こだわり住職のよもやま話

2016年

やさしい仏教講座(第7回)

2016年12月17日

光明寺の落葉

○上座部仏教の渡り方
上座部仏教では、彼岸に渡る方法として、お釈迦さまが説いた「四諦」「八正道」にこだわりました。これは、お釈迦さまが修行の末にたどりついた四つの真理と、それを実践する八つの正しい生き方を指します。上座部仏教では、この真理にもとづき出家して修行を積むことが彼岸へ渡る方法だと考えたのです。しかし、この渡り方では普通に暮らす人には無理です。誰もが出家して修行を積めるわけではありません。かといって、そのままでは人々は彼岸へ渡れず、いつまでも不幸なままです。

○お釈迦さまはまず専門家を養成した。
彼岸へ渡れと説いたお釈迦さまは、大人も子供も、お年寄りも、男性でも女性でも、人々をひとり残らず彼岸へ渡してあげたかったはずです。しかし、仏教の智慧も何もない人々に、いきなり川へ飛び込んで泳いで渡れというのは無理な話です。

例えば、登山に置き換えてみましょう。険しい山を登るには素人では無理です。山頂へのルートや天候のことも知らない人が山道に入ると、たちまち遭難してしまうでしょう。どのルートが登りやすいのか、どうしたら道に迷わないのか、あらかじめ下調べをして、どんな準備をすればよいかを考え、安全に登らせるガイドが必要です。だから、お釈迦さまは人々を導く役割をする専門家をまず養成したのです。そして、その専門家たちに導かれて人々が山を登り始めます。そうやって次々に人々が登っていくと少しずつ道が踏み固められ、やがて立派な道が完成してどんな人でも山に登れるようになります。つまり、誰でも彼岸へ渡れるようになるのです。これこそが、お釈迦さまが最終的に望んだことであり、やがて、すべての人を残らず彼岸へ渡す方法を説く「大乗仏教」が誕生することになります。

やさしい仏教講座(第6回)

2016年11月30日

密教仏具

○仏教の説く此岸(しがん)と彼岸(ひがん)の世界
仏教では、人が幸せになるには「此岸から彼岸へ渡れ」と説きます。この此岸と彼岸の世界は、つぎのように説かれています。自分の前に大きな川が流れている様子を想像してください。自分がいるほうを此岸と呼び、対岸を彼岸と呼びます。此岸は私たちが生きている世界、凡夫の世界です。煩悩にあふれた世界で、これを娑婆世界とも呼びます。これに対して、対岸の彼岸は仏の世界です。煩悩の炎がすっかり消えた涅槃の世界です。お釈迦さまは「此岸では人は真の幸せにはなれないので、彼岸へ渡りなさい」と説きました。これが仏教における基本テーマです。

○彼岸への渡りかたには2つの考え方がある。
仏教はその根本的な思想の違いによって「上座部仏教」と「大乗仏教」に大別されます。東南アジアで現在も繁栄しているのが「上座部仏教」であり、これに対して日本に定着した仏教は「大乗仏教」です。さて、ここで問題になるのが、それぞれの彼岸へ渡る方法です。上座部においては、川を渡って彼岸へたどり着けるのは出家僧として厳しい修行を積んだごくわずかな人々に限られます。これに対して、すべての人が渡れるようにその方法を説いたのが「大乗仏教」です。この両者の思想的な違いはとても重要なことです。ですから仏教の理解を進めるにあたっては常に意識しておく必要があります。

十夜会厳修いたしました

2016年11月13日

小倉南区 護念寺 萩原正悦師

今年最後の通常法要(十夜会)が10日に無事終了しました。心配したお天気もまずまずで穏やかな一日でした。 今回のお説教師は福岡県小倉南区 護念寺住職の萩原正悦師です。まことにありがとうございました。

山寺では、春(彼岸会)と秋(今回の十夜会)に、外部よりお説教師をお招きしますが、 小寺なので聴衆者の頭数は毎回大したことありません。 一見すると大変もったいない行事に思えるかもしれません。 しかし、これはこれで、こじんまりとした法要ならではの良さがあります。 それは、お説教師と聴取者の距離がとても近くて、お話をしっかり聞くことができることです。 マイクなど不要の会場です。互いの表情も手に取るように解ります。 私も時々皆さんの前でいいかげんな講釈を垂れることがありますが、まっとうなお説教(?)というか、 要するにちゃんとお勉強されてる一流の説教師の話しが聞ける機会は貴重なことです。 今回、萩原師のお説教を聞かせて頂く機会を得た我々は、素晴らしいご縁に恵まれたのであります。 そのことに改めて感謝したいと思います。 合掌

