こだわり住職のよもやま話

ナナの記憶

2010年05月09日

光明寺境内の生類供養塔

大日堂のそばにある生類供養塔の石棺には、檀家さんの愛犬「ナナ」が眠っています。16才だったとのことですから、ずいぶん長生きしたワンちゃんです。ナナは真っ白な中型犬で座敷犬でした。法務で訪問するとさっそく私のそばにやってきます。まれに「犬が怖い」といわれる方がおられますが、私は元来動物好きでとりわけ犬が好きです。ですからナナが真横にいても全く平気ですし、そばでおとなしくしているナナを見ていると、私のお経に耳を傾けているみたいで犬とは思えない不思議な感覚さえ抱いたものです。仏教では、我々衆生は六道世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を何度も生まれ変わっているのだといいます。(これを輪廻転生という)そしてこの輪廻転生から離れること、すなわち六道世界を繰り返し生まれ変わるサイクルから脱出し、お浄土(極楽国土)へ生まれ変わることが、苦しみの世界から離れることであり解脱なのだと説きます。私の読経に付き合ってくれるナナを見ていると、この六道輪廻を意識させられました。「ナナの前世は何だろう?人間だったのかもしれないなー」などと思えて来てしょうがなかったのです。

ナナは今世では畜生道に生まれました。本当はお浄土に生まれたかったでしょう。せめて人間界(人道)には生まれたかったと思います。でも今世のナナは決して不幸ではなかったと思います。ナナは生まれて間もなく家族の一員として迎えられました。長年このお宅で過ごしたナナにとって、一番の楽しみはたぶん日課であったご主人様とのお散歩でしょう。そんなナナですが、最晩年は足腰がすっかり弱ってしまい視力も低下していました。散歩の際にはとてもゆっくりした足取りです。よく見ると少々フラつきながら歩いていました。檀家のご主人はナナの歩調にあわせて、実に辛抱強く付き添うようにして散歩をされていました。あそこまでいたわってもらえたナナは幸せ者だったと思います。

ナナが亡くなったのは平成19年2月20日でした。ご主人の落胆ぶりは傍目にも感じ取ることが出来ました。私自身も愛犬が逝った時の辛い記憶があります。その犬は私が生まれる前から飼われていた大型のシェパード犬で、名前は「ケリ」でした。物心ついた頃からいつも一緒に遊んでいました。幼い私がケリの背中に乗って得意げにしている写真も残っています。ケリが死んだのは私が小学校3年の時で大変ションクでした。激しく泣きじゃくったのを覚えています。一番の仲良しだった友達を失った私の哀しみは、とうてい言葉では伝えられそうにもありません。ナナに逝かれたご主人の哀しみも、きっと私の経験に勝るとも劣らないものだったにちがいありません。

ナナが逝ってしばらくすると奥さんからご相談がありました。「ナナがいなくなって主人が可哀想なほど落ち込んでいます。ナナの為にお経をあげてもらうことは出来ないでしょうか?」とのことでした。ご主人はナナのお骨をベットのそばにずっと置いているそうです。あれほど可愛がっていた我が子同然のナナが逝ってしまったのです。ご主人にしてみれば長年生活を共にした家族の一員であり、親兄弟・子や孫との別れと何ら変わりない深い哀しみでした。他人には理解出来ない喪失感なのです。そんなご主人に対して、坊さんである私に出来ることとは何でしょうか。「命あるもの何時かは死を迎えるのです。およそこの世に永遠などというものは無いのですから、無常の理を受け入れるべきなのです」などと、正論を吐いてご主人の哀しみ(苦しみ)が容易に消え去るとも思えません。私はただ一言「ナナのお葬式をしましょう」と申し上げました。

生類供養塔の墓誌

ナナのお葬式は大日堂で行いました。ご主人と奥さんに同席して頂き、我々人間の葬儀と同等のお経を読誦させて頂きました。戒名も付けさせて頂いた。お骨は建立したばかりの生類供養塔に納め、供養塔の墓誌にはナナの戒名も刻みました。ここまで丁寧にやれば、ご主人の心も救われるのではないでしょうか。「いのちあるもの何時かは」などと説教をたれることよりも、こうするほうが良いと私は思いました。仏教本来の考え方とは少々逸脱しているのかもしれません。ここまでやってしまう私は、たぶん見事な破戒僧でしょう。しかし、人は言葉であれこれ諭されるよりも、することをきっちりやってみせること、かたちを整えることの方が素直に納得出来るものです。お葬式とは遺族が死を受け入れるための、いわばけじめの儀式です。ご主人にとってはナナのお葬式を丁寧に行うことが一番の救いだったと今も思っています。ナナの供養塔婆にはこう書きました。「奉修為慈空妙寿信女発菩提心転生安楽国塔・平成十九年二月二十日没・俗名ナナ」ご主人の深い愛情に包まれて、きっとナナは安楽国(お浄土)に生まれ変わったことでしょう。

 

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