こだわり住職のよもやま話

お日待ち念仏講の数珠くり

2014年02月11日

山寺は毎年1月20日の御忌会(宗祖法然上人の忌日法要)と2月3日節分の法要(星祭・節分会)で百万遍数珠くりをします。寺法要としては​この二回が大数珠の出番ですが、実はこれ以外にも百万遍数珠が活躍する伝統行事があります。それは地元の大日地区で続けられている「お日待ち念仏講」という催しで、毎年立春の日に、お宮さんと光明寺の坊さんが並んでおつとめ(お宮はなんて言うんだろう?お祭りかな)をします。行事が始まると、お宮さんは祝詞をあげ私は読経をします。それが終わると、みなさんで大数珠くりをやってから宴会に突入するというのが習わしです。もうなれちゃいましたけど、当初は少々戸惑いました。お宮さんと坊さんが、それぞれの作法で同時進行です。だから、やっぱ珍しいですよね。NHKや地元の有線テレビ、ローカルの新聞社なんてのが取材に来たりもします。今年も県の関係者(何の関係者だっけ?)だとかが取材に来ていました。本日はこの少々変わった伝統行事について書いてみます。

庚申飾りの制作.jpg

「お日待ち」は「庚申待ち」とも呼ばれていて、Wikipediaによると次のように紹介されています。-日本の民間信仰で、庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事である。宵庚申、おさる待ちなどともいう。庚申待は通常、村単位など集団で行われ、その集り(講)のことを庚申講(こうしんこう)、庚申会(こうしんえ)、お日待ちなどという。仏教では庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。山王信仰(三猿信仰)もここから生まれたとされている。日本には古くから伝わっていたものと考えられており、平安時代から行われ、当初は公家や僧侶がやっていて、すごろくや詩歌管弦を楽しんでいた。『枕草子』にも庚申待の話が登場する。

現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化していることが伺われる。つまり、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ、現世利益を得ようとするものである。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化が見られるようになった。仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となったが、大正時代以降は急速にその信仰が失われることになった。しかし、親睦会などに名前を変えて今でも庚申待を行っている地方もある。(一部抜粋)とあります。

私見ですが、今日、お日待ち(庚申待ち)といえば、お宮さんを招いて行うのが普通のように感じます。私の実家の地区でも、写真の宮司さんを招いて、毎年この時期にお日待ちを開催しています。(今も親が参加しています)それで、私も僧侶になるまでは、お日待ち(庚申待ち)とは、「お宮さんだけの行事でしょ」と、ずーっと思っていました。ところが、実は仏教が深くかかわった神仏習合の民間信仰だったんです。「へえーそうなんだー」と、大変お勉強になった次第です。

お宮さんの準備

ところで、浄土教においては、このお日待ちに類似した行事として「念仏講」という民間信仰も生れました。同じくWikipediaによると、-念仏講とは、日本の仏教において、在家信者が念仏を唱える講中を指す言葉である。多く、浄土教系寺院において行われるが、葬儀の際や村の行事など、多くの民俗行事と密接に関係している。毎月の定められた日に行われる念仏は月並みと呼ばれ、多く、地蔵菩薩・観音菩薩・不動明王などを祀る縁日に行われる。その他、虫送り・風送りや、疫除け・雨乞い等の際にも行われる。今日では、以上のような念仏講は、村落内の老人たちによる寄り合いとしての役割を果たしており、その宗教的役割のほか、老人の娯楽の場ともなっている。(一部抜粋)とあります。

このように「お日待ち」と「念仏講」は、その目的や運営形態がごく近い関係にあったのです。それで、山寺の地元では、いつのころからかは不明ですが、両者がいわば「習合」して今日に伝わっているようなんです。

お日待ち念仏講会場.jpg

これは余談ですが、お日待ち念仏講でご一緒するお宮さん(地元の神功皇后神社さん)と私は、毎年別地区の行事でも共演(?)をしています。近くにある観音堂(光明寺の末庵跡地です)の隣に、戦後、地元の小学校にあった奉安殿(戦前、天皇と皇后の写真と教育勅語を納めていた建物)が移されたことが始まりのようです。秋の彼岸には地区の皆さんが集まって行事が行われ、その際に、私は観音堂の前で読経を行い宮司さんは奉安殿の前で祝詞をあげられます。大数珠くりはありませんが、大日地区のお日待ち念仏講と同様の形態です。お社とお堂が並んで鎮座している場所は他にもあり、山寺の周辺では明治政府の神仏分離令以降も両者は仲良く共存しています。

こういうことって、西洋宗教(一神教)の人達から見れば奇異な行動なんでしょうが、もともと多神教民族であった日本人にとっては、さほど不自然なことではなかったのです。日本に伝来した仏教は、仏教以外の信仰や日本古来の神々たちと争う事はしませんでした。そして、それらを受け入れ、取り込む(習合)ことで、この国に深く浸透していったんですね。

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