こだわり住職のよもやま話

2019年

十夜会終了しました

2019年11月16日

令和元年11月16日光明寺の紅葉

山寺の秋がまもなく終わろうとしています。ここ数年感じているのですが、秋らしい期間がずいぶん短くなったと思います。大人になると時の流れは早く感じるものです。だから自分自身も変わっている(年齢を重ねている)ことを忘れてはいけないのですが、それでも日中の気温と朝夕の温度差は昔より極端になったと思います。たった一日で季節がまるで変わったように感じることも多くなりました。それだけ気候変動のブレ幅が大きくなったということでしょう。理屈抜きで肌で感じています。

日本列島には素晴らしい四季というものがあて、日本人の精神性に大きな影響を与えてきたはずですが、徐々にそういう素晴らしい時の流れ、季節のうつろいというものが薄まって来ているように感じています。山寺の紅葉を観察していると、近年はアッという間に終了で、いわゆる見頃の期間が短くなってきている現象が気になります。ちゃんと紅葉する前に茶色に変色して枯れてしまったり、まだ紅葉し始めたばかりなのに早々と葉が散ったりする木が多くなっています。それを眺めていた私は、とにかく何もかもがスピードアップして余裕が無くなってきた世間と同じ現象のように感じる今日この頃です。

さて、話しは変わって遅くなりましたが13日に十夜会が開催されたのでその時の様子を掲載します。

十夜会 和歌山県 来迎寺 貴志俊誠 師

今回の説教師は和歌山県 来迎寺の貴志俊誠 師です。貴志師は私とはほぼ10歳違い、今50歳だそうです。実に豊かな声量をお持ちでした。参拝のみなさんと同称十念を数回されましたが、迫力のあるお念仏で圧倒されました。あの声量と声艶でしたら、そりゃ師の読経が素晴らしいものになることは容易に想像できます。王道の本山随身で若い時にきっちり修行されての今日です。すでに経験値も充分。僧侶として今最も充実した時期ですね。遠路はるばる有り難うございました。

やさしい仏教講座(第15回)

2019年06月06日

地蔵菩薩

 

○小欲や無欲では幸せにはなれない。

前回お話した本当の幸せの方程式(幸せ=知足÷少欲)https://koumyou-ji.or.jp/voice/archives/229で大切なことは、「少欲」つまり欲を少なくすることです。決して欲がない「無欲」ではないことに注意して下さい。分数の計算は「無欲」、すなわち「0」では割れません。「無欲」では幸せの方程式は成立しないのです。そして、少欲は小さい欲という意味の「小欲」でもありません。

ここでまた上座部仏教をひきあいに出すのですが、彼らは「少欲」を「小欲」と解釈しました。だから欲を小さくしなさい、何もかも捨てなければダメだ、裸になれ、煩悩をなくしなさいと説きました。しかし、欲が小さい人が幸せかというと、決してそうではありません。「小欲」でも満足できない人がいるからです。

 

○欲(煩悩)が大きい人ほど幸せになりやすい

一方、大乗仏教では欲をほんの少し少なくすればよいと説きました。その時、欲が大きいほど少なくする量も比例して大きくなります。大きな「煩悩」をもっている人ほど、欲が転化され昇華されたときに生じる幸せは大きくなります。だから欲(煩悩)が大きい人ほど幸せになりやすいのです。どうです。屁理屈でしょうか?

 

 

個人的なモヤモヤですが(新元号の書体)

2019年04月24日

新年号の発表

先般新しい元号が発表されましたが、ライブで見られた方も多かったことでしょう。私もその一人でしたが、官房長官が掲げた墨書は見事なものでした。これが今後は毛筆のスタンダードになりそうですね。でも違和感というか、小さな疑問も湧いてきました。毛筆の場合、普通は明朝体の字形では書かないものです。(...でしたと書くべきか?)なぜなら、いろいろ事情があって(活字用途で)楷書体や教科書体を一部省略したのが明朝体だからです。ところが今回の歴史的な墨書は明朝体風の令で発表されました。それで「えっ、こっちですか?」となったのです。

ひとやねの下に一つ点とマのレイ(学校で習うレイですね)で書かれていないのは何故でしょう?そりゃ間違いではありませんが、それでも、なんとなくモヤモヤするのは私だけでしょうか?何か意図でもあるのでしょうか?