やさしい仏教講座(第5回)

2016年10月05日

観音菩薩

○お釈迦さまの説法術は「方便」

お釈迦さまの説法は「対機説法」「応病与薬」「臨機応変」などといわれます。自分の考えを教科書のように固定して教えるのではなく、相手の精神状態、環境、心の発達状態などに応じて説きわけたからです。要するに、相手にあわせて説法を変幻自在に変えられました。その教えは相手の数ほどに増えたのです。だから仏教は八万四千の法門があるといわれるほど教理が多岐にわたるようになりました。このため後に伝えられた「経」のなかには、同じお釈迦さまの教えといわれながら、一見矛盾するような教えも少なからずあります。この一見矛盾するような説法を、仏教では「方便」といいます。このように、仏教の教えは壮大で深遠です。ですから、お釈迦さまから直接教えを説いて頂くことのできない私たちは、お釈迦さまのどの教えが今の自分に最も向いているのか、選び出す必要があると言えます。そして、その手助けをするのが僧侶の役割だと私は考えます。

 

○お釈迦さまの入滅と、お経(三蔵)の成立

日本でお経(仏教の経典)という場合、原則的にはお釈迦さまが45年をかけて説かれた教えである「経」(本来の経)と、弟子たちが守らなければならない約束事や禁止事項である「律」に、教団の学僧たちがお釈迦さまの教えを研究分析して著した「論」をくわえた、経・律・論の3つを合わせて「三蔵」といい、広い意味では三蔵全体をお経(経典)と呼びます。お釈迦さまは80才で入滅するまで教えを説き続けられましたが、この間、自ら著作を残されることはありませんでした。お釈迦さまが亡くなった直後、主な弟子たち500人が、その教えを正しく伝えていかねばならないとして集い、それぞれの記憶に留めていた教えを確認しあっています。この会議のことを結集(けつじゅう)と呼びます。このとき確認し承認されたものが、「経」と「律」で、後に「論」がくわえられて経典と呼ばれるようになります。経典は長いあいだ文字に書かれることはありませんでした。それは、インド古来の伝統により、聖典は文字にしないことになっていたからです。仏教の経典も、暗唱しそれを口伝えで弟子に継承され続けました。仏教経典が文字で記録されるようになったのは「大乗仏教」がインドで誕生する紀元前後からです。

やさしい仏教講座(第4回)

2016年09月18日

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○お釈迦さまの説いた真理
お釈迦さまの教えは、「人生とは苦である」ということからスタートし、「どうしたら私たちは苦から開放され幸せになれるのか」ということを基本テーマとしています。お釈迦さまが菩提樹の木の下で悟り、そして説いた教えは、縁起・四諦(したい)・八正道から成っています。「縁起」とは、物事が互いに関係しあっているという意味です。そこから、「人生が苦であるならば、それは苦のみが独立しているわけではなく必ず原因がある」、ならば、「原因がなくなれば苦悩はなくなる」ということを導きだし、人生が苦であることの根本原因を考えられたのです。「四諦」とは、4つの真理のことで、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)といいます。「苦諦」とは、苦に関する真理のことで、人生とは本質的に苦であると説いています。「集諦」とは原因に関する真理で、人生が苦であることの原因は「煩悩」であると説いています。「滅諦」では、原因の消滅に関する真理を説き、苦の原因である煩悩の消滅が苦の「滅諦」であると説いています。「道諦」とは、修行道のこと、すなわち実践(方法)に関する真理で、苦の原因を取り除く方法を説いています。この「道諦」を詳しく説いたのが「八正道」です。

○八正道の詳細
お釈迦さまは苦を消滅させるためには八つの正しい道(方法)があると説いています。正見・正思惟(しょうしゆい)・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という八つの道です。正見とは、自我の意識を離れ正しく物事を見ること。正思惟とは、正しく物事の道理を考えること。正語とは、真実のある正しい言葉を語ること、正業とは、正しい行為を行うこと、正命とは、正道に従って清浄な生活をすること、正精進とは、正しく目的に向かって努力すること、正念とは、邪念を離れて正しい道を思念すること、正定とは、正しく精神を集中して安定させることです。これらの修行を積むことによって煩悩をなくし、結果として苦を克服することができるとしているのです。お釈迦さまはこうした真理を、相手の理解力や素質に応じて、臨機応変に説かれました。

やさしい仏教講座(第3回)

