者にそんな単純なんはおらんやろうー」だとか、「ギターで、もてようなんて甘い」などとみごとに却下である。 娘からは「その頃っていい時代だったんだねー」と、とどめのお言葉を頂戴した。「あい、すいませーん」である。時の流れとともに若者の意識も変化する。「あーこれも諸行無常なり」である。ではここで一首。「世の中の、移り変わりの早きこと、父の青春よき時代かな」そのまんまであります。

ギター三昧の顛末

2009年12月20日

... 前回より続く。さて、すでに書いたとおり、私は高校生の時に好きなギターが思いっきり弾けないという「求不得苦」を秘策で打破しました。それは親をあざむき担任を丸め込むという、いわば「禁じ手」ではありましたが、自分自身も相当努力して勝ち取ったものでした。それからの少年はギター三昧の日々を堪能し己の技術の向上に酔っていました。実際、短期間でかなりいい線まで行ったのです。しかし少年は再び「求不得苦」状態に陥ります。それは音へのこだわりでした。自分のギターでは伊勢氏のようないい音が出せないのです。(当時使用していたギターは、中学になった時に買ってもらったモーリスの入門機です)そう、ギターの奏でる音そのもの、音色がどうしても気に入らないのです。この時、己の演奏技術に疑問を持てばよかったのですが、まがりなにも三昧修行のおかげで急激に上達した(少なくとも途中までは)己の姿を見て、「自分はけっこう才能がある」と勘違いしていたので、意識だけはすでにプロレベルです。あろうことか、ひとっ飛びに音色に対してこだわりはじめたのです。要するに原因の分析と対策の選択が決定的に間違っていました。この段階で早くも楽器そのものの資質を強烈に意識しはじめます。(己の資質を意識すべきであったのに)当時、人気のフォーク・シンガーが使用していたアコースティックギターはアメリカ製です。マーチン・ギブソン・ギルドの御三家でした。なかでもマーチン社のD-28は多くのプロミュージシャンが定番として使用していたので(崇拝する伊勢正三氏もD-28だった)ギター少年達のあこがれの存在でした。当時50万円位の価格だったと記憶しています。(円高のおかげで今はずいぶん安く買えるようになった)現物を間近で見たことは無かったのですが、雑誌等を通してその評判や実績は熟知していました。

ヤイリYW-1000.jpg

さて、そのマーチンに憧れる少年がとった行動とは「このままでは、さらなる向上が望めない」と、盆や正月に叔父や叔母達から頂戴した小遣いと、学校に内緒のバイトでなんとか3万位の貯金を確保し、それを全額母親に渡して新しいギターの購入のために追加支援を願い出たのです。母と二人で、美祢線、山陽本線、鹿児島本線と乗り継いで北九州市の小倉まで行き、雑誌の広告を頼りに大手の楽器店(今もある)まで調達に出かけ、当時の国産では最上クラスであったKヤイリ社のYW-1000 (マーチン社の最高級モデルD-45を模した美しいギターである)を購入しました。価格は10万です。つくづく母親とは慈悲深くありがたい存在です。子供のためなら大抵のことはいとわない。自分の着る物を惜しんででも「我が子の夢をかなえてやりたい」と、今思えば高価な買い物をさせてしまいました。あの時代に田舎少年が10万とは相当なしろものです。実際当時レコードデビューしていたフォーク・シンガーの中にも愛用者がいました。レコードジャケットの写真の中に自分の愛器と同じギターがあるのを見つけたときは、まるで自分が天下を取ったかのように嬉しかったものです。新しいギターを手に入れた少年のテンションは最高潮に達しました。音はたしかに変わり完全コピーを誓った「22才の別れ」のリードギター演奏は、この時点で一段と完成の域に近づいて行ったのです。しかし、相当がんばった。なのにである。かなり肉薄したがまだダメでした。なぜなんだ?おかしい?おかしい?本当におかしかったのは少年の頭の中であったのですが、そんなことは本人には解らない。どうして同じ音色が出せないのだろう。「やっぱり伊勢さんと同じマーチンでないとダメなんやろか」と、音色の良し悪しに執着(しゅうちゃく:仏教において事物に固執し囚われる事。仏道修行を妨げる心の働き)するあまり、己の技術を疑うことを忘れていたのです。