今日、私たちが普通に目にするのは明朝体やゴジック体です。手書きが前提だった楷書体や教科書体は今や例外的(?)な字体です。だから、これからの時代は「手書きもこっちが本命ですよ」と言うことでしょうか?深読みし過ぎか.....。

ついでの話しですが、今日新聞など多くの印刷物で用いられている明朝体の定着には仏教が大きな役割を果たしました。元は経典を印刷するために版木に彫りやすい字形として発生した書体です。日本にこれが広まったのは、江戸初頭に黄檗宗の鉄眼道光禅師が一切経の開版の際に用いたから(明の朝廷=明国から伝わった書体だから明朝体)です。一行二十字、一紙四百字の原稿様式も、この一切経の出版によって確立しました。

 

恒例の同行人会へ行って来ました。

2019年04月11日

平成31年法脈相承

4月2日、同行人会出席のため本山を尋ねました。厳しい修行に耐えている後輩たちに、心ばかりの差し入れと「がんばれ、がんばれー」と念力を送る為(?)に我々は毎年集合します。私にとっては何をおいても優先すべき行事です。己の人生において、おそらく最も純粋な心で過ごしたあの時間を振り返るために、万難を排して駆けつけます。

平成31年4月2日本山での水行

あれからすでに15年が経過しました。すっかり煩悩にまみれた日々を過ごしている私にとって、毎年この時期に本山を訪れることは、みそぎなのです。今もこの会が続いていてくれること、集まる同行の仲間がいることに心から感謝しています。

さて、本山訪問のおみやげは今年も御影堂の受付で頂ける御朱印です。すっかり恒例になりました。担当の職員さんは3人が交代で対応されているとのことでしたが、初めて御朱印を頂いた3年前から、すべて写真の森 健一さんの日に我々は訪問しています。これもご縁ですね。例によってお経本のカバーに書いて頂きました。

本山御影堂御朱印担当 森 建一氏

今回、森さんの経歴を知る事ができました。かつては長岡京市の秘書課長であられた。なるほど、やはりそうでしたか。見事な筆使い。納得であります。ありがとうございました。

平成31年4月2日 本山御朱印

春の行事が終わりました

2019年03月16日

まもなく彼岸です。この時期になるとどこのお寺でも春の法要が開催されます。山寺も12日に彼岸会を開催しました。前夜は雷雨で心配しましたが、当日はまずまずのお天気で助かりました。ただし風はとても冷たくて冬に逆戻りの一日でした。

平成31年3月12日 彼岸会

山寺の彼岸会は恒例の巡教(お説教)がメインの行事です。よって前座の勤行は手早く済ませ、お参りのみなさんには説教師の話をしっかり聞いていただきます。今回は福岡県苅田町の東伝寺、森本隆樹師です。師は在家からお坊さんになられた人です。妻の実家の寺に入るために、私と同様で少々遅いタイミングで仏門に入られました。そして、その際には私の息子と同行でした。そういうこともあって、馬が合うとでもいいますか、庫裏の客間で実に話しが弾みました。互いに本音の話しが出来て有意義な時間を過ごすことが出来ました。今回の行事で一番満足しているのは、何を隠そうこの私であります。有り難うございました。

H31.3.12 東伝寺 森本隆樹 師

 

 

本年最初のもちまき終了

2019年02月06日

2月3日、山寺の星祭・節分会が開催されました。メインイベントは今年最初のもちまきです。みなさんには楽しんでいただけたようです。今年は日曜だったので過疎の田舎寺では珍しくなった子供さんの姿も見ることができました。

平成31年2月3日星祭勤行

 

平成31年2月3日節分会勤行

 

平成31年2月3日大数珠くり

 

平成31年星祭・彼岸会もちまき

大量のおもちが飛んできます。

 

平成31年2月3日もちまき

大橋家のチビちゃん。よく来てくれました。

 

平成31年2月3日もちまき

大量ゲット。冷凍庫へ直行でしょうね。

 

平成31年2月3日星祭・節分会散会

今年のお説教は一味違いました

2019年01月26日

遅くなりましたが、1月20日に山寺の御忌会が開催されたので報告します。昔から山寺の御忌会は大寒に開催がお約束でした。よって新年初のこの行事は大抵みごとな寒行になるのですが、きっと誰かさんの日頃の行いが良かったのでしょう。今年は予想外に暖かく穏やかな一日でした。それからもう一つ。今年は日曜だったので息子に手伝ってもらうことも出来ました。これも実にラッキーでした。こりやー新年早々から実に良いことだらけです。感謝感謝。

舜青寺 漆間朋道師

さて山寺の御忌会ですが、すでに恒例となった舜青寺住職によるお説教で、今年も私は楽をさせて頂きました。しかも、今回は少々趣向を凝らしたお説教(公演)でした。「百聞は一見にしかず」であります。その時の様子は写真を見てもらえば伝わるのではないでしょうか。ギター片手に、さだまさしさんの「防人の詩」を熱唱され、歌詞にこめられた深い思いを題材にしたお説教を聞かせて頂きました。

「防人の詩」いい曲です。私も若い頃に弾き語りで歌っていました。坊さんになった今、改めて聞くと心に染みます。まさに仏教のおしえそのもの。諸行無常の歌であります。

防人の詩 さだまさし
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
おしえてください
私は時折苦しみについて考えます
誰もが等しく抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
現在の自分と
答えてください
この世のありとあらゆるものの
すべての生命に約束があるのなら
春は死にますか 秋は死にますか
夏が去る様に 冬が来る様に
みんな逝くのですか
わずかな生命のきらめきを信じていいですか
言葉で見えない望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちて来る
なりわいの中で
おしえてください
この世に生きとし生けるものの…

 

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