こだわり住職のよもやま話

西山浄土宗勤行式の読経

2010年01月14日

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坊さんになることになった私が最初に練習をはじめたお経は、本山の売店でも販売されていたカセットテープのお経でした。「西山浄土宗勤行式」と呼ばれるお経テープです。現在ではクラウンレコードからCDで出ていますので、通販サイトのアマゾンなどでも入手可能です。そのお経ですが、アーティスト(読誦者)は長谷川是修師でした。私はカセットの音源をパソコンでデジタル化し、オリジナルの音楽CDを作って繰り返し聴きました。車に乗った時にはいつもBGMとして流していましたから、長谷川師の読経の声はすっかり耳に染みついています。だだ、その方がどんな人なのか、そしてお顔も、まる一年近く知ることはありませんでした。元来好奇心が強いので、長谷川師のお経を聴き始めたのを機に、他宗派のさまざまなお経も入手していろいろ聴いてみました。おかげでおもしろいことが解ってきました。レベルの高い読経の声は、私にとっては大きく二つのタイプに分類できたのです。

一つは、たいていの人が初めて聴いた瞬間から「ほおー」と感じる好印象の声です。私の言葉で表現すると「わかりやすい声」です。具体的には、若干高めのキー(音程)で透明感や艶のある美しい声です。私が加行でお世話になった監督さんたちの読経の声がそうでした。こういう声の持ち主は、多くの檀信徒が訪れる本山の大法要などでは最適です。美しい声で称えられる読経に、参拝のみなさんは素直に感動して下さることでしょう。いわば一発勝負に適した声です。もう一つは、第一印象は個人差が出るかもしれない声です。しかし、じっくり聴いているとやがて馴染んできて、いつの間にか引き込まれてしまい記憶に残る声です。長谷川師の読経の声は、私にとってはこちらでした。末寺の田舎坊主が大変生意気なことを申し上げるのですが、師の読経の声は基本的に渋く落ち着いた印象です。しかし一方では強い情念も感じさせます。秘められている大きなエネルギーがじわじわ伝わってくるような、実に味わい深い声でした。

例えるなら、前者は先般の紅白歌合戦に特別出演して話題になった、スーザン・ボイルさんの歌声でしょうか。インターネット上の動画配信サイトYouTubeで驚異的なアクセス数を記録し、一躍全世界で注目されるようになった、遅咲きの英国女性シンガーです。誰が聴いても素晴らしいと感じる美しい歌声です。一方長谷川師の読経の声は、美空ひばりさんの歌声と申し上げたい。ひばりさんの歌声もいいですね。ただ声の好みで、ご年配の方に好きな歌い手を選んで頂いたら、ひばりさん以外にも「私は島倉千代子、いやあたしゃ石川さゆり、いや最近は天童よしみだ」などと、意見は分かれるでしょうね。しかし「昭和を代表する最高の女性歌手はどなただと思いますか?」と質問したら、おそらく大抵はひばりさんに落ち着くと思うのです。

私の場合は、ひばりさんが晩年にヒットさせた名曲「愛燦燦」や「川の流れのように」が馴染み深いのですか、ご年配の方は、ひばりさんが若かりし頃からその歌声を何度も聴いておられるはずで、いわば耳に染みついた記憶に残っている歌声だと思います。もちろん時代背景などもあって、そういうことになるのかもしれませんが、ひばりさんの歌には他の歌手にはない特別な力があったと感じています。私なりの視点で具体的な特徴を指摘すると、ひばりさんはその歌唱力、表現力がだんとつであったことです。それを支えていたのは、ひばりさんが有していた広い音域、そして低音・中音・高音で使い分けていた声質の顕著な変化、表情の多彩さです。

ひばりさんの数々の名曲を聴いてみると、さまざまな表情を有する歌声が使い分けられています。低音部は女性とは思えないような迫力のある歌声です。中・高音部では明るくパンチのある声や若干鼻にかかる力強い声があると思えば、多少鼻に抜けながらも艶やかな声や優しい印象の声もある。そして実に哀しげな表情の声や、せつないため息そのものに聞こえる声もあります。「悲しい酒」や「みだれ髪」のように、曲によっては艶めかしいファルセット(裏声)も織り交ぜて、涙ながらに語りかける姿を想像させる歌声もありました。晩年のリサイタルで「愛燦燦」を歌うひばりさんは、まるで子供に語りかける母親のように、甘くさとすような歌声が印象的でした。ひばりさんは非常に多くの作品を歌っていますが、いずれも1曲の限られた時間の中で見事に一つのドラマを演じ切っています。この表現力の広さ豊かさが、美空ひばりの「ひばり」たる所以であり、誰もが認める「昭和を代表する大歌手」と称される理由の一つでしょう。歌うこととは実に奥の深いものです。そしてそれは西山浄土宗勤行式を読誦する、長谷川師の味わい深い読経にも通じるものです。

初めて長谷川師の読経を聴いた時、ど素人の私にとっては、師の声はとりわけ好印象ではありませんでした。私にとっては「わかりやすい声」では無かったからです。しかし何度か聴いていると「あれっ、なんだかどんどん印象がよくなってくるな」と、最初の気づきがありました。そして、その読経をお手本に練習を始めると師の本当のすごさに気づくことになりました。私は何度も聴いて同じように発声しようと試みるのですが、これが出来きません。どうしても出来きないのです。それで「このお坊さんすごいわー」と驚き、やがてはひれ伏すことになりました。聴き込めば聴き込むほど、この読経の奥の深さが見えて来ました。見事な技が駆使された実に玄人好みの読経ではありませんか。その微妙な表現力は尋常ではありませ。息継ぎの際の声の切り方にも神経が行き届いています。誠に素晴らしい読経です。たぶん、聴いているだけでは気づかなかったでしょう。そもそも、ど素人が猿まね出来るレベルではありません。しかしこれでも随分練習しました。いわば今だからこそいえる事なのです。

後に長谷川師をお見かけした時は、良い意味で少々意外でした。声の印象から勝手にどっしりした感じ力強い外見の人物像を想像していたのです。実際には、すらりとした上品で非常に静かな感じの方でした。あの情念のこもった読経とはイメージが重なりません。あえて例えるなら、時代劇に登場する剣の道を究めた達人の雰囲気とでも申しましょうか。一見穏やかでありながら一分の隙もない無言の圧力に屈して、挑んだ者が一太刀も打ち込めず「参りました」とひれ伏すシーンを思い浮かべます。やはり道を究めた人になると、余分な力は抜けて周囲には実に穏やかな印象を与えるのでしょう。それでいて、内には埋み火のように熱いものが秘められているのです。読経の際のあの緻密で豊かな表現力からして、師の歌唱力はすごいはずです。マイクをお持ちになり、演歌が流れてくれば「素晴らしい歌が聴けるに違いない」と、私は推察しております。

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