今思えば、その頃より私の技術的な向上は頭打ちになっていました。卒業を控えた3年になると、さすがに進路のことも考えなくてはならず練習は徐々に怠るようになっていました。それとともに演奏レベルはむしろ低下して行きます。プロの奏者が口を揃えて言う「毎日練習しないと確実に腕が落ちる」を雑誌などで充分知っていながら、自分の事は忘れています。しまいには「やっぱマーチンなんだ」との思い込みが支配的になって行きます。自分の技術的な限界がネックになっていることに、目を向けようとしない愚かな少年でした。大学に進むと、ギター演奏の貴重な相棒であった弟と離れたこともありギター熱が徐々に冷めていきます。それでも、グレープ解散後にさだまさし氏が立て続けにリリースしたアルバムに影響されて(アコースティックギターの演奏曲が多かった)多少は弾いていました。しかし、卒業の頃には世間は完全にフォーク時代の終演を迎えており、それを機にギターはまったく弾かなくなりました。結局、少年の(この頃はもう青年だが)「求不得苦」は自然消滅したのです。ヤイリはハードケースに納まったまま、取り出す機会も無く長年放置されることになりました。

マーチン社のカタログより.jpg

ギターを弾かなくなったギター少年が、憧れのマーチンD-28を間近で目にしたのは随分後のことです。月日は流れ少年は父親となっていました。そして、ちょうど自分が初めてギターを買ってもらった歳に長女が成長した頃でした。ある地方都市の楽器店で偶然にD-28を見つけたのです。高校生の頃、雑誌やカタログの写真で毎日のように眺めていたせいか、初めての対面なのに妙に懐かしくて、まるで若き日に恋い焦がれた片思いの女性に偶然再会したような気分でした。世間に「大人買い」という言葉があります。子供の頃に手が出せず憧れだった物を、大人になってから思いっきりまとめ買いして子供の頃の夢をかなえる行為です。私もその時、まさに「大人買い」の衝動にかられました。「今なら買えないこともない」の思いが頭の中を巡ります。いつまでもガラスケースの前から動かない姿が店主の目に止まり声をかけられました。事情を話すとご好意で店主の私物であるD-28を少々弾かせて頂けることになりました。ついに本物の音が聴けるのです。十数年ぶりのギターなので、とても緊張してマーチンを小脇に抱えたことをよく覚えています。D-28を今まさに弾こうとしている自分の姿を、もう一人の自分が固唾を飲むようにして見つめていました。いい大人が脈は速まり呼吸は乱れています。音叉を膝頭でコンと叩きギターのトップで響かせてチューニングしていく手順はまだ忘れていませんでした。解放弦の音を自分の耳でまず合わせます。次にハーモニックス(倍音)で確認し、最後に適当なコードをジャランジャランとやって、全体のバランスを確認しながら微調整を済ませたら準備完了です。

最初に弾いたのは、やはり「22才の別れ」のスリーフィンガーでした。「至福の瞬間」とは、まさにこんな場面のためにある言葉だと思います。しかし調子にのって次にさだまさし氏のソロアルバム「帰去来」にあった「線香花火」を弾きはじめた頃から、その「至福の瞬間」はすでに終演を迎えようとしていたのです。ラスト1曲に選んだのは、同じくさだまさし氏のアルバム「主人公」にあった「掌:てのひら」でした。(ギターのみでドラマチックに演奏されている弾き語り調の名曲、めちゃくちゃ哀しい曲なので落ち込んでいるときには聴かないほうが良い、危険です)それを弾き始めた頃には私は完全に覚醒していました。なんということでしょう。あれほど憧れたあのマーチンD-28が、私の手にかかると大して鳴らないのです。まるで国産中級機並です。冷静になった我が耳には、高校時代にヤイリで出していた音の方が良かったくらいに思えるのです。ようやくこのとき私は全てを悟りました。「マーチンD-28がすばらしい音色で鳴っていたのは伊勢正三氏が弾いていたからなんだ」「自分の腕ではたとえマーチンを手に入れていたとしても結局ダメだったんだ」そしてあろうことか「弾かせてもらわなければよかった」と、心のどこかでつぶやく自分が哀しかった。

あこがれは、あこがれのままが一番幸せなのかもしれません。現実とはかくも残酷なものです。娑婆世界(現実世界)とは、まことに何もかもが己の思うようには行かない世界であります。

