この世は諸行無常なり
2009年12月15日
こだわり住職は若い頃にフォークギター(アコースティックギター)に夢中になっていたことがあります。私の青春時代はフォークやニューミュージックと呼ばれたジャンルの歌曲が全盛の時代でした。中学1年の夏に親に頼み込んでモーリスのフォークギターを買ってもらい、最初に弾けるようになった曲が「小さな日記」でした。山で帰らぬ人となった恋人との思い出を歌った名曲です。当時中学校の音楽の授業では、教科書とは別にさまざまな歌が掲載された副読本(歌本)も使用していました。たしか「みんなのうた100」だったと思います。音楽を指導して下さった山本先生は、毎回のようにこの副読本や、あるいは先生が独自に用意された曲を歌う機会を設けてくださいました。「小さな日記」がこの副読本に載っていたのかどうか、もう覚えていないのですが、おかげで私は多感なこの時期にさまざまな歌に出会い、歌の魅力のとりこになるわけです。その後の私は当時のフォークを弾き語りで歌うことに夢中になります。六文銭、五つの赤い風船、吉田拓郎、井上陽水、森山良子、松山千春、チューリップ、かぐや姫、グレープ、風、オフ・コース、中島みゆき、五輪まゆみ、さだまさし、などと、当時のフォーク・ニューミュージック系シンガーたちの歌曲を歌いまくり、やがてレコード演奏のコピーにも手を出して行くようになりました。学校の勉強なんてそっちのけです。愛読書はさまざまなフォーク雑誌やギター演奏雑誌、そして一番大事だったのは弾き語りのための歌本とレコードコピー譜でした。
ところで、私には1才違いの弟が(吉村賢治、今は前田賢治に名前が変わっちゃった)います。その弟に兄の熱病が感染するのは時間の問題でした。弟は幼少のころからピアノを習っており、私よりもはるかにこの手の才能に恵まれていました。ですから私がギターの手ほどきをすると、弟はあっという間に上達してしまい、兄弟でアコーステックギターの共演(レコードコピー)を行うことが可能になったのです。私たち兄弟は、自分達の演奏をテープレコーダーに録音してはレコードと聞き比べて、あそこが違うここが違うと日夜研究にはげみました。今思えばずいぶん熱心に練習したものです。そんな私の演奏テクニックが最高潮に達したのは「風」のデビューシングルであった「22才の別れ」のコピー演奏に挑戦していた頃です。元々は「かぐや姫」時代の伊勢正三さんが74年のアルバム「三階建の詩」のために書いたもので、もう一曲「なごり雪」も同アルバムで書いています。5年間月日を共にした一番大切な人のもとから、その人の知らない所へ嫁いでいく女性の惜別の詩です。「今はただ5年の月日が、長すぎた春と言えるだけです...」の歌詞が印象的でした。「22才の別れ」は、かぐや姫を知る人にとってはなじみ深い名曲ですが、一般的には「風」がシングルヒットさせたことで完全にメジャーな曲となりました。その際に巷では「長すぎた春」のセリフが流行りました。この曲はかぐや姫の時代から私たちのお気に入りでした。見事なスリーフィンガー演奏で、その華やかな音色や開放弦の倍音(わずか1音のハーモニックス)がワンポイントになっていて格好良かった。イントロのリードギターは特に印象的で、アコースティックギター演奏のコピー対象曲として、あきれるほど繰り返し聞いた思い出深い曲です。
さて、かぐや姫解散後に伊勢正三さんがまもなく結成したグループ「風」から、「22才の別れ」がシングルリリースされたというので、私たち兄弟はさっそく聞いてみました。すると以前のアレンジとは結構変わっており、良い刺激というか実に新鮮でした。その違いを説明するのはなかなか難しいのですが、演奏上の技術的なことなどはともかく、曲の印象とういか空気感・透明感の違いは聞き比べるとよく解ると思います。この曲はかぐや姫の時代から、別れの歌でありながら湿めっぽい感じは適度に押さえられて、わりとサラッと歌い上げられていました。この基本路線は同じなのですが、こちらはずっと洗練されており、おしゃれな印象を受けます。楽器構成はベースとドラムは同じでしたが、なんといってもアコースティックギターの音色が随分変化しているので驚きました。そして、チェロ(たぶん)がワンポイント的に参加しており、キーボードはシンセサイザーからピアノに変っていました。目をひくのはドラム以外すべて弦を使う楽器であること。そしてベース以外はすべてアコースティックであることです(前作はシンセサイザーがありました)。「風」バージョンはアコースティックギターの切れの良い音色を前面に出したアレンジで、前作より軽やかさや繊細が強調されています。それとレコーディング機器や編集技術のグレードが上がっているのか、目を見張るようなクリアなサウンドに仕上がっていました。特にギタリスト石川鷹彦氏のナッシュビルチューニングによるスリーフィンガー演奏は効果絶大でした。曲全体になんというか華がありました。ギターの音色は一段と高音の抜けが素晴らしくなっており、美しくきらびやかです。圧巻だったのは素晴らしいリードギターです。イントロも、曲中も、間奏も、エンディングも、「これでもか」と言わんばかりに、高度な技術が山盛り状態の演奏です。まるでアコースティックギターのスペシャリスト向けの演奏見本です。当時このことは業界でも話題になりました。多少なりとも腕に自信のある好き者たちは、この完全コピーにチャレンジするのが流行りました。かくゆうこの私も無謀にもチャレンジした一人なのです。
風バージョンのコピーはリードギターとセカンドギターのスリーフィンガー、そしてメインボーカルを私が担当しました。(兄の特権で目立つ方をぶん取った)弟がファーストギターのスリーフィンガーとベース、そしてセカンドボーカルを担当しました。二人で再現するのですから一度に演奏はできません。二回に分けて演奏します。最初の演奏の録音を再生しながら、二度目の演奏を行いつつ二人のボーカルを重ねて録音するのです。そんなめちゃくちゃ原始的なインチキ多重録音でデモテープを作って喜んでいました。録音する際には残響効果の高い浴室を臨時スタジオにするのがいつものパターンでした。休みの日には一日中兄弟が浴室にこもるなんてこともありました。今思えば「22才の別れ」のリードギターにチャレンジしていたあの頃が、私のギターテクニックが最高潮に達していた瞬間だったのです。その後、大学に進み弟と離れて暮らすようになり、相棒を見つけることが出来なかった私のギター熱は徐々に冷めて行きました。社会人となりサラリーマン生活を送るようになってからは、ギターを触る機会は皆無となりました。七年前に会社を退職し妻の実家の寺の坊主になってから、ボランティア活動として人様の前で数回演奏する機会があったのですが、めちゃくちゃ下手くそになっている自分に驚きました。お気に入りだった「22才の別れ」のリードギターはすっかり忘れています。今となってはあのリードギターを多少なりとも演奏出来ていたことが不思議でなりません。まさにこの世は諸行無常なり。
諸行無常とは、この世の現実存在は全て姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この世に変わらないものは無いのであるから、いま目の前にある現実存在に執着することは己を苦しめるだけである。人は執着を捨てそこから解放さたときはじめて楽になれるのである。