こだわり住職のよもやま話

2011年

墓石に刻まれる文字

2011年02月24日

俱会一処.jpg

昨今のお墓は大抵累代墓ですが、その仏石の正面に掘られている文字はさまざまです。よく見かけるのは○○家之墓と表示してあるケースかもしれませんが、例えば日蓮宗だと「南無妙法蓮華経」と刻むことが多くなりますし、宗派によっては「南無釈迦牟尼仏」と入れてあることもあります。浄土宗や浄土真宗等では「南無阿弥陀仏」と文字を入れるケースが多くなりますが、まれに「俱会一処」と文字の入った墓石を目にすることもあります。この「俱会一処」とは仏説阿弥陀経の中に出てくる言葉です。一般的な読み方は「くえいっしょ」ですが、西山では「くかいいっそ」と発音しております。「俱会一処」とは、ともに一つの場所で出会うということです。阿弥陀経は阿弥陀仏のおられる世界、すなわち極楽浄土へ生まれる願いを起こすことをすすめています。それは浄土の仏や菩薩たちと倶に一つの処で出会うことが出来るからだと説いているのです。

俱会一処の思想を掘り下げると、私たちは、いずれは浄土において仏や菩薩だけではなく、生前お世話になったあの人や大切な人とも再会できるのです。素晴らしいことですね。しかし今ひとつあえて申し上げておかねばならないことがあります。それは今生において、怨んだり憎んだりした相手とも再会するということです。そう聞くと少々遠慮したくなる方がおられるかもしれませんが、でもそう考えてはいけません。怨みや憎しみを持ったまま浄土にいってはいけないのですから。現世において嫌いな人や憎い人と会わねばならない苦しみを、仏教では「怨憎会苦」と申します。釈迦が説いた八大苦の一つです。娑婆世界(この世)に生きる我々は、大なり小なりこの苦しみにさいなまれるのですが、しかしいずれは貴方も相手も浄土に旅立つ身です。人間は亡くなると仏の国に生まれ変わり、そこでは怨んだり憎んだ人とも仲良く過ごせるのだといいます。争いはなく平和な世界です。だから浄土に生まれ変わった人間はみんな仏になれるのです。そうだとしたら、いやだからこそ「この世でも少しはその準備をしようではないか」と仏教は諭すのです。「そういうあり方で生きて行くことが己の人生を幸せにするのだ」と説いているのです。

本山納骨のありがたみ

2011年02月15日

本山納骨堂へ登る階段.jpg

過去の記事でも触れていますが、私の実家は先祖代々浄土真宗本願寺派(西本願寺)の真宗門徒です。山口県の真宗門徒(本願寺派)は、お葬式を出したら「いずれは京都にある親鸞聖人のご廟所(墓所)おそばに納骨して差し上げよう」という意識がかなり定着しています。本願寺派(西本願寺)門徒の納骨場所は大谷本廟で、浄土真宗二大勢力のもう一方、真宗大谷派(東本願寺派)門徒の場合は大谷祖廟になります。ですから、真宗王国である地元の葬儀屋さんは、頼まなくても勝手に(?)納骨用の小さな骨壺を用意しています。

私の祖父と祖母も分骨されて大谷本廟に眠っています。山口からだと時間も費用もかかり大変ですが、それでもみなさん結構納骨されているようです。その点、我が宗派は本山への納骨を積極的に勧めていなかったのか(広報活動が足りなかった?)あるいは代々の住職が積極的にお勧めしなかったせいなのか?そこらあたりの事情は解りませんが、少なくとも我が山寺においては定着しているとは言えないのが実情です。私自身も、坊さんになるまで本山に納骨するという善行(習慣?)をよく理解していませんでした。亡くなった人のお骨は、その家のお墓に入っているのが当然で、わざわざ山口くんだりから京都まで運んで分骨する意義を深く考えたことなどありませんでした。むしろ「むやみやたらと遺骨を分散させるのは良くないのでは?」なんて、根拠のない心配をしかねない愚かな衆生でした。たまたま(失言、こういうときは縁あってと書かねばならない)実家とは違う宗派ではあるが、お坊さんになってしまったので(ならせて頂いたでしょう)本山へ納骨することの意義について、さすがに考えるようになりました。