ギター少年の求不得苦

2009年12月16日

前回書いた通り、ギター少年(私)の技術的なピークは「風」からリリースされた「22才の別れ」がヒットし、そのリードギターにチャレンジしていた頃です。「22才の別れ」がリリースされたのは調べてみると1975年の春です。75年は高校生になった年で、いわば一番真剣にギター修行に励んだ時代です。少年は「風」バージョンの「22才の別れ」を完全コピーする為に、またいつもの「耳コピー」で挑戦することになりました。

レコードをカセットテープに録音して何十回何百回と繰り返し聴きました。予備も複数必要でした。執拗に巻き戻し再生を繰り返すので、テープが伸びて音程が狂ってくるからです。リードギターは伊勢さんが弾くメロディーを耳で覚えてギターのポジションを探し、再現しながらコピー譜面を作って行きます。スリーフィンガー演奏のコピーは、同時に多数の音が鳴っているので一段と困難な作業でした。現在であればパソコンを使って効率的な作業が出来ますが、当時の少年にとって頼りは自分の耳だけです。それでも少年は「絶対完全コピーしてやる」と燃えていたのです。しかし少年の意気込みとは裏腹に作業はやがて停滞しました。

その原因は高校入学時になんとなく「背が伸びるかも?」と選んだバスケット部でした。ウエスト85㌢の今の体型からはとても想像できないのですが、子供のころは常に野山で遊んでいた野生児です。真っ黒に日焼けして、むしろ痩せていました。小学校まではおチビさんでしたが、中学に入ると徐々に人並みに追いつき、3年の頃には自分でもほれぼれする大腿筋でした。高校入学の時に制服のズボンをウエストに合わせると、太ももの部分がきつくて困ったものです。しかしそれはいわば「えせスポーツマン体型」でした。

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私が学んだ中学校は田舎の学校ですから、陸上部なんてものはありません。しかし毎年夏休みに入ると、秋に行われる市内全校での体育祭(県の大会の予選会を兼ねる)にそなえて臨時の陸上部が編成されます。私も三年のときにはメンバーでした。一応得意の種目は100㍍と走り幅跳びです。そしてその大会の走り幅跳びで勝ってしまい、市の代表として県の大会に出場しました。だから当時の田舎中学生としては、まあまあではありました。ただし短距離得意の身体を支えるもの、すなち瞬発力に優れる筋肉というものは持久力がありません。非常に疲れやすい筋肉です。乳酸が蓄積しやすく、いったんそうなると回復に時間がかかる性質が顕著です。短距離系で体が硬い人は特にこの傾向があります。ですから運動会のリレーではスターでしたが、マラソン大会ではまったくみじめなものです。結局差し引きゼロです。

さて、そういう体質でバスケットをやるとどうなるのか?経験者ならわかると思いますが、バスケはメチャメチャハードな競技で死ぬほど疲れます。プレー中はダッシュの連続で休む間がありません。1年坊主は毎日毎日先輩から厳しいトレーニングを課せられました。帰ったらバタンキューです。全身が筋肉痛でギターを弾く元気もありません。休日もバスケの練習があります。ギターを思いっきりやれなくて、悶々とした日々(仏教で言う求不得苦の状態)がむなしく過ぎて行きました。

そこで少年は少年なりに、この事態を打開するべくある秘策を練りました。その作戦とはクラブをやめることです。私の通った高校は、最低でも1年坊主の間は何かのクラブ活動に所属することになっていました。しかしそれは原則であって、諸般の事情により例外を認めることもあります。ただし、担任や親が認めてくれそうな理由が必要です。少年はこのとき素晴らしいアイデアが浮かび、実際その作戦は成功しました。理由は「疲れて勉強ができないのでやめさせて」です。笑わないで下さい。こういう理由が嘘なのは誰でもずぐ解るわけですが、そこをあくまでも真剣な顔をして、思い詰めた表情で訴えなければなりません。さらにそのウソ八百を正当化する材料を確保する行動を、少年は密かに実行していました。高校では学期ごとに中間テストと期末テストがあります。そこで、たて続けに成績を意図的に落として行くのです。成績を上げるのは難しいですが下げるのは簡単です。するとさすがに放任主義の両親も「どうしたのか?」と言ってきます。そこで例の「クラブで疲れて...」と、まず親をだまします。次に難敵の担任です。生徒の言う「成績が落ちるのはクラブのせいで」なんて理由を、はなっから信じるわけありませんわ。そこで「試しにしばらく休ませて欲しい、絶対成績があがるはずだから」と交渉するのです。自分ではなく母親に言わせるのです。こういう手の込んだ手口で退部のチャンスを得た私は、「今しかない」とめちゃくちゃ一生懸命勉強したのです。当然成績はドカーンと上がります。テストで満点を取ったのは後にも先にもこのときだけです。晴れてバスケット部を円満退部になった私の喜び様は、みなさんご想像の通りです。ギター三昧の日々に突入です。少年は再びギター修行に没頭し、演奏テクニックは急激に上達して行きました。しかし、ふたたび求不得苦にさいなまれるとは、その時は想像もしていなかったのです。(続きは次回で)

