こだわり住職のよもやま話

三部経素読の思い出

2010年01月17日

浄土三部経.jpg

実家の宗旨は真宗本願寺派です。その本願寺派が圧倒的に支配している当地では、法事やお寺での法要では、経本を手にして全員が唱和するのが一般的です。いわば否応無しに、お経を読まされる(?)のです。真宗門徒の長男である私も、住職の発声に続いて「にょー・ぜー・がー・もーん・いちー・じー....」と、読まされていました。しかし信心なんて大してありゃしませんので、経本からちょっと目を離したとたんに、どこを読んでいるのか解らなくなります。そうなると黙って聴いているしかありません。大変居心地が悪いというか、実に格好悪いったらありゃしません。ゆっくり読むので「阿弥陀経」でも30分近くかかります。周囲はまじめに唱和しているのに、一人ぽつんと取り残されているみたいで、なんだか自分が情けなくなってきます。そんなわけで在家の頃から単調な仏典の読誦は嫌いでした。お坊さんになることになったとき、真っ先に思い浮かんだのは「今度は自分があの退屈な読経を仕事にするんだー」などと、大変不謹慎なことを思ったものです。今も長いお経の読誦は得意ではありません。いえ、正直に白状するとそうとう苦手です。なによりも長いお経は暗記できていないのでお経本から目が離せないのが困るのです。

そんな私が本山で勉強させて頂いた授業の中で、とりわけ印象に残っているのが「三部経素読」です。住職資格を頂く為の必修単位の一つです。ご指導下さった堀田先生は、「我々は浄土三部経が根本経典ですが、今日このお経を全部通しで読む機会は限られます。長大なこの三部経を全て読誦するとなると大変な時間がかかるからです。場合によってはそんな機会はないかもしれません。だからこの授業で一度は読むようにして頂きます。この授業は今後も繰り返し受講してもらうことになります。その度に読み進めて最終的に全部読み終わるようにします。そのつもりで臨むように」とおっしゃいました。そういえば、昔は法事の際に三部経を全部読誦するため、お坊さんは前日や場合によっては前々日からその家の仏壇の前で読み始め、当日は残りを読んで法事をしていたとおばあちゃんから聞いたことがあります。今日、私の地方でそんな大変なことは行われていません。法事の際の読経は10時くらいから始まって、いくら長くても1時間半位が限度です。(それ以上長いと苦情が出る恐れがあります)その後住職のご法話があったり、実家のようにお墓がすぐ近くにある家はお墓参りに行き、もどったら昼食になるのが普通です。だから強烈に長いお経はありません。たしかに堀田先生のおっしゃる通りで、三部経を全部通しで読むことは無いように思われます。それで私たちは先生の発声に続いて大きな声で丁寧に読んで行くことになりました。

実はこの授業がとても辛かったのです。なによりもまず睡魔との戦いでした。授業は夕食や入浴が終わったあとの就寝時間までの間に行われていました。私たちは連日本山の大部屋で寝起きしながら、夜明け前のおつとめから始まる講習を受講していました。この講習は短期勝負の詰め込み教育です。住職資格の試験「検定試験」の受験資格を得るための特別講習です。それで通称「検定講習」と呼ばれています。半期に一度開催されるこの講習を最短でも2年以上受講し、必要な単位を取得して受験資格を頂きます。本来なら本山で住み込み坊主修業(随身:ずいしんという)を行いながら、本山に隣接している西山短大の仏教コースを卒業して住職の資格を頂くのが王道なのです。しかし事情があってそれが難しい末寺の後継者向けに特別に実施されているのです。(実際この制度がなければ私が西山の住職になることは不可能でしょう)この講習会の長い一日の最後にひかえていた日課のような授業が「三部経素読」でした。私たちは連日遅くまで起きていたので(唯一の自由時間だから)眠いのです。指導して下さった堀田先生はこの道の達人です。約2時間の授業ですが、いったん始まると先生の読経はよどみなく続きます。我々は机に座ってお経本を手に、ひたすら先生の読経に合わせて声を出します。「このまま永遠に続くのでは?」と思えるほど時間の経過が遅く感じられました。三部経を淡々と読誦するだけでしたが、その疲れること。まったく休み無しに(読経の発声が途切れることが無い、一切の間が入らないということです)一時間も二時間も続けるのは、思いもよらぬ苦行でした。ふりかえるとあの検定講習で「一番鍛えられたなー」と思える授業でした。

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