宗祖流祖について

宗祖法然上人御法語 「一枚起請文」(いちまいきしょうもん)について

一枚起請文は法然上人が最後に遺した御法語で、いわば遺言でもありました。上人が亡くなる二日前、建暦二年正月二十三日に弟子の懇願により上人が述べられ、その言葉を記録したものです。法然上人の教えが簡潔明瞭に表わされたみごとな名文です。後代には、この一枚起請文にならって自らの考えの神髄を残す書状として、さまざまな起請文が作られるようになりました。上人が説かれたお念仏の教えを信仰する我々にとって、この一枚起請文は最も重要な御法語です。以下に原文と現代語訳を記載し、上人の教えについて少々補足説明をしたいと思います。

一枚起請文(宗祖法然上人御法語)

もろこし我朝(わがちょう)に、もろもろの知者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。又学文をして念の心を悟りて、申す念佛にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀佛と申して疑いなく往生するぞと思い取りて、申す外には別の子細候わず。但し三心四修と申す事の候は、皆決定(けつじょう)して南無 阿弥陀佛にて往生するぞと、思う内に籠(こも)り候なり。この外におく深き事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ本願にもれ候べし。念佛を信ぜん人は、たとい一代の法を能能(よくよく)学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同(おなじゅう)して、知者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。為証以両手印(証のために両手をもって印す)浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存此外に全く別儀を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記し畢(おわん)ぬ。 

建暦二年正月二十三日 源空 在御判

一枚起請文現代語訳(意訳)

わたしが勧めている念仏は、中国や日本において、慧遠や吉蔵や源信等の智者たちが理解している仏さまの姿や浄土の様子を思い浮かべる念仏(観想念仏)ではなく、また学問を重ねて念仏の意義や功徳を悟ったうえで申す念仏でもありません。ただ極楽に往生するためには、南無阿弥陀仏と申すことです。阿弥陀仏の救いの力に疑いをはさむ余地もなく、必ず往生できるのだという思いを懐いて念仏を申す外には、別にあれこれと修行する方法はありません。ただ、三心(至誠心・深心・廻向発願心、念仏者に求められる三つの心のありかた)や四修(長時修・無間修・恭敬修・無余修、念仏者に求められる四つの修行のありかた)を説いていますけれども、要は南無阿弥陀仏と称えて往生したいと思う心に集約されるのです。この外に、理論を加えたり他の教えと比較をしたりすることに心が傾けば、お釈迦さまや阿弥陀さまの慈悲心にはずれ、救いの誓い(本願)にもれてしまうでしょう。念仏を信じる人は、たとえお釈迦さまが生涯をかけて説いた教えをよく学んだ者であっても、何も知らない愚かものであることを自覚し、尼さんや在家信者(入道)が無知なるがゆえに無心に念仏を称えるすがたを見習って、知者ぶった高慢心を起こさず、ただひたすら念仏を称えなさい。証明のため両手で印をつけます。浄土宗の信心と実践の仕方は、この一枚の紙に記したことに極まります。源空の念仏に対する思いは、このほかにまったく別の意義はありません。私の亡きあとに誤った考えが出ることを防ぐために、思うところを記しました。

建暦二年正月二十三日 源空 花押

【解説】

平安時代末期の十二世紀に、時代の要請に応えるかのように出現した教界の大思想家が法然上人です。法然上人(1133~1212)が出現する以前の日本の仏教は本質的に「国家仏教」でした。僧侶は国家公務員であって、国家の試験にパスした者だけが僧侶になることができ、僧侶の生活は全て国家が負担していました。僧侶の仕事は経典を読誦して国家の安泰を祈ることでした。したがってそのような国家仏教においては、庶民の救済は重視されていませんでした。国家が安泰になればそこに生きる人々も幸せになれるはずだ。古代の人々はそう考えていました。だから国家仏教はまず国家の安泰を祈ったのであり、それが僧侶の役目でした。このような時代背景の中で法然上人は大勢の庶民(衆生)が救われる仏教をお説きになったのです。つまり国家仏教から民衆仏教へという百八十度の転換であり、いわば宗教改革の断行でした。

