宗祖流祖について

流祖西山上人について

法然上人には大勢の弟子がいましたが、その大勢の弟子たちの中で後世に教団を残すことになったのが、親鸞(浄土真宗十派) 弁長(浄土宗) 證空(浄土宗 西山三派)です。法然上人にはいろいろな側面がありましたが、その一つは革命的な仏教思想家としての法然上人像です。上人以前の仏教は朝廷や貴族のための「国家仏教」でしたが、これを「民衆仏教」に変えるという、いわば宗教革命を起こしたのが法然上人でした。上人は誰もが救われる教え、いわば凡夫救済の教えを説いたのですが、自身は生涯念仏を一時も手放すことなく称え続ける念仏行者(専修念仏者)の姿勢を貫き、戒律を厳格に守る極めてまれな聖人でした。また仏教学者としても飛び抜けた存在でありました。もともと法然上人は天台宗の僧侶であり、天台宗のメッカである比叡山において「智慧第一の法然房」と呼ばれるほどの、学識にすぐれた高僧でした。それゆえに、教義の上では激しく対立した旧仏教側においても、人格者あるいは学識僧として尊敬する僧が多かったのです。上人のこれらの側面のうち、親鸞聖人は法然上人の革命運動の面を継承した弟子として飛び抜けた存在でした。弁長上人は法然上人の専修念仏者としての実践面を継承し、口称念仏すなわち南無阿弥陀仏を沢山口に称える事を重視した弟子でした。これに対して、法然上人の仏教学者としての側面を継承した弟子でナンバー・ワンだったのが西山上人(善恵房證空上人)だと言えます。

西山上人(1177~1247)は十四才で法然上人の弟子となりました。そのとき法然上人は五十八才。孫のような弟子でした。西山上人は当時政界で権勢を誇っていた久我通親(こがみちちか)の猶子です。久我通親はのちに内大臣となる大物てすが、実子には日本曹洞宗の開祖となる道元禅師(1200~1253)もいました。西山上人と道元禅師は義兄弟になるわけです(異説もあり)。西山上人は権力者の猶子であったので、当然ながら政界への道が開かれており将来を約束されていたのですが、十四才になって元服を迎えたとき、突然「法然上人の弟子になりたい」と言い出したのです。両親も養父も驚きましたが、本人の堅い意志により希望通り法然上人の弟子となったのです。その際に師の法然房源空上人よりいただいた名が「善恵房」、「證空」は後に父の法名と師の空号から名づけられたといわれています。今日一般的に用いられている「西山上人」は居住されたところの地名にちなんで、時の人々がお呼びしていた名からきたものです。十四才から法然上人の英才教育を受けた西山上人は、やがて師匠に「私の教学の全ては證空(西山上人)にたずねよ」と言わしめるほどになります。いわば法然上人の教えを伝える第一人者となるのです。西山上人は法然上人自らが剃髪、出家させた初めてのお弟子で、法然上人が入滅されるまで23年間教えを受けられた後継者であり、法然上人の円熟した晩年の教義がそのまま西山上人の教義であったのだといわれています。

新着情報

法要・行事のご案内

住職のよもやま話

仏教のおはなし

PAGE TOP