法然上人の石棺

さて、仏教徒において亡くなった方のお骨を分骨するという行為は、お釈迦様がその始まりでしょう。釈尊がクシナガラで涅槃に入られた後、その遺骨は8等分されて仏舎利塔がインド各地に建てられました。約200年後のアショーカ王の時代には、さらに分骨されて8万余の膨大な寺院に仏舎利(遺骨)が再配布されたといわれます。多くの人々がお釈迦様を慕い、その遺骨(仏舎利)が納めてある各地の仏塔へ参拝出来るようにしたのです。

日本にも仏教の伝来とともに仏舎利がもたらされたようです。そういう歴史的な背景をかんがみると、敬けんな仏教徒であれば、お釈迦様や菩提寺の本山等にある宗祖の霊廟(お墓)等のおそばに故人の遺骨を納めて供養したいと考えるのは、ある意味とても自然なことなのです。ちなみに国内においてそういう考え方で先亡が眠る特別な場所としては、高野山がよく知られています。高野山は真言宗の開祖、弘法大師空海さんの霊廟があるわけですが、その周囲には膨大な数のお墓があります。宗派に関係なく実に多くの人々が眠っています。分骨したのかどうか詳しいことは知りませんが、なんと法然上人のお墓もあります。興味深い事です。

法然上人御火葬跡.jpg

今年は宗祖法然上人の800年御遠忌の大法要が4月19日より本山で開催されます。私は檀家さんをご案内して参拝致しますが、山寺の檀家さんには本山への納骨をその際に行われる家もあります。本山の納骨堂は本堂(御影堂)の背後にあります。そんなに大きな建物ではありません。百段近い階段(回廊)を登って行きますが、かなりの急勾配なので随分高い所になります。そして納骨堂のすぐ隣には法然上人の御廟(墓所)があります。お釈迦様と同様に法然上人も分骨されて御廟が複数ありますが、ある意味西山浄土宗総本山光明寺の御廟は本家本元のお墓といえます。上人は総本山光明寺の境内で荼毘に付され、この地に最初のお墓(御廟)が設けられました。境内には上人の石棺や火葬の跡も残っており、納骨堂は法然上人の御廟(遺骨)のすぐ隣です。まさにすぐそばです。この事実には正直「ありがたいなー」と思わずにはいられません。

我が宗派は巨大な組織ではありません。ですから納骨堂へ納められる分骨の絶対的な件数は限られており意外とこぢんまりとしています。それゆえに、あんなにすぐそばに納めて頂けるわけです。実に俗人的な見方ですが、この事実を知ると「大所帯ではないからこそのメリットだなー」と思ってしまいます。残念ながら通常は納骨堂と御廟に近づくことは出来ません。要するに納骨しないと確認出来ません。だからあえて書いてみました。

宗祖800年御遠忌法要厳修

2011年01月25日

百万遍数珠くり.jpg

今年は宗祖法然上人八百年御遠忌の年なので、浄土宗系の各本山は一斉に大法要を開催します。我が宗派の本山、京都府長岡京市にあります西山浄土宗総本山光明寺においても、4月19日から一週間にわたり大法要が開催されます。4月20日には組内の末寺が合同で団体参拝を計画していますから、私は檀家さんをご案内して本山を訪れることになります。きっと大変な人出でしょう。それから本年は親鸞聖人の750回忌にも当たります。ですから真宗各本山においても親鸞聖人の御遠忌が盛大に執り行われます。今年の京都はひときは賑やかになりますね。

さて、法然上人は建暦2年1月25日(1212年)に亡くなられました。山寺では大昔から御祥忌日の直前(毎年1月20日)に、いわば法然上人の年忌法要である「御忌会」を開催しています。今年も厳しい寒さの中で修行しました。本堂にはストーブとホットカーベットを用意していますが、壁や床の隙間から容赦なく 冷たい風が吹き込みます。参詣のみなさんには阿弥陀経と日中礼賛偈に付き合って頂きましたが、お経が少々長すぎたかもしれません。皆さんさぞかし辛かったことでしょう。勤行の後は今年も老僧(先代)による恒例の百万遍数珠くりです。車座になって長い数珠を繰っていただきました。お念仏を称えながら大きな数 珠を繰っていると、しばし寒さが忘れられたかもしれませんね。百万遍数珠くりでひとしきり賑わった後はお説教をさせて頂きましたが、これまた少々長すぎ た。あの寒さですから「来年はもっとコンパクトにしなくては」と反省しております。