庶民というのは貧しい存在です。また、学問・教養もありません。そういう庶民が救われるには、沢山の布施をしたり、戒律を守って厳しい修行をしたりすることを必要とする、当時の仏教(旧仏教)では無理でした。厳しい修行をする時間の余裕もないし、生きるためには戒律も破らねばならないのが庶民です。だとすると、そのような庶民が救われるためには「自力の仏教」では救われません。「自力の仏教」というのは、自分の力でもって仏道修行をして、そして悟りを開く仏教です。それはそれで立派な事ではありますが、庶民は救われないのです。そこで法然上人は「自力の仏教」とはまったく違った「他力の仏教」をお説きになりました。 この「他力の仏教」は、阿弥陀仏に極楽往生のすべてをおまかせして、阿弥陀仏が持っておられる救済力によって救われようとする仏教です。阿弥陀仏という仏は、「自力の仏教」を実践できない大勢の凡夫を救ってやりたいといった願いを持っておられます。これを阿弥陀仏の本願といいます。わたしたちはその阿弥陀仏の本願を信じて、すべてを阿弥陀仏におまかせすればいいのです。その「おまかせします」といった決意表明が、「南無阿弥陀仏」のお念仏です。〃南無〃という言葉は「おまかせします」という意味。阿弥陀仏におまかせすれば、阿弥陀仏がわたしたちを救って下さるのです。つまり、簡単に言えば、ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるだけで阿弥陀仏がわたしたちを救ってくださるのです。法然上人の教えは誰でもが実践可能な教えでした。それまでの厳しい修行を必要とする仏教(難行・苦行)に対して、上人の教えは易行(容易に実践できる修行)でありました。ゆえに、法然上人のこの教えはまたたくまに日本中にひろまり、多くの民衆が救われたのです。

我々は、ともすると難しい理論を知識人から説明されると、理解出来なくても受け入れてしまいます。そして、「知識人がいうことだから」と、疑いを持ちません。しかし、簡単なこと誰れにでも解るような話であると、もっと深いものがあるのではないかと思いはじめてしまいます。やがてそれは迷いや疑いの心となり、素直に受け入れることが出来なくなります。晩年の法然上人は、お念仏の教えが、後代の智者達により、難解な理論や小難しい理屈が付け加えられて変容することを心配されました。なぜなら法然上人の教えは画期的な易行だからです。それまでの仏教界の考え方を全て過去のものにしてしまうほど、強烈なインパクトを与える思想でした。見方によっては、あまりにも容易で簡単すぎたのです。それゆえに、一枚起請文に〃滅後の邪義をふせがんがために所存を記し畢(おわん)ぬ〃と、残す必要があったのです。

歎徳之疏で知る法然上人の半生

御忌会(ぎょきえ)の際に導師が読み上げる疏(法会の目的等を宣する書状)が「歎徳之疏」である。この疏では、他力易行浄土の一門を開かれた法然上人の半生が語られ、広大な恩徳に報謝申し上げる言葉が述べられるのである。御忌会は法然上人の御祥忌日(一月二十五日)の法会であるが、今日わが宗の本山 においては、毎年四月十九日より二十五日の七日間で執り行われる最も重要な法要である。本来「御忌」という言葉は天皇の忌日に対して用いられる言葉であった。後に法然上人の御祥忌日に対しても使用することが許可され、上人の御祥忌日法要を御忌会と呼ぶようになったのである。当寺でも御祥忌日直前の一月二十日に毎年御忌会を開催しているが、その際に私が読み上げている「歎徳之疏」を掲載する。歴史的かなづかいや難読字が多く含まれ非常に読みにくいが、法然上人の半生を知る上で大変参考になる資料であるので補足をまじえて紹介したい。歎徳之疏の冒頭には「円光・東漸・慧成・弘覚・慈教・明照・和順」の語が並んでいる。これは上人に送られた計七個の大師号である。大師号とは朝廷より高僧に贈られた称号(諡・贈り名)であり、最澄の伝教大師や空海の弘法大師がよ く知られている。上人の場合は没後四百八十年余に東山天皇より「円光」の大師号が贈られたのだが、五百年遠忌の行われた宝永八年には中御門天皇より「東漸大師」が加諡され、これ以降は五十年ごとに大師号の加諡が慣例となった。近代の「明照大師」は七百回忌に明治天皇より、直近の「和順大師」は七百五十回忌に昭和天皇より贈られたものである。平成二十三年には法然上人八百年の御遠忌となるため、これまでの歴史的な経緯をかんがみると再び大師号が贈られる可能性があり興味深いところである。※追記 八百年御遠忌の際に新たな大師号「法爾」が下賜されました。