三昧は仏教用語です。心を静めて一つの対象に集中し心を散らさぬ状態、あるいはその状態に至る修行・修練のことである。 

この世は諸行無常なり

2009年12月15日

こだわり住職は若い頃にフォークギター(アコースティックギター)に夢中になっていたことがあります。私の青春時代はフォークやニューミュージックと呼ばれたジャンルの歌曲が全盛の時代でした。中学1年の夏に親に頼み込んでモーリスのフォークギターを買ってもらい、最初に弾けるようになった曲が「小さな日記」でした。山で帰らぬ人となった恋人との思い出を歌った名曲です。当時中学校の音楽の授業では、教科書とは別にさまざまな歌が掲載された副読本(歌本)も使用していました。たしか「みんなのうた100」だったと思います。音楽を指導して下さった山本先生は、毎回のようにこの副読本や、あるいは先生が独自に用意された曲を歌う機会を設けてくださいました。「小さな日記」がこの副読本に載っていたのかどうか、もう覚えていないのですが、おかげで私は多感なこの時期にさまざまな歌に出会い、歌の魅力のとりこになるわけです。その後の私は当時のフォークを弾き語りで歌うことに夢中になります。六文銭、五つの赤い風船、吉田拓郎、井上陽水、森山良子、松山千春、チューリップ、かぐや姫、グレープ、風、オフ・コース、中島みゆき、五輪まゆみ、さだまさし、などと、当時のフォーク・ニューミュージック系シンガーたちの歌曲を歌いまくり、やがてレコード演奏のコピーにも手を出して行くようになりました。学校の勉強なんてそっちのけです。愛読書はさまざまなフォーク雑誌やギター演奏雑誌、そして一番大事だったのは弾き語りのための歌本とレコードコピー譜でした。

ところで、私には1才違いの弟が(吉村賢治、今は前田賢治に名前が変わっちゃった)います。その弟に兄の熱病が感染するのは時間の問題でした。弟は幼少のころからピアノを習っており、私よりもはるかにこの手の才能に恵まれていました。ですから私がギターの手ほどきをすると、弟はあっという間に上達してしまい、兄弟でアコーステックギターの共演(レコードコピー)を行うことが可能になったのです。私たち兄弟は、自分達の演奏をテープレコーダーに録音してはレコードと聞き比べて、あそこが違うここが違うと日夜研究にはげみました。今思えばずいぶん熱心に練習したものです。そんな私の演奏テクニックが最高潮に達したのは「風」のデビューシングルであった「22才の別れ」のコピー演奏に挑戦していた頃です。元々は「かぐや姫」時代の伊勢正三さんが74年のアルバム「三階建の詩」のために書いたもので、もう一曲「なごり雪」も同アルバムで書いています。5年間月日を共にした一番大切な人のもとから、その人の知らない所へ嫁いでいく女性の惜別の詩です。「今はただ5年の月日が、長すぎた春と言えるだけです...」の歌詞が印象的でした。「22才の別れ」は、かぐや姫を知る人にとってはなじみ深い名曲ですが、一般的には「風」がシングルヒットさせたことで完全にメジャーな曲となりました。その際に巷では「長すぎた春」のセリフが流行りました。この曲はかぐや姫の時代から私たちのお気に入りでした。見事なスリーフィンガー演奏で、その華やかな音色や開放弦の倍音(わずか1音のハーモニックス)がワンポイントになっていて格好良かった。イントロのリードギターは特に印象的で、アコースティックギター演奏のコピー対象曲として、あきれるほど繰り返し聞いた思い出深い曲です。

