こだわり住職のよもやま話

お経の力を信じたい

2010年01月15日

本山阿弥陀堂の荘厳.jpg

仏事の際にはお経を読誦したり、あるいは聴かせて頂くことになりますが、そのお経の意味を解っている人はまれでしょう。人前で偉そうに読経しているこの私も「きちんと理解しているのか?」といわれると「まだまだ修行が足りてませんで」となってしまいます。そういえば私のおばあちゃんがよく言ってました。「わたしゃ、お経の意味なんてちっともわからんけど、お経というものはありがたいものだから、聴かせて頂くだけでもええんじゃ。うちのごいんげ(真宗の住職のこと)は、ええ声をしちょるから、なおさらありがたい。お経は聴くだけでも功徳が頂けるからさあ」などと孫に話してくれていました。

そのおばあちゃんの孫は、今はお坊さんになっています。仏門に入るタイミングが随分遅かったので、孫が読誦するお経を生前に聴く機会はありませんでしたが、あの時おばあちゃんが言ってたように、お経というものはまずは素直に聴かせて頂くのが正解なのかもしれません。よく解らなくても、聴いているだけでも、なぜか心は穏やかになり救われたりします。私もそうでした。嫌なことや腹立たしいことがあって心が乱れていても、長谷川師の読経を聴かせて頂くと不思議とおさまりました。最近は多少私に力がついてきたのか、自分が読経することで、自身の心を鎮めることも出来るようになって来ました。そしてそんな人を救うかもしれないお経を、今や私が人前で読誦して聴いて頂く立場になっているのです。

坊さんになりたての頃、私の読経を聞いてくれる檀家さんは「歳はいってるけど新米坊主なのはご存じなのだから」と、とにかく一生懸命読経することにつとめました。それは今も変わってはいないのですが、「やっぱりお経(読経)は上手に越したことはないのだから」と、けっこう意識して練習をしたものです。お経だけで坊さんの値打ちが決まるわけではありません。過度にこだわるのもどうかとは思います。でも、坊さんになっても私の頭の中は、未だに「在家の人」そのままです。おばあちゃんの「うちのごいんげはええ声をしちょるから、なおさらありがたい」の言葉が、そうさせるのです。長谷川師の読経を目標に今も努力はしています。しかし私に師のような読経力(そんな言葉はないか?)が身につくはずもありません。凡人の猿まねでどうにかなる世界ではありませんね。

話は変わりますが、光明寺の檀家さんで、ご主人が脳梗塞で倒れられ寝たきりのお宅がありました。言葉を交わすことは難しく意志の疎通も困難な状態です。奥さんは自宅で介護の日々を送られています。感心するのは、奥さんが何かにつけてご主人に「おとうさん、おとうさん」と、常に話しかけられておられることです。「きっと主人は解っているはずですから」と話されます。周囲にとても気配りをされ、他人のために行動される方です。ご主人が大変な状態なのに、いつも明るく振る舞われておられます。常に前向きな姿勢を崩さず、お話をさせて頂くとこちらが励まされてしまいます。毎月21日には、わが山寺の境内にある弘法大師堂へのお参りも欠かさない信心深い方です。そのお宅へ仏事で伺い読経させて頂くと、「お経を聴かせて頂くのがとても嬉しいです」と話して下さいます。私からみれば菩薩さんのような方でした。

それは私が加行を受けて正式にお坊さんになった年の秋でした。奥さんから思いもよらない言葉をかけられました。「方丈さん(私のこと)のお経がいつでも聴けるように、録音したものを作ってもらえませんか?主人にも沢山聴かせてあげたいのです」めっそうもないことです。「私のお経などまだまだ半人前です。私がいつも聞いている大先生のお経CDがありますから、それをコピーして差し上げますよ。今はパソコンで同じものが簡単に作れますからね。明日にでもお持ちします。ぜひ聞いてみて下さい」と申し上げました。(本来は違法であるので、後日正式版を本山で調達して進呈しました)それからしばらくして お会いする機会がありました。すると「頂いたお経を度々かけております。このCDを流すと主人がとてもいい表情をして、ちゃんと反応してくれるんです。方丈さん本当にありがとうございました。救われた思いです」と、涙を流さんばかりに感謝して下さったのである。

本当にありがたいのは私ではなくお経です。そしてその力を最大限に発揮させている、長谷川是修師の卓越した読経の技であります。そんなことがあり、私はますます「お経が上手になりたいな」と思うようになりました。ひよっとすると、この話は怪しい教祖さまのお説法に近いかもしれません。ご主人の反応は偶然かもしれませんし、奥さんの思い込みかもしれません。でも、このご夫婦にそんな奇跡みたいなことが、起こっても良いのではないでしょうか。もしこの世に奇跡があるのなら、そうであって欲しい。そして、それは「お経の力」だと思いたい。そう、私は「お経の力」を信じたいのです。なぜなら本当に救われたのはこの私の方だからです。奥さんのあの感謝の言葉で、私は「お坊さんになってよかった」と、しみじみと感じることが出来たのです。

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