舜青寺本堂.jpg

ところで、御忌会をこの一番寒い時期に開催しているお寺が組内にあります。昨秋に晋山式が開催された舜青寺さんです。(11月1日記事で掲載済み)私は22日に開催された舜青寺さんの御忌法要に初めて出席させて頂き、金座席で勤行の進行役を務めさせて頂きました。複数の僧侶で読経を行う際には、このお役目どころが上手くリードしないと良いおつとめになりません。別の言い方をすると、読経をリードするお坊さんがお上手だと導師はとっても楽なんです。私も坊さんになりたてたの頃、自坊での法要の際に組内の西光寺住職にたびたび金座を勤めて頂いて大変お世話になりました。金座とはそういう大事なお役目ですから少々緊張します。これが一人で行う勤行だと、自分の好きなようにやれるので大して緊張しないのですがね。(笑い)ですから他寺の法要に参加させて頂くのは大変ありがたいことなんです。否応なしに、良い意味で適度な緊張感を伴いながら読経することになります。自分の修行にもなるのです。それと舜青寺ご住職の法話を拝聴することも出来ました。これがとてもよかったのであります。

舜青寺さんでは毎年勤行の後に住職が法話をされています。先代がご健在の頃は、お二人(先代と現住職)が一席ずつ話をされていたそうです。先代の語りは録音を持っており何度も聞かせて頂いておりますが、現住職の法話(お説教)は初めてです。それで前席後席と二席ともしっかり聴かせて頂きました。ただし正座が苦手な私には少々こたえました。私はお坊さんとして出席しておりますので当然衣をまとっております。となると膝を崩して拝聴するというわけにはまいりませんからね(笑い)以前にも書きましたが、住職は流石に元教頭先生です。実に話し方がお上手です。あのゆったりとした語り口はマネできません。私は人前でしゃべると「伝えたい伝えたい」の思いが強すぎて、ついつい早口になってしまいます。そこが最大の欠点であることを重々承知しているのですが、これが直せません。昔の人はいいました「人の振り見て我が振り直せ」って。でもこれが難しいのであります。

浮石義民の案内

当日、私は少々早めに舜青寺を訪れ境内にある旧豊田町指定の史跡をじっくり見学しました。それは「浮石義民の墓」と呼ばれている古い墓所です。かってこの地(浮石村)で飢饉があった際に、年貢の軽減を幕府に直訴して村を救った人々の墓所です。命がけの行動により村は救われましたが、彼らは直訴の罪により処刑されました。村民は密かにその遺骸をこの場所に移し供養したのだと伝えられています。今でも毎年彼らの命日12月22日には舜青寺で供養の法要が営まれています。

浮石義民の墓.jpg

舜青寺さんの御忌会は大変勉強になった一日でした。そして大きな収穫が得られた一日でもありました。なんてったって来年の御忌会の説教師が確保出来ちゃいました。自坊では毎年ほぼ同じ顔ぶれを前にしてお説教をします。だから、たちまちネタ切れになります。同じ話ばかりでは皆さんもつまんないですからね。来年の我が山寺光明寺の御忌会では「舜青寺住職・漆間朋道師」で予約が成立です。あーありがたやありがたや。

豪雨災害、それから

2011年01月16日

被災した美祢線鉄橋.jpg

本日もめちゃ寒いです。今朝は昨夜から断続的に降り続いた雪が随分積もっていました。幸か不幸か(?)今日は百ケ日忌法要と納骨が予定に入っています。それで私はいつもより随分早めに自宅を出ました。高速道路(中国道)は通行止めになっていますし、県道33号は雪でツルツルです。いつものペース(田舎は平均スピードが高い)で走る訳には行きません。それでのろのろ走って、昨年の豪雨で被災した美祢線の鉄橋が眺められる場所まで到達した時にふと思い立ちました。被災したその鉄橋が前々から気になっていたので、ちょっと寄り道して写真を撮ってみました。この鉄橋は県道からよく見えます。この辺りは鉄道マニアがよく訪れる撮影ポイントでした。昨年の豪雨の際には新聞等でその無残な姿が掲載されていた場所です。実はもっと大規模な鉄橋の完全流失が数キロ下流で発生していますが、そこは道が無いので近づくのが困難な場所です。(後に地方紙に写真が出ていました)私はあの日以来ほぼ毎日のように被災したこの場所を横目に寺へ通っていますが、雪景色の中で眺めると随分印象が違って見えるものです。