歎徳之疏(全文)

吾が宗祖法然上人源空円光東漸慧成弘覚慈教明照和順大師は勢至菩薩の垂迹にして 長承二年四月七日美作国久米の南条稲岡の庄に降誕し給衿えり 御年九歳にして父 時国が非業の最期を遂ぐるに遭い 臨終の遺誡 肝に徹し慈母の膝下を辞して叡山に登り 皇円阿闍梨に従いて剃髪受戒し 天台の教観師説の蘊奥を極め 十八歳黒谷に隠遁して叡空上人に師事し 円頓妙戒の嫡流を伝え専心出離の要道を尋ね 更に諸宗の碩学を歴訪してその玄門を叩く 其の志の急なること恰も頭燃を拂うが如くなりき 然れども聞き得たるところは悉く皆自力修行の道にして 彼も難く是も難し 濁世凡夫の分に非ず 故に独り蔵中に籠りて聖教を閲覧すること多年 御年四十三歳に及んで遂に一心専念弥陀名号の高祖のみ教えに遇い廓然として大吾し 歓喜の声を放ちて他力易行浄土の一門を開き給えり 乃ち四明の巌洞を出でて西山広谷の地に初めて他力念仏の大法を宣布し 自行化他専ら念仏を事とし給えり 是より弘願の妙法は晃々として世の昏迷を照らし都鄙の群萌斉しく弥陀大悲の光に浴し 大師の高徳を讃ふる輩朝野に充満せり 南都北嶺の讒訴 南海流謫の難に遭い給えりと雖も 念仏 の興行は弥々隆盛を極め 称名の声は洋々として四海に溢れ 終南の遺風永く扇ぎて 普天これに靡き今日に至るまでその徳光昭々として末代を照らし 安心起行の訓え永えに人類を化度す 嗚呼偉なる哉 吾等何等の幸ぞ茲に宗祖八百年の御忌に遇うことを得たり 故に闔山の大衆と共に宝前を荘厳し香華灯明百味の飯食を献供し奉 恭しく大師の影前に跪ずき 誦経念仏の法楽を捧げて広大の恩徳を報謝し奉る 仰ぎ冀くば大師本地の華座を動じて弟子某甲等が微衷を哀愍納受し給えと爾云

維時  年  月  日   曼陀羅山大日院光明寺第廿四世 沙門 實空俊徳 敬白

 