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さて、かぐや姫解散後に伊勢正三さんがまもなく結成したグループ「風」から、「22才の別れ」がシングルリリースされたというので、私たち兄弟はさっそく聞いてみました。すると以前のアレンジとは結構変わっており、良い刺激というか実に新鮮でした。その違いを説明するのはなかなか難しいのですが、演奏上の技術的なことなどはともかく、曲の印象とういか空気感・透明感の違いは聞き比べるとよく解ると思います。この曲はかぐや姫の時代から、別れの歌でありながら湿めっぽい感じは適度に押さえられて、わりとサラッと歌い上げられていました。この基本路線は同じなのですが、こちらはずっと洗練されており、おしゃれな印象を受けます。楽器構成はベースとドラムは同じでしたが、なんといってもアコースティックギターの音色が随分変化しているので驚きました。そして、チェロ(たぶん)がワンポイント的に参加しており、キーボードはシンセサイザーからピアノに変っていました。目をひくのはドラム以外すべて弦を使う楽器であること。そしてベース以外はすべてアコースティックであることです(前作はシンセサイザーがありました)。「風」バージョンはアコースティックギターの切れの良い音色を前面に出したアレンジで、前作より軽やかさや繊細が強調されています。それとレコーディング機器や編集技術のグレードが上がっているのか、目を見張るようなクリアなサウンドに仕上がっていました。特にギタリスト石川鷹彦氏のナッシュビルチューニングによるスリーフィンガー演奏は効果絶大でした。曲全体になんというか華がありました。ギターの音色は一段と高音の抜けが素晴らしくなっており、美しくきらびやかです。圧巻だったのは素晴らしいリードギターです。イントロも、曲中も、間奏も、エンディングも、「これでもか」と言わんばかりに、高度な技術が山盛り状態の演奏です。まるでアコースティックギターのスペシャリスト向けの演奏見本です。当時このことは業界でも話題になりました。多少なりとも腕に自信のある好き者たちは、この完全コピーにチャレンジするのが流行りました。かくゆうこの私も無謀にもチャレンジした一人なのです。

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風バージョンのコピーはリードギターとセカンドギターのスリーフィンガー、そしてメインボーカルを私が担当しました。(兄の特権で目立つ方をぶん取った)弟がファーストギターのスリーフィンガーとベース、そしてセカンドボーカルを担当しました。二人で再現するのですから一度に演奏はできません。二回に分けて演奏します。最初の演奏の録音を再生しながら、二度目の演奏を行いつつ二人のボーカルを重ねて録音するのです。そんなめちゃくちゃ原始的なインチキ多重録音でデモテープを作って喜んでいました。録音する際には残響効果の高い浴室を臨時スタジオにするのがいつものパターンでした。休みの日には一日中兄弟が浴室にこもるなんてこともありました。今思えば「22才の別れ」のリードギターにチャレンジしていたあの頃が、私のギターテクニックが最高潮に達していた瞬間だったのです。その後、大学に進み弟と離れて暮らすようになり、相棒を見つけることが出来なかった私のギター熱は徐々に冷めて行きました。社会人となりサラリーマン生活を送るようになってからは、ギターを触る機会は皆無となりました。七年前に会社を退職し妻の実家の寺の坊主になってから、ボランティア活動として人様の前で数回演奏する機会があったのですが、めちゃくちゃ下手くそになっている自分に驚きました。お気に入りだった「22才の別れ」のリードギターはすっかり忘れています。今となってはあのリードギターを多少なりとも演奏出来ていたことが不思議でなりません。まさにこの世は諸行無常なり。

行無常とは、この世の現実存在は全て姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この世に変わらないものは無いのであるから、いま目の前にある現実存在に執着することは己を苦しめるだけである。人は執着を捨てそこから解放さたときはじめて楽になれるのである。

密教僧呂と同席出来ました

2009年12月13日

大般若経(第五百七十八・理.jpg

当サイトの[境内のご案内]で山寺の大日如来さんのご宝前に奉納されている大般若経や転読修行についてご案内をしておりますが、組内の西光寺で大般若転読修行が開催され、その席で大般若経をパラパラやらせて頂きましたので、本日は大般若経や大般若転読修行関連でもう少し詳しく書いてみます。

