こだわり住職のよもやま話

こだわり住職の懺悔(後編)

2010年01月22日

私が少年時代の実家は大家族でした。父は長男ですが、母と結婚する前に父親と死別しています。だから私はおじいちゃんの姿を写真でしか知りません。あの時代ですから父の下には兄弟が沢山いました。生存していたのは8人です。(幼くして亡くなった兄弟もいた)それで私には叔父や叔母が沢山います。私が小学生の時までまだ高校生の叔父などもいました。多いときは9人+1匹(犬です)の時代もありました。父は釣りはしませんでした。私が幼少の頃はまだ独立していない父の弟や妹がいましたから、そんな余裕もなかったのでしょう。しかし私が高校生になる頃には、社会人となった父の弟たちが成長した甥っ子を磯釣りに連れて行ってくれました。叔父のおともで私は磯釣りデビューを果たしたのです。当時の海は見た目だけなら今と大して変わりませんが、非常に豊かな海でした。魚がうじゃうじゃいました。大人が使う本格的な道具を持たされて、見よう見まねでエサを放り込むとずいぶん立派なサイズの魚が釣れます。引きの強さは川で釣る魚とは雲泥の差、海の魚はとんでもなく元気です。遠ざかっていたあの感触、生命の躍動感が再び私を興奮させ魅了しました。

その後社会人になった時、すぐに本格的な磯釣りを始めたわけではありません。転機は職を変え磯釣りを教えてくれた叔父と同じ会社で働くようになってからです。その頃の世間は空前の磯釣りブームです。休日の磯場は釣り人であふれ、ゴミの問題や遭難事故の多発で一時は少々悪いイメージが付きかねないほどでした。社内には釣りバカがごろごろしています。私と叔父は社内の釣りパカグループに所属し、彼らとたびたび北長門国定公園の磯へ出かけて釣果を競っていました。やがてあまりにも大勢の釣り人が押しかけるので、どんどん魚は釣れなくなって行きました。昔のように子供がポンとえさを投げ込むだけで、豪快に竿を絞り込むなんてことはもう幻です。長門の海での磯釣りは急速に難しくなって行き、やがて超マニアックな世界になりました。

北長門国定公園の磯.jpg

10年一昔といいますが、まさに10年もするとすっかり様変わりです。よほどの幸運にめぐまれない限り満足できる釣果は難しくなったのです。人間は勝手なもので釣れないとおもしろくありません。社内の釣りバカ連中も、釣果を求めて長門の海をやり過ごし、遠征する輩が増えて行きました。そんな頃でした、以前からの釣友で今も釣りの相棒である悪友が連絡してきました。「めちゃめちゃ釣れるところへ連れて行ってやるからつきあえ」と、悪魔のささやきをするのです。彼の名は上田研二です。私より2つ上だったっけ?その上田が「すごいところへ連れて行くから、とにかく一番でかいクーラーをもって来い」と、大風呂敷を広げるのです。目指したのは大分県の米水津村( よのうずむら、今は佐伯市に合併)にある、クロ(めじな・関西ではグレ)釣りなら西日本一かも?といわれていた場所です。それで夜間に4時間以上も交代で運転して行きました。(当時は今ほど高速が伸びてなかったので時間がかかった)相棒と上がった瀬は事前に予約をしないと(この予約が容易ではない)釣ることが出来ない、「当番瀬」と呼ばれる場所です。米水津村の渡船基地から渡れる広大な磯の中でも別格のポインです。行って驚きました。本当に良く釣れるのです。しかも釣れる魚は長門の海ではまず不可能なサイズです。「おなじクロ釣りなのに、こんなにも釣果が違うのか」と、一種のカルチャーショックでした。

そんなことがあって、私はまもなく長門の海で釣るのは完全に止めました。釣りは大分オンリーとなりました。その後も当番瀬で釣る機会はありました。(相棒が船長と古くからの知り合いなので予約がよく取れた)しかし当番瀬は条件が揃うとあまりにも釣れるので、やがて少々気にくわなくなって来ます。(なんて贅沢な)だってそんなに釣っても食べきれんでしょう。「これって、むだな殺生じゃないか?」の疑問が頭をよぎるのです。自分が後に坊さんになるなんてその時は知るよしもありませんが、さすがに後ろめたさを感じます。それで「えーと、わが家と実家とお向かいさんの分、それに叔父のところと叔母の分があるな」などと勘定して、「もう充分だから」と私はさっさと釣りを止めて昼寝を決め込んでいました。すると相棒が「おーい何にしよるー、当番瀬に上がっとるんやから、もっと釣ってくれんにゃ困るー」と叫ぶのです。「もうお土産充分確保したから寝るー」と答えると「エサがもったいない、それなら俺のお土産を釣ってくれー」と叫びます。「なんじゃーそりゃー」です。彼は私よりクロ釣りが上手です。すでに大量に釣っています。なのに「お土産はいくら大量になっても大丈夫、出来るだけ一生懸命釣ってくれ」というのです。