被災した美祢線.jpg

8月19日の記事で美祢線が「廃線になるかもしれない」と心配しましたが、幸いなことに今年は山口国体があるので何が何でも(?)秋までに復旧させることになっているようです。よかったです。もし国体が無かったらアウトだったかもしれませんね。ただし地元の者としては「本当に国体に間に合うの?」の思いはぬぐえません。今のところ目立つ復旧工事は始まっていません。もう半年経過したというのに大丈夫なんでしょうかね。それと美祢市から下関市へと続く県道33号線の完全復旧も待ち望まれます。7月15日の豪雨で美祢線厚保駅(あつえき)前の崖が大規模に崩落したため長らく通行止めになりました。この崩れた斜面の頂上には、かつて当郷の地頭であった厚氏(あつし)の館(大村城)がありました。城の北東側は険しい断崖絶壁で、そのすぐ下には厚狹川が流れています。大村城の背後はいわば天然の要害でした。だからこの場所に城があったのですが、その断崖と厚狹川とのわずかな隙間に今日では無理矢理(?)県道33号が走っています。

厚保駅前の崩壊した崖.jpg

山寺光明寺には当郷の地頭であった厚氏の菩提寺(曼陀羅寺)と合併した歴史があります。それで私は厚氏の最初の館とされる大村城に関して少々調べたことがあるのですが、今は復旧工事のために斜面の立木等が伐採されており、大昔のものかもしれない(鎌倉期?)石垣跡や断崖絶壁側から頂上へ登るためと思われる連絡通路の跡(?)等が観察しやすくなっています。この被災現場を車で通る度に、私はついつい見上げてしまいます。美祢市内から進んで来ると、現在交互通行の信号で、ちょうど停車する辺りに路線バスの停留所があります。道路の左下は厚狹川です。そこには一本の街灯があるのですが、ごらんのとおり見事に折れ曲がっています。昨年の豪雨の際には、この場所は完全に水没し濁流に飲み込まれました。今も街灯の先端部にゴミが引っかかったままで実に象徴的です。

濁流で傾いた街灯.jpg

復旧工事中の現場は、厚保駅へ渡る橋との三叉路を含んだ長い距離が規制されています。それで赤信号一回で4分位待たされます。早く復旧して欲しいですね。都会人にしてみれば「4分?それくらいどうてことないでしょう」と云われそうですが「田舎の4分」は実に長いものです。何てったって本来信号機で停車なんてほぼ皆無の田舎道です。車の平均スピードはかなり高い土地柄ですからね。それと田舎とはいえ朝夕は運が悪いと2回待ちのケースもあります。だから地元の皆さんは一様に「長いなー」とぼやく事になる。「新聞が読めるぞ」と言われる方さえおられました(笑い)

さて、冒頭に書いたとおり本日は百ケ日忌の法要と納骨がありましたので、私は装備万端で出かけました。お仏壇でのおつとめが終わるといよいよ納骨です。お墓は山の中へ徒歩で登ります。私は境内の草刈りの際に愛用しているマリンブーツと、昨年末に通販で調達したダウンのコートを坊主衣装の上に羽織り、頭にはニット帽(坊さんは冬になると必需品です)で完全武装です。雪が積もってますから歩くのは少々難儀でしたが、ここまで準備しておけば寒くありません。さすがに墓前での読経中はコートなど着てられませんから少々辛かったですが、本日はまさに「備えあれば憂い無し」でありました。それにしてもモンベルのダウントラベルコートは逸品です。入手しておいて大正解でした。この冬はもう手放せません。

