こだわり住職のよもやま話

豪雨災害、それから

2011年01月16日

被災した美祢線鉄橋.jpg

本日もめちゃ寒いです。今朝は昨夜から断続的に降り続いた雪が随分積もっていました。幸か不幸か(?)今日は百ケ日忌法要と納骨が予定に入っています。それで私はいつもより随分早めに自宅を出ました。高速道路(中国道)は通行止めになっていますし、県道33号は雪でツルツルです。いつものペース(田舎は平均スピードが高い)で走る訳には行きません。それでのろのろ走って、昨年の豪雨で被災した美祢線の鉄橋が眺められる場所まで到達した時にふと思い立ちました。被災したその鉄橋が前々から気になっていたので、ちょっと寄り道して写真を撮ってみました。この鉄橋は県道からよく見えます。この辺りは鉄道マニアがよく訪れる撮影ポイントでした。昨年の豪雨の際には新聞等でその無残な姿が掲載されていた場所です。実はもっと大規模な鉄橋の完全流失が数キロ下流で発生していますが、そこは道が無いので近づくのが困難な場所です。(後に地方紙に写真が出ていました)私はあの日以来ほぼ毎日のように被災したこの場所を横目に寺へ通っていますが、雪景色の中で眺めると随分印象が違って見えるものです。

被災した美祢線.jpg

8月19日の記事で美祢線が「廃線になるかもしれない」と心配しましたが、幸いなことに今年は山口国体があるので何が何でも(?)秋までに復旧させることになっているようです。よかったです。もし国体が無かったらアウトだったかもしれませんね。ただし地元の者としては「本当に国体に間に合うの?」の思いはぬぐえません。今のところ目立つ復旧工事は始まっていません。もう半年経過したというのに大丈夫なんでしょうかね。それと美祢市から下関市へと続く県道33号線の完全復旧も待ち望まれます。7月15日の豪雨で美祢線厚保駅(あつえき)前の崖が大規模に崩落したため長らく通行止めになりました。この崩れた斜面の頂上には、かつて当郷の地頭であった厚氏(あつし)の館(大村城)がありました。城の北東側は険しい断崖絶壁で、そのすぐ下には厚狹川が流れています。大村城の背後はいわば天然の要害でした。だからこの場所に城があったのですが、その断崖と厚狹川とのわずかな隙間に今日では無理矢理(?)県道33号が走っています。

厚保駅前の崩壊した崖.jpg

山寺光明寺には当郷の地頭であった厚氏の菩提寺(曼陀羅寺)と合併した歴史があります。それで私は厚氏の最初の館とされる大村城に関して少々調べたことがあるのですが、今は復旧工事のために斜面の立木等が伐採されており、大昔のものかもしれない(鎌倉期?)石垣跡や断崖絶壁側から頂上へ登るためと思われる連絡通路の跡(?)等が観察しやすくなっています。この被災現場を車で通る度に、私はついつい見上げてしまいます。美祢市内から進んで来ると、現在交互通行の信号で、ちょうど停車する辺りに路線バスの停留所があります。道路の左下は厚狹川です。そこには一本の街灯があるのですが、ごらんのとおり見事に折れ曲がっています。昨年の豪雨の際には、この場所は完全に水没し濁流に飲み込まれました。今も街灯の先端部にゴミが引っかかったままで実に象徴的です。

濁流で傾いた街灯.jpg

復旧工事中の現場は、厚保駅へ渡る橋との三叉路を含んだ長い距離が規制されています。それで赤信号一回で4分位待たされます。早く復旧して欲しいですね。都会人にしてみれば「4分?それくらいどうてことないでしょう」と云われそうですが「田舎の4分」は実に長いものです。何てったって本来信号機で停車なんてほぼ皆無の田舎道です。車の平均スピードはかなり高い土地柄ですからね。それと田舎とはいえ朝夕は運が悪いと2回待ちのケースもあります。だから地元の皆さんは一様に「長いなー」とぼやく事になる。「新聞が読めるぞ」と言われる方さえおられました(笑い)

さて、冒頭に書いたとおり本日は百ケ日忌の法要と納骨がありましたので、私は装備万端で出かけました。お仏壇でのおつとめが終わるといよいよ納骨です。お墓は山の中へ徒歩で登ります。私は境内の草刈りの際に愛用しているマリンブーツと、昨年末に通販で調達したダウンのコートを坊主衣装の上に羽織り、頭にはニット帽(坊さんは冬になると必需品です)で完全武装です。雪が積もってますから歩くのは少々難儀でしたが、ここまで準備しておけば寒くありません。さすがに墓前での読経中はコートなど着てられませんから少々辛かったですが、本日はまさに「備えあれば憂い無し」でありました。それにしてもモンベルのダウントラベルコートは逸品です。入手しておいて大正解でした。この冬はもう手放せません。

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