ギター三昧の顛末
2009年12月20日
... 前回より続く。さて、すでに書いたとおり、私は高校生の時に好きなギターが思いっきり弾けないという「求不得苦」を秘策で打破しました。それは親をあざむき担任を丸め込むという、いわば「禁じ手」ではありましたが、自分自身も相当努力して勝ち取ったものでした。それからの少年はギター三昧の日々を堪能し己の技術の向上に酔っていました。実際、短期間でかなりいい線まで行ったのです。しかし少年は再び「求不得苦」状態に陥ります。それは音へのこだわりでした。自分のギターでは伊勢氏のようないい音が出せないのです。(当時使用していたギターは、中学になった時に買ってもらったモーリスの入門機です)そう、ギターの奏でる音そのもの、音色がどうしても気に入らないのです。この時、己の演奏技術に疑問を持てばよかったのですが、まがりなにも三昧修行のおかげで急激に上達した(少なくとも途中までは)己の姿を見て、「自分はけっこう才能がある」と勘違いしていたので、意識だけはすでにプロレベルです。あろうことか、ひとっ飛びに音色に対してこだわりはじめたのです。要するに原因の分析と対策の選択が決定的に間違っていました。この段階で早くも楽器そのものの資質を強烈に意識しはじめます。(己の資質を意識すべきであったのに)当時、人気のフォーク・シンガーが使用していたアコースティックギターはアメリカ製です。マーチン・ギブソン・ギルドの御三家でした。なかでもマーチン社のD-28は多くのプロミュージシャンが定番として使用していたので(崇拝する伊勢正三氏もD-28だった)ギター少年達のあこがれの存在でした。当時50万円位の価格だったと記憶しています。(円高のおかげで今はずいぶん安く買えるようになった)現物を間近で見たことは無かったのですが、雑誌等を通してその評判や実績は熟知していました。
さて、そのマーチンに憧れる少年がとった行動とは「このままでは、さらなる向上が望めない」と、盆や正月に叔父や叔母達から頂戴した小遣いと、学校に内緒のバイトでなんとか3万位の貯金を確保し、それを全額母親に渡して新しいギターの購入のために追加支援を願い出たのです。母と二人で、美祢線、山陽本線、鹿児島本線と乗り継いで北九州市の小倉まで行き、雑誌の広告を頼りに大手の楽器店(今もある)まで調達に出かけ、当時の国産では最上クラスであったKヤイリ社のYW-1000 (マーチン社の最高級モデルD-45を模した美しいギターである)を購入しました。価格は10万です。つくづく母親とは慈悲深くありがたい存在です。子供のためなら大抵のことはいとわない。自分の着る物を惜しんででも「我が子の夢をかなえてやりたい」と、今思えば高価な買い物をさせてしまいました。あの時代に田舎少年が10万とは相当なしろものです。実際当時レコードデビューしていたフォーク・シンガーの中にも愛用者がいました。レコードジャケットの写真の中に自分の愛器と同じギターがあるのを見つけたときは、まるで自分が天下を取ったかのように嬉しかったものです。新しいギターを手に入れた少年のテンションは最高潮に達しました。音はたしかに変わり完全コピーを誓った「22才の別れ」のリードギター演奏は、この時点で一段と完成の域に近づいて行ったのです。しかし、相当がんばった。なのにである。かなり肉薄したがまだダメでした。なぜなんだ?おかしい?おかしい?本当におかしかったのは少年の頭の中であったのですが、そんなことは本人には解らない。どうして同じ音色が出せないのだろう。「やっぱり伊勢さんと同じマーチンでないとダメなんやろか」と、音色の良し悪しに執着(しゅうちゃく:仏教において事物に固執し囚われる事。仏道修行を妨げる心の働き)するあまり、己の技術を疑うことを忘れていたのです。