日本の仏教はインドからシルクロードによって中国大陸を経由して伝来しており、北伝仏教と呼ばれています。これに対して南側の別のルートで、タイやミャンマー、スリランカ等に伝搬したのが南伝仏教で、上座部仏教とも呼ばれます。今回とりあげるのは日本に伝来した北伝ですが、この北伝仏教は大きな乗り物のたとえから別名「大乗仏教」とも呼ばれています。大きな乗り物とは覚りの世界行きの大きな乗り物の意です。言い方を変えると大乗仏教とはなるべく多くの人々が救われることをコンセプトにしている仏教と言えます。この大乗仏教の初期段階での思想、いわば大乗思想の根本的な考え方の到達点であり、大乗仏教の基礎的な教義が述べられている長短様々な経典を般若経典といいます。そしてこれらを集大成したものが通称大般若経と呼ばれ、正式には大般若波羅蜜経(だいはんにゃはらみったきょう)です。

大般若経は、私の知る範囲では1セットのお経としては、最長最大(考えかたにもよるが)の経典だと思います。1箱に50巻で12箱あるので、合計600巻の膨大な量になり保管しておくだけでも大変です。このお経を630年頃にインド等から中国へ持ち帰り、4年の歳月をかけて漢訳したのが、孫悟空の物語「西遊記」で知られる「三蔵法師玄奘」さんで、現在日本国内の各寺院に保存されている大般若経といえばこれになります。しかし大般若経がいくら大切な経典だと云われても、例えば全巻をとりあえず読んでみろと言われたら大変なことです。私などは限りなく不可能に近いと思われます。(申し訳ありません)

大般若経の一部.jpg

ところで、この巨大な経典のエッセンスをわずか二百七十余文字(宗派により微妙に文字数が異なります)に集約したといわれている(異説もありますが)お経があります。それがかの有名な「般若心経」です。大般若の教えの神髄が、おもいっきり圧縮されて書かれており、おかげで私でも暗唱することが可能です。私にとっては実にありがたいお経です。大般若転読の際には転読をはじめる前にまずこの般若心経を読誦し、その後に大般若経の転読が始まります。当サイト[境内のご案内]の中にある[大般若経と転読修行]の部分で少々触れていますが、転読修行において600巻を本当にきちんと読むわけにはゆきません。「だからこそ、最初に般若心経を読むんだ」とひとり勝手に思い込んだりしています。実際には作法や良い意味での形式(これらを指して坊さんは法式: ほっしきと呼んだりします)を重んじている我が宗派では、転読を始める前に「洒水」(しゃすい)というお清めの儀式を行い、その際に般若心経を読むことになっているので、自動的にそうなっているふしもなきにしもあらずです。

さて、話を西光寺での転読に戻します。本日の転読では西山浄土宗の僧侶は西光寺住職と私だけでした。それというのも住職の弟さんが天台密教系の僧侶なので、その人脈で今年は密教系の僧侶が多数集まりました。我が西山浄土宗でも天台や真言と同様の密教系経典を少々読誦しますが、とりわけ密教色の濃い大般若転読を体験する機会は限られます。なんといっても我々は「南無阿弥陀仏」が一番大事です。そもそも大般若経はそんじょそこらにあるわけでは無くて、けっこう貴重なものです。幸か不幸か(失言)我が山寺は真言密教の長い歴史があり、真言時代のご本尊だった大日如来さんのご宝前に大般若経が奉納されています。そのため毎年4月29日の大日祭りでは転読修行を行っています。そういう事情の寺の住職なのですから、私もそこそこにはやれるわけです。しかし現役バリバリの密教僧侶はさすがに違いました。みなさんは常日頃から転読をやっておられるので、これが実にお上手なわけです。大変勉強になりました。(たぶん来年もお会い出来るでしょうから、この次は圧倒されないように気合いを入れて臨みたいものです)

密教仏具.jpg

大般若の転読修行では、お導師を中心に多数の僧が大般若経を一巻ごとに両手で捧げ持ち、呪文を唱えながらパラパラと風を送り込むかのように経典をめくります。見た目にも派手な動作です。決まれば実に見事ですが、やってみると見た目以上に難しくて熟練を要します。パラパラの最中には、雰囲気を盛り上げるために(また失言)摩訶不思議な呪文を称えたり、経典の一部を読み上げたりします。俗に般若読みといわれる、おどろおどろしい一種独特な大音声で唱えるのですが、慣れないと大声で唱えるのはかなり度胸が必要です。私などやり始めた当初は例のぱらぱらの最中に唱える呪文(陀羅尼とか真言と呼びます)がうまく発声できなくて、いま振り返ってみると「全然決まってなかったナー」と恥ずかしくなります。パラパラの終わりには「降伏一切大魔最勝成就」と祈りと願いを込めて大音声で唱え、転読の終わった経本を経机等に叩きつけるようにしてパンと派手な音を立てます。まったくもって、やることなすことすべてに派手です。

