こだわり住職のよもやま話

「法然の哀しみ」について

2010年01月29日

坊さんになる為に会社を退職して毎日が日曜になった私が、まず最初にやったことは仏教関係の書籍を片っ端から読みあさることでした。それまで仏の世界とはおよそ遠いところで漫然と日々を過ごしていたので(今も大して変わらんけど)当然その手のことに関する知識は乏しかった。しかも宗教というものに一種の偏見を持っていました。確かに世間には立派な宗教家もおられますが、煮ても焼いても食えないような「えせ仏教者」も存在します。「どうして、あんなインチキ教祖さまを信じる人がいるのだろう?」と不思議でならなかった。なかにはとんでもない反社会的な集団も存在し、司直の裁きを受けることになったりしています。そんな教祖さまが説く教え(うそっぱち)と、お釈迦さまが説いた真理を同じ土俵で語られたら、仏教界としては大迷惑でしょう。結局一般人の心証としては宗教に対する印象は悪化する一方です。私もそうでした。事実宗教は古今東西、両刃の剣でした。人々を救う尊い教えも、取り扱いを間違えると人を不幸にし国も滅ぼしかねない。アフリカの内戦や中東の問題、そして9.11の悲劇などを見ていると、みんな大なり小なり民族と宗教の問題が絡んでいます。(根本は差別や格差、貧困などが原因なのかもしれないが)だから私にとって宗教は危険な「毒」でした。一度はまると容易には抜けられない「呪縛」です。危ないものであり近づかない方が良いものとの認識がありました。「さわらぬ神(仏?)にたたり無し」です。ところで今の私にとって切実な呪縛は「喫煙」です。これもかなり危険です。おまけに周りに迷惑をかける。どうにかしないといけないのだが....(また話がずれてる)

さて、宗教をうさんくさいものと感じていた私でずが、人間は実に複雑な思考をする生き物です。いやだいやだと毛嫌いを装いながら実は興味があったりする。(恋する女性みたいだ)私もその傾向があったのかもしれません。だから中途半端な知識があったし、それが偏見を生む温床にもなっていました。なんの因果か坊さんになることになったので、まずは宗教をきちんと調べてみようと考え、関係の書籍を大量に買い込み図書館にも足を運びました。そしてさまざまな情報ソースから、仏教を中心に宗教というものを知っていくことになりました。相手は「おしえ」と称し変幻自在でとらえどころが無い難敵です。実にさまざまな見方や意見がありました。批判的な意見や問題提起の書籍も随分読みました。そんな私が宗祖法然上人のことを知りたくて、いろいろ読んだ中で一番心に響いたのが、梅原 猛氏が著した「法然の哀しみ」でした。

法然上人御火葬跡(総本山光明境内)

一般的に法然上人のことを知ろうとすると、たいていは宗教界での定説に準じた情報になります。このサイトの「宗祖流祖について」に掲載してある法然上人に関する記事もほぼ定説に従っているので、それらと同様の問題ない(たぶん)解説だと思います。しかしそれはいわば当たり障りのない紹介です。寺の公式ホームページだし、私は宗門に所属する現役の僧侶なので独自色の強いことを詳しく書くわけにも行きません。(叱られるかもしれませんから)ところが梅原氏が書かれた「法然の哀しみ」は、タイトルからも想像できるように法然論を述べる一般的な宗教書とは少々異なります。氏はこの著書で法然上人の思想と人生を広く深く見渡しておられます。そして人間としての法然上人を鋭く観察し、これまで語られることの無かった視点から法然像を追っておられます。だから大変印象に残る一冊でした。(それでも、純粋な小説とは違って読むには少々骨がおれますけどね)

ところで宗教者の人間像がテーマの書物、宗教書というよりもむしろ一般大衆向けの小説に近いジャンルで、圧倒的に人気があり有名なのは親鸞聖人でしょう。最近の例では五木寛之氏が親鸞さんをテーマにした小説を出版されて注目されていますね。親鸞さんは当時宗教界におけるタブーであった肉食妻帯を公然として破った僧侶として有名です。(実際にはこっそり破っていた高僧は随分いたらしいのですが)愚禿親鸞と自ら名乗り非僧非俗の生活を送っています。日々の暮らしの中で自己の煩悩に苦しみ、その苦悩を弥陀への信仰により克服する生き方を実践して、絶対他力の教えを完成させた人です。だから一人の人間像として注目する時、親鸞さんは我々俗人から見ると親しみやすく魅力的な存在です。

私の父母が愛用している本願寺教団のおつとめ経本を開くと、親鸞聖人の姿を描いた墨絵が載っています。壮年期(たぶん)の親鸞さんのお姿を伝える「鏡の御影」と呼ばれている肖像です。その親鸞さんは少々哀しげで遠い目をしています。そして親鸞さん晩年の姿を伝える有名な「熊皮の御影」のお顔となると、何の知識も持たずに拝見すると相当刺激的だと思います。お世辞にも良い人相とは言えないからです。まさに己の煩悩の地獄を凝視しつづけた親鸞さんの人生が、その表情に滲み出ているのです。一方法然上人は極めてまれにみる清僧でした。親鸞さんのような刺激的な肖像はありません。よく知られている法然上人の肖像を拝見すると、実に温厚で優しそうなお人柄を伝えています。まさに清く正しくの人であったのでしょう。だから今日法然さんが法然上人と呼ばれ一般的な「上の人」で、一方親鸞さんは親鸞聖人と呼ばれて「聖人」となっているのは、むしろ逆ではないかと個人的には思います。(いろいろ事情があるのでしょうけど)

我々は子供の頃にはヘレンケラーとかガンジーだとかの物語を素直に読めても、大人になると「清く正しく」の話では面白くないからいまさら読まないものです。もっと現実的でむしろドロドロした話の方が面白い。大人になるということはそれだけ自分も汚れて行くことです。それが普通の人であり一般大衆というものです。だから小説の題材としては法然さんは少々魅力に欠けます。これまで人間法然をテーマにした書籍は無いに等しかった。そういう意味でもこの著作は注目に値します。著者自身の人生観や人間性も伝わって来る作品です。氏の著作活動は現場第一主義です。取材の過程はまるで小説に出てくるベテラン刑事です。現場を丁寧に回って取材を重ね、自分の肌で感じたことを大切にされています。机上の資料や情報を鵜呑みにしません。自ら現場へ出向き鋭い観察力で思索します。そこが素晴らしいのです。その場に立ち自分で感じ取ったことだからこそ書けたのであろう言葉が多くあります。氏が作品中で述べている考察、いわば自分の五感もフルに使って発する言葉は実にリアルです。私は梅原氏が取材の過程で訪れている場所へあれこれ行ってみました。そして氏が語っていることが実感出来ました。それで従来の定説とは少々趣を異にする梅原氏の考察を、疑り深いこの私も「信じるに足りる」と感じることが出来たのです。

 

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