2016年08月21日

釈迦誕生仏

○お釈迦さまはどうやって仏陀になられたのか
お釈迦さまは、約2500年前(紀元前566年あるいは463年)にインドの北部(現在のネパール近郊)を治めていた釈迦族の王子として誕生(4月8日)されました。何不自由のない生活を送っていましたが、幼い頃より人間がもつ根元的な苦しみ「生・老・病・死」について深く思いを巡らされておられました。お釈迦さまは29才の時に、その苦しみを超える道を求めることを決意され出家されました。出家したお釈迦さまは、さっそく壮絶な苦行に入りました。しかし、お釈迦さまは6年目の35才の時に、この苦行を捨てます。苦行そのものによって悟りを開くことはできないと判断されたからです。苦行を中止したお釈迦さまは菩提樹の下で座禅を組みました。そして瞑想に入り、人間の真実、宇宙の真理について思いを巡らされました。その間、悪魔たちがお釈迦さまを襲ったといわれています。しかしお釈迦さまはこれを退け、7日目(21日目という説もある)の明けの明星が輝く頃、ついに万物の真理について悟りをひらかれ仏陀となられたのです。

○お釈迦さまの中道思想
中道思想とは仏教の根本的な思想です。お釈迦さまは悟りを開いて仏陀となられ、「欲望のままに生きて快楽を満たすこと、あるいは逆に自らの身をさいなめ苦をよしとすること、このような両極端の道は無益である」と断じて「中道」を説かれました。「真理をとらえるためには極端に偏ってはいけない。その中程を貫く過程、すなわち中道が大切なのである」と、説かれたのです。お釈迦さまが現存された時代は、真理の追究とは苦行を行うものであり、その行とは苦しければ苦しいほど良いとされた時代でした。従って、お釈迦さまの中道思想は当時としては画期的な考え方でした。お釈迦さまのこの思想は、王宮での何不自由もなく快楽に満ちた生活と、6年に渡る苦行生活という両極端の体験から生まれた思想だと思われます。ただし、お釈迦さまは苦行をすべて否定されたわけではありません。お釈迦さまは苦行によって徹底的に自我をそぎ落とす修行をした結果、欲望をコントロールし、悟りの境地に至られたのです。ただ、自分が最初に苦行というとてもつらい川を渡って悟りへの橋を架けたから、後進には極端な苦行は必要ないのだという意図で「中道」を説かれたのです。だから、ここで誤解してはいけないのは、中道思想とは「努力をする必要はない」とか、「本気でやらなくてもよい」といっているわけではないのです。私たちにとっての中道とは「極端な考え方をするな、なにごとにも偏見を持もつてはいけない」と、とらえるべきなのです。

やさしい仏教講座(第2回)

2016年08月01日

光明寺十六羅漢

○大乗仏教ではだれでも仏になれると説く

お釈迦さまは人間としてこの世に生まれ、真理に目覚めたから仏陀と呼ばれることになったのですが、お釈迦さまの入滅からおよそ500年が経過して大乗仏教が誕生すると、お釈迦さまは六道輪廻の世界で何度も生まれかわりながら修行をつづけ、最後に仏陀の化身として人間界に誕生したのだと考えられるようになりました。そして、真理に目覚めれば、だれでも仏陀になれると考えられるようにもなりました。だから仏教は、仏陀(釈迦)の教えであるとともに、みんなが仏陀になるための教えでもあるようになったのです。このように大乗仏教では私たち凡夫でも仏陀(仏)になれると説きます。これに対してキリスト教・ユダヤ教・イスラム教では、唯一絶対の神を崇拝し、崇拝する側は神にはなれません。ここが西洋宗教と仏教の大きな違いです。

 

やさしい仏教講座(第1回)

2016年07月22日

光明寺のハス

○仏教はだれの教えなのか

仏教の開祖はお釈迦さまです。だから簡単にいうと、仏教とはお釈迦さまの教えといえます。仏教の仏(ブツ)とは「仏陀」のことです。「仏陀」とは「目覚めた人・悟りをひらいた人」という意味です。「仏陀」を省略した言葉が仏(ブツ)で、それを訓読みすると「ほとけ」になるわけです。

さて、お釈迦さまは真理に目覚め悟りをひらかれたので「仏陀」と呼ばれました。ですから、お釈迦さま=仏陀であり、お釈迦さまの教え=仏陀の教えであるわけです。しかし、日本においてはもう少し広い意味を持ちます。日本の仏教は「大乗仏教(大きな乗り物の仏教)」と呼ばれ、その思想は「仏陀」を超越的存在としてとらえ、お釈迦さまは「仏陀」の化身として、この世に現れた存在なのだと考えます。そして、お釈迦さまだけでなく阿弥陀如来や薬師如来なども、おなじように真理を説く仏として崇拝します。そのため仏教は必ずしもお釈迦さま個人の教えとは限らず、「仏陀」という特別な存在、すなわち「三世十方におわします仏」が説く教えでもあるわけです。そういうわけで、仏教はだれの教えかと問われれば、「仏陀となられたお釈迦さまが説いた仏の教え」あるいは、読んで字のごとく広く「仏の教え」ということになります。