「降伏一切大魔最勝成就」(ごうぶく・いっさい・だいま・さいしょう・じょうじゅ)は「一切の魔を打ち破り、最も素晴らしい幸せを成就させる」という意味です。これは、みんなの心を一つにして世の中すべての過ちを心より懺悔し、お釈迦さまの大きな願いの通りに生きとし生けるもの全てが平安で幸いに恵まれますようにと祈っているのです。

私たちは多かれ少なかれ悪いことをしてしまう存在です。だから懺悔が必要なのです。例えば生まれてから今日まで、およそ嘘をついたことのない人なんていないでしょう。もしいたら手を上げてみてください。いないですよね。それほど人とは罪深い生き物なのです。だからまず懺悔なのですが、ここで重要なのは自分以外のすべての過ちまで懺悔し、生きとし生けるものすべての幸福を願うという事です。「他人や、まして生きとし生ける者全ての懺悔と幸福だなんて、なんておおげさな」と思われるかも知れません。しかし今の世の中を見ていると、本当にそういう人の在り方を取り戻して行かねばならないと思うのです。世間では「嘘」が平気でまかり通り「不正」だとか「偽装」だとか、あるいは「汚職」などという言葉がすっかり当たり前になってしまいました。このままでは人の上に立って人々を導くべき人が、人びとの汗と涙の結晶をかすめ取り、強者はますます栄え弱者は取り残されて行くばかりです。一番恐ろしいのは国や政治家が信用できなくなることかもしれません。「おれの年金どうしてくれるんだ、賃金ちっとも上がらないじゃないか」なんて叫びたくなるのが現実です。しかし、だからこそ誰が悪いと言う前に、まずは「この自分はどうであるか」を問い続け「世の人々の平安と幸いを願う」ことが、社会のあり方を変て行くのだと信じて行こうではありませんか。お釈迦様が説いたのはこういう人々のあり方であり、それが仏道だと考えます。

お経を読まなくても懺悔はできます。祈ることもできます。誰でも出来るのです。さあ願いを込めて祈って参りましょう。「生きとし生けるもの全てが幸いであれ」と。大般若転読修行の目指すものとは、そういうことなのだと私は考えています。

お仏飯について

2009年12月08日

お仏飯

お仏壇の前に着座すると気になることの一つにお仏飯があります。足付きの小さな容器にご飯を盛って、最上段にいらっしゃる御本尊や脇侍の前にお供えする、あれですね。「おはち」とも呼びますが、毎朝炊きたてのご飯を一番にお供えするのが良いといわれています。実際お年寄りのおられる家ではきちんと実践されていることも珍しくありません。その行為は一見佛さまにお食事をさしあげているように見えますが、佛さまのお食事は香ですから、お仏飯には違う意味があります。これは、私たちが無事に命あるこの身で今日を迎え、他の命を頂くこと(食事)で生きて行くことに対する懺悔と感謝の心を示しているのです。だから我々は食事の前には合掌し「(命を)頂きます」と云うのです。

お仏飯を毎朝お供えするということは大変よいことです。ただ気になるのはお供えした後のことです。いつまでも放置していませんか?午前中に下げるのが正しいのだとかいや違うとか諸説ありますが、感心しないのは、ご飯がカリカリになるまで放置して、結局ゴミとして捨てることです。昔はお供えしたご飯は川に流すのが正しいとされていたらしいのですが、(餓鬼への供養になるという考え方...)現代ではそういう訳にも行きません。そこで、こだわり住職は朝お仏飯をお供えし、お線香をさしあげたら、すぐに下げて朝食の一部として食して下さいとご案内しています。そうすれば粗末にならず環境にも良いのではないでしょうか。