彼は下関市内で自営業をやっています。取引先は街の電気屋さん「ナショナル」のお店です。個人の電気店ですね。街の電気屋さんが大型家電を販売した時の納品の応援やエアコンの工事、テレビアンテナ工事や電気温水器の設置などなど、その他もろもろの搬入に人手が必要なケースや技術が必要な工事、要するに個人電気店のおやじさんが対処できない工事を彼が請け負うのです。その取引相手(いわば彼のお得意さん)である何十件にもなる街の電気屋さんの経営者に、魚を配って喜んでもらうのだといいます。(彼の仕事もなかなか大変だ)そもそも、彼がここに釣りに来るのはその為だというのです。だから魚はいくらあっても困らないらしいのです。確かにそれなら、極端な話かもしれんが100㎏くらいクロを持ち帰っても大丈夫であろう。(実際二人で80㎏近く釣ったこともあります。当然配るのはめちゃくちゃ大変であったらしい)だから釣った魚は全て美味しく食べてもらえる。無駄な殺生にはなりません。「それならば」というわけで、それ以降は彼の「お土産釣り」に毎回協力することになりました。当番瀬は潮が良いと一日中連れ続きます。そういう時は飯も食わずにひたすら釣り続けることになるので、二人はほとんど漁師です。いわば他人に食べてもらうために、大分まで長時間運転をして美味しい魚を調達に行くのです。なんともおかしな釣りです。遊びではなく仕事みたいです。事実彼は「釣りは半分遊びで半分仕事だ」などと、公言してはばかりませんでした。

そんな大分での釣りですが、一日の釣りでは当たりが遠くなる時間帯も有ります。そういう時に、彼は私に釣りを続けさせ自分はせっせと二人分の食事を準備します。「吉村は釣っとけよー急に食いがたつかもしれんからー、めしが出来たら呼ぶから」です。お湯が沸いて準備ができると「飯にしようかー」です。そんな調子で、我々はいつも磯の上でラーメンを主食にけっこうムシャムシャ食べるのがお約束でした。(夏はそうめんや焼き肉もよくやった)しかし、すでに数年前から「当番瀬」で鬼のように釣りまくる(我々はこの状態を漁師モードの釣りと呼んでいた)ことはありません。お互いもう若くはありません。徹夜で運転して釣り場まで来たあげく、終日気合いを入れて釣り続け、さらに再び運転して帰るなんてもう無理です。一度行くと体力の回復に3日は必要です。それで釣行先はずいぶん楽な所に変更しています。(絶対数は落ちるが大物が確保できる磯でのんびりやってます)釣行の頻度もずいぶん低下しました。よって彼が魚を配る絶対量も回数も低下しました。もらう方はこちらの事情など関係ないので「また食べたいから頼むねー」と、気軽にリクエストだそうです。相棒は「また頼まれちゃったよー」と困った風にいいますが、顔はニャニャしています。私は彼と釣りに行っても最近は釣った魚を持ち帰らないことが多くなりました。恵美ちゃん(妻)は魚の処理が苦手なので、魚を釣って帰っても大して喜びません。(彼女はお刺身を食べるのは大好きなんですけど)まして働いていますので、疲れて帰ってきている所へ魚を持ち帰るとかえって不機嫌になります。私が処理すれば良いのですが、私もめんどくさいことはイヤだし。(なんて勝手な)それで釣果は相棒に全て後のめんどうを見てもらうのです。彼に渡しとけば無駄になりません。電気屋さんの家族には喜んでもらえるのですからね。私はそこそこ釣らせてもらって、子供の頃のあの「どきどき感」が味わえるのですから大満足です。みんなが幸せです。坊さんになりましたが、今後も体力が続く限り時々相棒と海へは行くつもりです。そういう事情なので、どうか阿弥陀さまこの殺生坊主をお許し下さい。

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