刑事ドラマなどで殺害された被害者を「ガイシャ」と呼んだりしますが、たまにベテラン刑事が「仏さん」と呼ぶこともあります。これは日本仏教、なかでも浄土教において、亡くなった人は阿弥陀如来のおられる「お浄土」に生まれ変わり、やがて仏(仏陀)になるのだと考えられていることから来ているのです。

 

※おことわり 当コーナーは今後定期掲載を予定しています。私なりの意見も述べさせて頂くつもりですが、私が最初に熟読した仏教入門書であり、一般人にとっては一番解りやすいのではと考えている市販書籍から抜粋した記述も多くなります。さらに詳しく知りたい方は、主婦と生活社より発行された、ひろさちや氏監修「仏教早わかり百科」を参照してください。

 

お宝を発見したようです

2016年05月14日

ことの始まりは大日祭の準備をしていた先月末でした。檀家の長田雅太さんが「古い掛け軸が出てきたんだが調べてもらえないだろうか」とやってきました。そして「住職なら出来るんじゃないかと思ってね」なんて、実に上手いこと言うんです。無下に断るわけにもいかず二つ返事で預かることになりました。その後忙しかったこともあってずっと本堂に置きっ放しでしたが、昨日少々本気で調べてみました。そしたらあらびっくり、予想外に貴重な作品である可能性が大でした。實空俊德、縁あって美祢市のお宝を新たに発見したようです。本日はそのことを書いてみます。

管 江嶺の作品

雅太さんが持ち込んだそれは、少々小汚い木箱に収まった見るからに古そうなヤツでした。平成19年2月17日に亡くなったお母さん(ヨシコさん)の遺品の一つだそうです。どういう素性なのかさっぱり解らないので調べて欲しいというのです。結論から申し上げると、写真の水墨画は地元美祢市(旧美東町)出身で、毛利藩のお抱え絵師だった管江嶺(すがこうれい)が77歳(喜寿)の時に描いたものだと思われます。江嶺は文政11年(1827年)65歳で毛利藩のお抱え絵師となり、天保7年(1836年)に藩主が亡くなると地元に戻りました。その後も各地を巡って多くの作品を残しており、嘉永5年(1852年)91歳で亡くなっています。平成20年11月に、美祢市と美東町、秋芳町が合併した記念行事として歴史民俗資料館で江嶺の展示会が開催されています。その際には、旧美祢市、旧美東町、旧秋芳町の個人が所蔵する掛け軸36点、屏風絵6点が特別展示されました。

ところで私は素人ですから、今回現物をつぶさに観察して確信を持ったわけではありません。しかし長田家に江嶺の作品が伝わっていても不思議ではありません。なぜなら亡くなったお母さんの実家は江嶺と同郷です。縁故などもあったことでしょう。それでこちらに残っていたのでしょう。こうなったら「なんでも鑑定団」にでも応募して確かめたくなるのが凡夫の性でありますが(笑ってください)、私はすでに「間違いなし」と勝手に思っています。

まもなく開花です

2016年03月27日

3月27日のしだれ桜

16日の彼岸会からすでに10日が過ぎました。いよいよ桜のシーズン到来です。今週末あたりから花見(ソメイヨシノ)ができそうです。山寺のしだれ桜もまもなく開花しそうです。毎年周囲の桜より少々遅くれて開花し、そして早々に散ってしまう短命な桜ですが、とりわけ雨に打たれるとあっけなく散ってしまうので、満開の姿はめったに見られません。ここ10年で本当に良かった年は2度くらいでしょうか。昨年もダメでした。人はめったに見られないと言われると、よけいに見たくなるものです。坊さんのくせに、一番それにこだわっているのがこの私ですから、実にお恥ずかしいかぎりであります。

平成28年16日彼岸会お説教

話しは変わりますが、先般の彼岸会でお説教をしてもらった吉松卓哉師(小倉南区福楽寺)はよかったですね。話しの内容うんぬんはとりあえず横に置いて、彼の(私よりずいぶんお若いので失礼ながらそう呼ばせて頂きます)話し方、聴衆への語りかけ方には特に感心しました。実に良い雰囲気を持っておられます。こういうことって、練習したって身につくモノじゃありません。もって生まれた、ご本人の内面から出てくるらしさですからね。今後も研鑽を積まれて行かれれば、間違いなく素晴らしいお説教師さんになられるでしょう。また来て頂ける日が今から楽しみな方でした。

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