宗祖流祖について

歎徳之疏で知る法然上人の半生

御忌会(ぎょきえ)の際に導師が読み上げる疏(法会の目的等を宣する書状)が「歎徳之疏」である。この疏では、他力易行浄土の一門を開かれた法然上人の半生が語られ、広大な恩徳に報謝申し上げる言葉が述べられるのである。御忌会は法然上人の御祥忌日(一月二十五日)の法会であるが、今日わが宗の本山 においては、毎年四月十九日より二十五日の七日間で執り行われる最も重要な法要である。本来「御忌」という言葉は天皇の忌日に対して用いられる言葉であった。後に法然上人の御祥忌日に対しても使用することが許可され、上人の御祥忌日法要を御忌会と呼ぶようになったのである。当寺でも御祥忌日直前の一月二十日に毎年御忌会を開催しているが、その際に私が読み上げている「歎徳之疏」を掲載する。歴史的かなづかいや難読字が多く含まれ非常に読みにくいが、法然上人の半生を知る上で大変参考になる資料であるので補足をまじえて紹介したい。歎徳之疏の冒頭には「円光・東漸・慧成・弘覚・慈教・明照・和順」の語が並んでいる。これは上人に送られた計七個の大師号である。大師号とは朝廷より高僧に贈られた称号(諡・贈り名)であり、最澄の伝教大師や空海の弘法大師がよ く知られている。上人の場合は没後四百八十年余に東山天皇より「円光」の大師号が贈られたのだが、五百年遠忌の行われた宝永八年には中御門天皇より「東漸大師」が加諡され、これ以降は五十年ごとに大師号の加諡が慣例となった。近代の「明照大師」は七百回忌に明治天皇より、直近の「和順大師」は七百五十回忌に昭和天皇より贈られたものである。平成二十三年には法然上人八百年の御遠忌となるため、これまでの歴史的な経緯をかんがみると再び大師号が贈られる可能性があり興味深いところである。※追記 八百年御遠忌の際に新たな大師号「法爾」が下賜されました。

歎徳之疏(全文)

吾が宗祖法然上人源空円光東漸慧成弘覚慈教明照和順大師は勢至菩薩の垂迹にして 長承二年四月七日美作国久米の南条稲岡の庄に降誕し給衿えり 御年九歳にして父 時国が非業の最期を遂ぐるに遭い 臨終の遺誡 肝に徹し慈母の膝下を辞して叡山に登り 皇円阿闍梨に従いて剃髪受戒し 天台の教観師説の蘊奥を極め 十八歳黒谷に隠遁して叡空上人に師事し 円頓妙戒の嫡流を伝え専心出離の要道を尋ね 更に諸宗の碩学を歴訪してその玄門を叩く 其の志の急なること恰も頭燃を拂うが如くなりき 然れども聞き得たるところは悉く皆自力修行の道にして 彼も難く是も難し 濁世凡夫の分に非ず 故に独り蔵中に籠りて聖教を閲覧すること多年 御年四十三歳に及んで遂に一心専念弥陀名号の高祖のみ教えに遇い廓然として大吾し 歓喜の声を放ちて他力易行浄土の一門を開き給えり 乃ち四明の巌洞を出でて西山広谷の地に初めて他力念仏の大法を宣布し 自行化他専ら念仏を事とし給えり 是より弘願の妙法は晃々として世の昏迷を照らし都鄙の群萌斉しく弥陀大悲の光に浴し 大師の高徳を讃ふる輩朝野に充満せり 南都北嶺の讒訴 南海流謫の難に遭い給えりと雖も 念仏 の興行は弥々隆盛を極め 称名の声は洋々として四海に溢れ 終南の遺風永く扇ぎて 普天これに靡き今日に至るまでその徳光昭々として末代を照らし 安心起行の訓え永えに人類を化度す 嗚呼偉なる哉 吾等何等の幸ぞ茲に宗祖八百年の御忌に遇うことを得たり 故に闔山の大衆と共に宝前を荘厳し香華灯明百味の飯食を献供し奉 恭しく大師の影前に跪ずき 誦経念仏の法楽を捧げて広大の恩徳を報謝し奉る 仰ぎ冀くば大師本地の華座を動じて弟子某甲等が微衷を哀愍納受し給えと爾云

維時  年  月  日   曼陀羅山大日院光明寺第廿四世 沙門 實空俊徳 敬白

 

【 解 説 】

上人は長承二年(平安末期1133年)四月七日に、美作国久米南条稲岡の庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に誕生された。生誕地は後に誕生寺とな り、念仏の教えを授かった人々にとっては、いわば聖地の一つであり今も訪れる人々が絶えない。上人は幼少よりたぐいまれな聡明さにより、勢至菩薩の垂迹 (生まれ変わり)といわれ、幼名は「勢至丸」と呼ばれていた。わが宗の総本山境内には、上人の御火葬跡が残っており、そこに勢至菩薩像が奉られている由縁がこれである。さて、上人九歳の時に父漆間時国は敵対していた明石定明の夜襲により非業の死を遂げる。父臨終の際の「敵を恨んではならぬ」の言葉を肝に銘じ、父の遺言により仏門に入り、十三歳で比叡山へ登り皇円に師事する。十五歳のとき源光の元で剃髪受戒し、十八歳で黒谷に隠遁して叡空に師事し、法然房源空と改名する。その後上人は、歎徳之疏に〃円頓妙戒の嫡流を伝え専心出離の要道を尋ね 更に諸宗の碩学を歴訪してその玄門を叩く 其の志の急なること恰も頭燃を拂うが如くなりき 然れども聞き得たるところは悉く皆自力修行の道にして 彼も難く是も難し 濁世凡夫の分に非ず〃とあるように、当時の仏教はいずれの教えも凡夫救済の教え、すなわち誰もが救済される教えではないことに上人は失望したのである。そして〃故に独り蔵中に籠りて聖教を閲覧すること多年 御年四十三歳に及んで遂に一心専念弥陀名号の高祖のみ教えに遇い廓然として大吾し 歓喜の声を放ちて他力易行浄土の一門を開き給えり〃とあるように、上人は叡山の経蔵に独りこもって経典の研究を続け、上人四十三歳に及び遂に「一心専念弥陀名号」の高祖(中国浄土教の大成者、善導大師)の教え(観経疏)に出会い、他力易行浄土の一門を開く決意をしたのである。叡山黒谷を下った上人は、西山広谷の地に初めて他力念仏の大法を宣布し、自行化他(自ら修行することと他を教化すること、自分のためにすることと他のためにすることの二面にわたる行いを簡素に表現した言葉)、専ら念仏を事とした。(南無阿弥陀仏を唱える行に徹した)是より弘願の妙法は晃々として世の昏迷を照らし、南都北嶺の讒訴(当時の旧仏教による迫害)、南海流謫の難(四国への配流)に遭いながらも、念仏の興行はいよいよ隆盛を極め、称名の声は洋々として四海(須弥山を取り巻く四方の外海・全世界の意)に溢れ、その徳光昭々として末代を照らし、上人の説かれた念仏の教えは世に広がり続けているのである。

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