今思えば、その頃より私の技術的な向上は頭打ちになっていました。卒業を控えた3年になると、さすがに進路のことも考えなくてはならず練習は徐々に怠るようになっていました。それとともに演奏レベルはむしろ低下して行きます。プロの奏者が口を揃えて言う「毎日練習しないと確実に腕が落ちる」を雑誌などで充分知っていながら、自分の事は忘れています。しまいには「やっぱマーチンなんだ」との思い込みが支配的になって行きます。自分の技術的な限界がネックになっていることに、目を向けようとしない愚かな少年でした。大学に進むと、ギター演奏の貴重な相棒であった弟と離れたこともありギター熱が徐々に冷めていきます。それでも、グレープ解散後にさだまさし氏が立て続けにリリースしたアルバムに影響されて(アコースティックギターの演奏曲が多かった)多少は弾いていました。しかし、卒業の頃には世間は完全にフォーク時代の終演を迎えており、それを機にギターはまったく弾かなくなりました。結局、少年の(この頃はもう青年だが)「求不得苦」は自然消滅したのです。ヤイリはハードケースに納まったまま、取り出す機会も無く長年放置されることになりました。
ギターを弾かなくなったギター少年が、憧れのマーチンD-28を間近で目にしたのは随分後のことです。月日は流れ少年は父親となっていました。そして、ちょうど自分が初めてギターを買ってもらった歳に長女が成長した頃でした。ある地方都市の楽器店で偶然にD-28を見つけたのです。高校生の頃、雑誌やカタログの写真で毎日のように眺めていたせいか、初めての対面なのに妙に懐かしくて、まるで若き日に恋い焦がれた片思いの女性に偶然再会したような気分でした。世間に「大人買い」という言葉があります。子供の頃に手が出せず憧れだった物を、大人になってから思いっきりまとめ買いして子供の頃の夢をかなえる行為です。私もその時、まさに「大人買い」の衝動にかられました。「今なら買えないこともない」の思いが頭の中を巡ります。いつまでもガラスケースの前から動かない姿が店主の目に止まり声をかけられました。事情を話すとご好意で店主の私物であるD-28を少々弾かせて頂けることになりました。ついに本物の音が聴けるのです。十数年ぶりのギターなので、とても緊張してマーチンを小脇に抱えたことをよく覚えています。D-28を今まさに弾こうとしている自分の姿を、もう一人の自分が固唾を飲むようにして見つめていました。いい大人が脈は速まり呼吸は乱れています。音叉を膝頭でコンと叩きギターのトップで響かせてチューニングしていく手順はまだ忘れていませんでした。解放弦の音を自分の耳でまず合わせます。次にハーモニックス(倍音)で確認し、最後に適当なコードをジャランジャランとやって、全体のバランスを確認しながら微調整を済ませたら準備完了です。
最初に弾いたのは、やはり「22才の別れ」のスリーフィンガーでした。「至福の瞬間」とは、まさにこんな場面のためにある言葉だと思います。しかし調子にのって次にさだまさし氏のソロアルバム「帰去来」にあった「線香花火」を弾きはじめた頃から、その「至福の瞬間」はすでに終演を迎えようとしていたのです。ラスト1曲に選んだのは、同じくさだまさし氏のアルバム「主人公」にあった「掌:てのひら」でした。(ギターのみでドラマチックに演奏されている弾き語り調の名曲、めちゃくちゃ哀しい曲なので落ち込んでいるときには聴かないほうが良い、危険です)それを弾き始めた頃には私は完全に覚醒していました。なんということでしょう。あれほど憧れたあのマーチンD-28が、私の手にかかると大して鳴らないのです。まるで国産中級機並です。冷静になった我が耳には、高校時代にヤイリで出していた音の方が良かったくらいに思えるのです。ようやくこのとき私は全てを悟りました。「マーチンD-28がすばらしい音色で鳴っていたのは伊勢正三氏が弾いていたからなんだ」「自分の腕ではたとえマーチンを手に入れていたとしても結局ダメだったんだ」そしてあろうことか「弾かせてもらわなければよかった」と、心のどこかでつぶやく自分が哀しかった。
あこがれは、あこがれのままが一番幸せなのかもしれません。現実とはかくも残酷なものです。娑婆世界(現実世界)とは、まことに何もかもが己の思うようには行かない世界であります。