宗祖流祖について

一枚起請文現代語訳(意訳)

わたしが勧めている念仏は、中国や日本において、慧遠や吉蔵や源信等の智者たちが理解している仏さまの姿や浄土の様子を思い浮かべる念仏(観想念仏)ではなく、また学問を重ねて念仏の意義や功徳を悟ったうえで申す念仏でもありません。ただ極楽に往生するためには、南無阿弥陀仏と申すことです。阿弥陀仏の救いの力に疑いをはさむ余地もなく、必ず往生できるのだという思いを懐いて念仏を申す外には、別にあれこれと修行する方法はありません。ただ、三心(至誠心・深心・廻向発願心、念仏者に求められる三つの心のありかた)や四修(長時修・無間修・恭敬修・無余修、念仏者に求められる四つの修行のありかた)を説いていますけれども、要は南無阿弥陀仏と称えて往生したいと思う心に集約されるのです。この外に、理論を加えたり他の教えと比較をしたりすることに心が傾けば、お釈迦さまや阿弥陀さまの慈悲心にはずれ、救いの誓い(本願)にもれてしまうでしょう。念仏を信じる人は、たとえお釈迦さまが生涯をかけて説いた教えをよく学んだ者であっても、何も知らない愚かものであることを自覚し、尼さんや在家信者(入道)が無知なるがゆえに無心に念仏を称えるすがたを見習って、知者ぶった高慢心を起こさず、ただひたすら念仏を称えなさい。証明のため両手で印をつけます。浄土宗の信心と実践の仕方は、この一枚の紙に記したことに極まります。源空の念仏に対する思いは、このほかにまったく別の意義はありません。私の亡きあとに誤った考えが出ることを防ぐために、思うところを記しました。

建暦二年正月二十三日 源空 花押

【解説】

平安時代末期の十二世紀に、時代の要請に応えるかのように出現した教界の大思想家が法然上人です。法然上人(1133~1212)が出現する以前の日本の仏教は本質的に「国家仏教」でした。僧侶は国家公務員であって、国家の試験にパスした者だけが僧侶になることができ、僧侶の生活は全て国家が負担していました。僧侶の仕事は経典を読誦して国家の安泰を祈ることでした。したがってそのような国家仏教においては、庶民の救済は重視されていませんでした。国家が安泰になればそこに生きる人々も幸せになれるはずだ。古代の人々はそう考えていました。だから国家仏教はまず国家の安泰を祈ったのであり、それが僧侶の役目でした。このような時代背景の中で法然上人は大勢の庶民(衆生)が救われる仏教をお説きになったのです。つまり国家仏教から民衆仏教へという百八十度の転換であり、いわば宗教改革の断行でした。

庶民というのは貧しい存在です。また、学問・教養もありません。そういう庶民が救われるには、沢山の布施をしたり、戒律を守って厳しい修行をしたりすることを必要とする、当時の仏教(旧仏教)では無理でした。厳しい修行をする時間の余裕もないし、生きるためには戒律も破らねばならないのが庶民です。だとすると、そのような庶民が救われるためには「自力の仏教」では救われません。「自力の仏教」というのは、自分の力でもって仏道修行をして、そして悟りを開く仏教です。それはそれで立派な事ではありますが、庶民は救われないのです。そこで法然上人は「自力の仏教」とはまったく違った「他力の仏教」をお説きになりました。 この「他力の仏教」は、阿弥陀仏に極楽往生のすべてをおまかせして、阿弥陀仏が持っておられる救済力によって救われようとする仏教です。阿弥陀仏という仏は、「自力の仏教」を実践できない大勢の凡夫を救ってやりたいといった願いを持っておられます。これを阿弥陀仏の本願といいます。わたしたちはその阿弥陀仏の本願を信じて、すべてを阿弥陀仏におまかせすればいいのです。その「おまかせします」といった決意表明が、「南無阿弥陀仏」のお念仏です。〃南無〃という言葉は「おまかせします」という意味。阿弥陀仏におまかせすれば、阿弥陀仏がわたしたちを救って下さるのです。つまり、簡単に言えば、ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるだけで阿弥陀仏がわたしたちを救ってくださるのです。法然上人の教えは誰でもが実践可能な教えでした。それまでの厳しい修行を必要とする仏教(難行・苦行)に対して、上人の教えは易行(容易に実践できる修行)でありました。ゆえに、法然上人のこの教えはまたたくまに日本中にひろまり、多くの民衆が救われたのです。

我々は、ともすると難しい理論を知識人から説明されると、理解出来なくても受け入れてしまいます。そして、「知識人がいうことだから」と、疑いを持ちません。しかし、簡単なこと誰れにでも解るような話であると、もっと深いものがあるのではないかと思いはじめてしまいます。やがてそれは迷いや疑いの心となり、素直に受け入れることが出来なくなります。晩年の法然上人は、お念仏の教えが、後代の智者達により、難解な理論や小難しい理屈が付け加えられて変容することを心配されました。なぜなら法然上人の教えは画期的な易行だからです。それまでの仏教界の考え方を全て過去のものにしてしまうほど、強烈なインパクトを与える思想でした。見方によっては、あまりにも容易で簡単すぎたのです。それゆえに、一枚起請文に〃滅後の邪義をふせがんがために所存を記し畢(おわん)ぬ〃と、残す必要があったのです。

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