【 解 説 】

上人は長承二年(平安末期1133年)四月七日に、美作国久米南条稲岡の庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に誕生された。生誕地は後に誕生寺とな り、念仏の教えを授かった人々にとっては、いわば聖地の一つであり今も訪れる人々が絶えない。上人は幼少よりたぐいまれな聡明さにより、勢至菩薩の垂迹 (生まれ変わり)といわれ、幼名は「勢至丸」と呼ばれていた。わが宗の総本山境内には、上人の御火葬跡が残っており、そこに勢至菩薩像が奉られている由縁がこれである。さて、上人九歳の時に父漆間時国は敵対していた明石定明の夜襲により非業の死を遂げる。父臨終の際の「敵を恨んではならぬ」の言葉を肝に銘じ、父の遺言により仏門に入り、十三歳で比叡山へ登り皇円に師事する。十五歳のとき源光の元で剃髪受戒し、十八歳で黒谷に隠遁して叡空に師事し、法然房源空と改名する。その後上人は、歎徳之疏に〃円頓妙戒の嫡流を伝え専心出離の要道を尋ね 更に諸宗の碩学を歴訪してその玄門を叩く 其の志の急なること恰も頭燃を拂うが如くなりき 然れども聞き得たるところは悉く皆自力修行の道にして 彼も難く是も難し 濁世凡夫の分に非ず〃とあるように、当時の仏教はいずれの教えも凡夫救済の教え、すなわち誰もが救済される教えではないことに上人は失望したのである。そして〃故に独り蔵中に籠りて聖教を閲覧すること多年 御年四十三歳に及んで遂に一心専念弥陀名号の高祖のみ教えに遇い廓然として大吾し 歓喜の声を放ちて他力易行浄土の一門を開き給えり〃とあるように、上人は叡山の経蔵に独りこもって経典の研究を続け、上人四十三歳に及び遂に「一心専念弥陀名号」の高祖(中国浄土教の大成者、善導大師)の教え(観経疏)に出会い、他力易行浄土の一門を開く決意をしたのである。叡山黒谷を下った上人は、西山広谷の地に初めて他力念仏の大法を宣布し、自行化他(自ら修行することと他を教化すること、自分のためにすることと他のためにすることの二面にわたる行いを簡素に表現した言葉)、専ら念仏を事とした。(南無阿弥陀仏を唱える行に徹した)是より弘願の妙法は晃々として世の昏迷を照らし、南都北嶺の讒訴(当時の旧仏教による迫害)、南海流謫の難(四国への配流)に遭いながらも、念仏の興行はいよいよ隆盛を極め、称名の声は洋々として四海(須弥山を取り巻く四方の外海・全世界の意)に溢れ、その徳光昭々として末代を照らし、上人の説かれた念仏の教えは世に広がり続けているのである。

流祖西山上人御法語「鎮勧用心」(ちんかんようじん)について

鎮勧用心は我が宗派(西山浄土宗)の流祖西山上人(善恵房證空上人)が弟子の道覚法親王に与えられたものです。道覚法親王は後鳥羽上皇の皇子で、承久の乱で後鳥羽上皇が配流になった際に、西山上人を頼って出家し弟子となられました。後に宝治元年(1127)三月に第八十代の天台座主に推戴され、西山を去って比叡山に上られます。そこで道覚法親王は師である西山上人に、念仏者の日常の用心(心がけ)を示したものをお書き頂けないかと請い、それに応えて西山上人より与えられたものが「鎮勧用心」と伝えられています。 西山上人の教えをよく示すものであり、西山派にとって非常に重要な御法語です。

鎮勧用心(流祖西山上人御法語)

ねむりて一夜をあかすも報佛修德のうちにあかし、さめて一日をくらすも、弥陀内証のうちに暮らす。機根つたなくとも卑下すべからず。佛に下根を摂する願います。行業とぼしくとも疑(うたご)うべからず、経に乃至十念の文あり。はげむもよろこばし、正行増進の故に。はげまざるもよろこばし、正因円満の故に。徒(いたず)らに機の善悪を論じて、佛の強縁を忘るること勿(なか)れ。不信につけても、いよいよ本願を信じ、懈怠につけても、ますます大悲を仰ぐべし。

鎮勧用心現代語訳(意訳)