今年は本当に寒いですね

2011年01月12日

法然上人800年御遠忌を告げる.jpg

みなさん開けましておめでとう御座います。本年最初のアップがずいぶん遅くなりました。申し訳ありません。今年もマイペースでブログを書いて行こうと思っております。よかったら時々覗いて下さい。

年末からずっと寒い日が続いています。山寺の大晦日は雪になりましたし、松の内が過ぎても相変わらず冷たい雨や雪の日ばかりです。本日も朝に雪が降りました。昨年末は立て続けに葬儀があったので「きっと今年はおひまでしょうね」と思っていたら、お正月そうそうに檀家の村上 栄さんの葬儀を厳寒の中で行うことになりました。故人は長年地元の消防団長を務められておられ、その社会貢献に対して叙勲を受けられておられました。お葬式の遺影はその際の正装姿で実に素晴らしいお写真でした。こういうケースを目にすると、人間いつお葬式になるかわかんないですから「写真をきちんと撮っておいたほうがいいかなー」なんてつくづく思いました。

話は変わりますが先日息子と二人で京都まで日帰り出張をしました。新幹線での移動でしたが、その日も雪だったので終日ダイヤは乱れていました。いよいよ息子も高校卒業です。幸か不幸か一応わが宗門のお坊さんの資格を得る道に進むことを承諾してくれたので、春から彼は京都で一人住まいとなります。それで彼のねぐら(?)を確保するために出向いたのです。不動産屋で学生向けアパートの物件を見させてもらったのですが、私が学生だったころに比べると、その変わりようには驚きます。

三十年以上昔の話ですから比べたって仕方ないのでしょうが、私など四畳半一間の風呂無し激安物件、家賃は今でもよく覚えている驚異の三千円/月なんていう超ボロアパート(正確には長屋だな)に住んでいたものですから、今時の物件を見させて頂くと、いずれも御殿みたいなものでした。トイレとお風呂はビジネスホテルと同様のユニットバス。エアコンはしっかり付いていますし、地デジ対応でインタネーット接続環境も完備が当たり前です。床はフローリングが主流で衣類等の収納(クローゼット)等も完備です。羨ましいったらありゃしない。いろいろあった物件の中でも、ほぼ最安値に近い学生向けアパートで我慢してもらうことにしましたが「仁志君、住む所に贅沢をすると他のことにお金が使えなくなるから、これくらいでガマンした方がいいよ」だなんて、親父の口車に思いのほか素直に乗ってくれました。「あーめでたしめでたし」であります。こう書くと私がとても苦学したみたいに聞こえますが、実際のところは他のことにお金が使いたくて住居費を超節約していただけです。私の経験からすると住むところは静かな所であればさして気にすることは無い、優先順位は低いと考えるからです。それよりも自分のしたいことや必要と思うことに使えるお金を確保しておいた方が絶対充実した学生生活が送れると思っていたからです。いつまでもそこに住む訳じゃないのですからね。

我が家は妻と結婚して以来ずっと狭い公団アバートに住んでいます。今は四人家族ですからすでに手狭でどうしようもない状態です。とても他人様に見せられるような状態ではありません(笑い)ですから本人にとって京都での一人暮らしは初めて自分だけの部屋を得ることになるのです。この程度でも彼にとっては素晴らしい環境なのです。住居に関して贅沢を知らないで育った我が息子は、こういう時には実にありがたい存在です。これで今春から私は所用で京都へ出向いた時に息子のアパートへ転がり込むことが可能になります。ビジネスホテルの予約などしなくてもOKです。一番喜んでるのはこの私なのかもしれません。

さて無事息子の住まいが確保できたので、ついでに本山へ立ち寄ってみました。今年は宗祖法然上人八百年御遠忌(上人の八百年回忌)の年です。総門前にはすでに四月十九日から七日間にわたって開催される御遠忌の告知が高々と掲げられていました。ご覧の通り実に古典的な形をしています。写真では解りませんが、この看板はとても大きなものです。本山の随身学生(住み込み修業中の若い僧侶)たちが法要の度にこの大看板を立てるのですが、これがけっこう大変な作業です。

本日も本堂でこの記事を書いていますが、実に寒いこと。もう降参します。

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