それから、通常お仏飯は最上段の佛様の直前にお供えするとされていますが、現実には狭い仏壇の中で最上段に器を運ぼうとすると、華瓶や灯明台を転倒させたりして良いことは少しもありません。最上段へ仏飯器を持ち上げる専用の器具(孫の手風の器具)を使用していたある檀家さんは、仏飯器が器具から落下してしまい、仏壇が台無しになったといいます。ですから、無理に最上段へ運ばず最下段にお供えするので良いのです。要は感謝の心をお供えし合掌することが大事なのです。なお、お仏壇にはお仏飯以外に果物や菓子などをお供えすることもよくありますが、この場合も同様です。初ものや頂きものは、まずはお仏壇に供えるという習慣を付けましょう。合掌したらすぐに下げておいしく頂くのが正しいのです。昔から日本人は「佛さまのお下がりを頂戴する」と云っておりました。現代人が忘れかけている大切な言葉ではないでしょうか。

見栄の仏壇と篤信の仏壇

2009年12月07日

mokugyo.jpg

お仏壇はとても立派なのですが、その前に座ると違和感のある家があります。よく見ると一部に問題があるのでそう感じるのです。例えばある家では線香を立てようとすると、香炉の中にマッチの燃えかすが何本も刺してありました。燃えかすの入れ物が無いため処置に困ってつい入れてしまうわけです。しかしこれは一番やってはいけないことです。「マッチ消しの一つくらいちゃんとそろえて下さいよ...マッチの燃えかすを香炉に入れるくらいならライターを置いときなさいよ...」と、思わず心の中でつぶやいてしまいます。その他にも、仏壇の荘厳はまことに立派なのですが、明らかに他宗派の様式と我が宗派の様式がごちゃまぜになっている仏壇や、読経の為に必要な仏具が揃っていない仏壇もあります。リンはそれなりの物があるのですが木魚がない家、そうかと思えば木魚があるのにリンが無い家があったりします。こういうのを「見栄の仏壇・置いてるだけの仏壇」と云います。このあたりをしっかり指導してゆくのが僧侶の責任ではありますが、これらの多くは仏壇を販売した際の仏具店にも原因があるのです。大物(仏壇本体)を売りたい一心で本体以外の付属品や仏具への配慮が欠落した結果がこのような事態を招いているのです。本来仏壇店(プロ)であれば宗派による荘厳のしきたりは当然心得ておくべきですが、これをまったく理解していない店が意外とあります。新しい仏壇が入った檀家の家に開眼供養に行くと、あろうことか他宗派の宗紋が入った提灯が下がっていたり、我が宗派では使用しない様式の打敷がかかっていたりします。あきれかえって怒る気にもなりませんが、悲しいかなこれが現実です。

こだわり住職は僧侶になって以来、本山で学んだ作法の読経を、出来るだけ忠実に再現することを心がけて来ました。我が宗派においては、本式に読経を行う場合は前記のリンと木魚以外にも伏鐘・音木・ケンツイなどと呼ぶ鳴り物も使用しますが、これらの仏具がすべて揃っている家はまずありません。もちろん一般家庭でそこまで揃える必要はないのですが、リンや木魚さえも無い場合があるので、法務の際には鳴り物一式や焼香用具一式などを常に持ち歩き、不足している仏具をおもむろに取り出して読経を行います。見ようによっては嫌みなくらい丁寧にやらせてもらっています。要は「揃えてもらえませんかねー」とハッキリと口に出来ない小心者の住職が、無言のアピールをしているわけです。

一方、篤信の(家の)仏壇の例もご紹介しておきます。お仏壇は新しいわけでも特別立派なわけでもありません。その家の先々代が入れられたものを今も大切に使われている家です。しかしいつ行っても仏壇の掃除は行き届いています。古いながらもリンは一般家庭用としては少々大きめで、正式なリン台にのせてあります。要するにお寺の本堂にある大型のリン(大型のものは本当はキンスと呼びます)と同じ様式です。木魚は使い込んでいるので表面が多少すり減っていますがまだまだ使えます。木魚をのせる丸座布団と木魚をたたく棒(バイと云います)は、消耗品なのできちんと更新してあります。同様にリンの座布団とリンをたたくリン棒も消耗品なので更新してあります。本体はいずれも古いものではありますが、その家の歴史が感じられて好感がもてます。法事の為に約束の時間に伺うと香炉にはすでに炭が入れてあり、着座すると直ちに焼香できるようになっています。こういうお宅の仏壇に向かうと私も人間ですから読経に集中でき、いっそう充実した法要が出来ることになってしまいます。(それではいけないのでしょうが・・・)さてみなさんのお宅はいかがでしょうか?

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