眠りに一夜をあかすときは阿弥陀仏の誓願の功徳力に包まれて眠り、起きて一日を暮らすときは阿弥陀仏の慈悲の光に照らされて暮らす。たとえ能力や素質が劣っていても卑下することはない、阿弥陀仏に能力の劣った者を救おうとする本願があるのだ。仏道修行が十分でないからといって往生を疑ってはならぬ、「無量寿経」に「わずか十声の念仏を称えた者はことごとく往生させる」といった文があるからだ。仏道修行に励むのも、うれしいことだ。正行が増進する(正しい仏道修行が進んでいる)からである。また、励まぬも、喜ばしいことだ。阿弥陀仏の本願力によってのみ往生できるといった、正しい因(凡夫救済の願)がすでに円満して(約束されて)いるのだから。いたずらに機の善悪(自分や他人を善人だ悪人だと)論じて、仏の強縁(我々を救済したいと願ってくださる阿弥陀仏の強い思い)を忘れるようなことはあってはならぬ。不信におちいってもいよいよ阿弥陀仏の救いを信じ、怠け心が起きてもくよくよせず、ますます阿弥陀仏の大慈悲を信じてすてべてをおまかせして仰ぎなさい。

流祖西山上人について

法然上人には大勢の弟子がいましたが、その大勢の弟子たちの中で後世に教団を残すことになったのが、親鸞(浄土真宗十派) 弁長(浄土宗) 證空(浄土宗 西山三派)です。法然上人にはいろいろな側面がありましたが、その一つは革命的な仏教思想家としての法然上人像です。上人以前の仏教は朝廷や貴族のための「国家仏教」でしたが、これを「民衆仏教」に変えるという、いわば宗教革命を起こしたのが法然上人でした。上人は誰もが救われる教え、いわば凡夫救済の教えを説いたのですが、自身は生涯念仏を一時も手放すことなく称え続ける念仏行者(専修念仏者)の姿勢を貫き、戒律を厳格に守る極めてまれな聖人でした。また仏教学者としても飛び抜けた存在でありました。もともと法然上人は天台宗の僧侶であり、天台宗のメッカである比叡山において「智慧第一の法然房」と呼ばれるほどの、学識にすぐれた高僧でした。それゆえに、教義の上では激しく対立した旧仏教側においても、人格者あるいは学識僧として尊敬する僧が多かったのです。上人のこれらの側面のうち、親鸞聖人は法然上人の革命運動の面を継承した弟子として飛び抜けた存在でした。弁長上人は法然上人の専修念仏者としての実践面を継承し、口称念仏すなわち南無阿弥陀仏を沢山口に称える事を重視した弟子でした。これに対して、法然上人の仏教学者としての側面を継承した弟子でナンバー・ワンだったのが西山上人(善恵房證空上人)だと言えます。

西山上人(1177~1247)は十四才で法然上人の弟子となりました。そのとき法然上人は五十八才。孫のような弟子でした。西山上人は当時政界で権勢を誇っていた久我通親(こがみちちか)の猶子です。久我通親はのちに内大臣となる大物てすが、実子には日本曹洞宗の開祖となる道元禅師(1200~1253)もいました。西山上人と道元禅師は義兄弟になるわけです(異説もあり)。西山上人は権力者の猶子であったので、当然ながら政界への道が開かれており将来を約束されていたのですが、十四才になって元服を迎えたとき、突然「法然上人の弟子になりたい」と言い出したのです。両親も養父も驚きましたが、本人の堅い意志により希望通り法然上人の弟子となったのです。その際に師の法然房源空上人よりいただいた名が「善恵房」、「證空」は後に父の法名と師の空号から名づけられたといわれています。今日一般的に用いられている「西山上人」は居住されたところの地名にちなんで、時の人々がお呼びしていた名からきたものです。十四才から法然上人の英才教育を受けた西山上人は、やがて師匠に「私の教学の全ては證空(西山上人)にたずねよ」と言わしめるほどになります。いわば法然上人の教えを伝える第一人者となるのです。西山上人は法然上人自らが剃髪、出家させた初めてのお弟子で、法然上人が入滅されるまで23年間教えを受けられた後継者であり、法然上人の円熟した晩年の教義がそのまま西山上人の教義であったのだといわれています。

▲PAGETOP